第六部(2、雨乞岳)

  雨乞岳 1979年秋


 滋賀から三重に抜ける道は、主に北から国道306

号線の鞍掛峠越え、421号線の石槫峠越え、477

号線の武平峠越え、そして国道1号の鈴鹿峠越えで、

その中でも最も景色が良いところは、有料道路の鈴鹿

スカイラインが通る武平峠越えである。

 付近の山は、人気の御在所岳や鎌ガ岳等の鈴鹿セブ

ンマウンテンが上げられる。しかし、静かな山旅が好

きな宏幸と由美子は、御在所から少し西に行った、御

池岳に次ぐ鈴鹿山脈第二の高峰、雨乞岳(標高123

8m)をこの秋の山旅に選んだ。

 車で、鈴鹿スカイラインを滋賀県側から入り、武平

峠の1km程手前右側の駐車場に車を停める。土曜日

の朝10時頃だが駐車している車は2台のみである。

 そこから、車道を少し戻ると右に稲ガ谷登山口があ

り、ここが雨乞岳の最短コースになる。この沢沿いを

谷を縫うように進む。途中の滝を2箇所過ぎ、やがて

山腹を巻きながら進むと大滝が見えてきた。

 そして、竜胆やマムシクサの実を横に見ながらジグ

ザクに急登、やがて西隣からの道が合流する。

「何気なく歩いているけど、この登山道ってどこの所

有かわかるかな・・」

「えぇっと、この辺は国有地かな。でもなんでそんな

こと聞くの・・」

「そやかて、山での事故は自己責任が原則やけど、最

近の風潮として、登山道が整備不良で怪我した時に訴

える人が出るとも限らんやろ。これから増えてくるん

ちゃうか」

「そうね、そうなったら困らないように登山道に所有

者の標識も建てろと言われそうね」

「ところがそんな簡単にいかんのが実情や思うわ。例

えば一つの山頂までの1本の登山道でも、山麓の町道

を通り私有地も通り、尾根道は県境を通っている場合

が多いし、頂上はまた神社の所有地を通っていたりす

る。その上所有は国やけど、管理は都道府県や市町村

がやっている場合も多いんで、ますますややこしくな

る」

「そのうち、登山道の整備費用を捻出する為に、登山

道通る場合は通行料払え言われる時代が来るかも知れ

ないね。今の政権政党やったらやりかねないかも」

「そうなったら大変やで。いちいち現地で通行料徴収

するの大変やから事前に申請せよて役人は考えるで」

「申請した登山道以外通ったらダメ、なんてこともあ

りうるね」

「山では病気や怪我、天候異変でエスケープルート取

らないかんことも有るけど、それも出来んとなったら

遭難が急増するで・・」


 登山道利用申請に二人が行くと、受付の方から、

「今までは関係役所等に、それぞれ申請していただい

ていましたが、この度、一括管理すべく、財団法人日

本山岳センターができましたので、非常に便利になり

ましたよ。

 それではこの書類に必要事項を記入して出してくだ

さい。登山道の所有管理分類はあちらに備え付けの書

籍を見て、調べてください」

「登山道の所有管理が複数になっていますが、申請書

は1枚ではダメなんですか?」

「別々に書いてください。利用料納付先が異なります

ので」

「ここの国立公園を通るルートなんですが、所有は林

野庁、管理は環境庁と書いてあります。どちらにすれ

ばいいのですやろ?」

「2枚書いてください」

「県境のルートも2枚書くんですね」

「よくお解かりで。1枚しか出さない場合は道の片側

を歩いていただくことになります」

「名勝の前を通るのですが・・」

「そこは所有ではないのですが、文部省指定地ですの

で、文部省にも提出してください」

「この、権益新道と呼ばれている所はどうなりますの

やろ?」

「その登山道は今井権三さんと今井益次郎さんが大正

時代に切り開いた道なので権利料が発生します。お二

人は親子だったので権三さんの遺産は益次郎さんが引

き継がれましたが、今はその権利が子孫の5人に引き

継がれましたので、5枚書いてください」

「現金で払うのですか?」

「それぞれに写真2枚と収入印紙を貼ってお出しくだ

さい。2週間後に顔写真入りの通行許可証が送られて

きます。登山される時は必ず首から吊り下げ、監視員

から提示を求められたら速やかに見せてください。な

お有効期限の切れたものは2週間以内に返送して下さ

い。返送なき場合は反則金1千円徴収された上、次回

の許可証は発行されませんのでご注意を」

「宏幸、何枚書いたの?」

「15枚や。一つのルートに同じ所有者の登山道が離

れて有る場合は2枚書かされたわ」

「まるで落語の善哉公社みたいね」

「財団の役員報酬と、監視員の給料だけで通行料の大

半が消えてしまうで」

「役人の天下り先増やしただけね」


「なんてことにもなりかねんわ」

 ヤブ漕ぎが続き、ヤブトンネルを抜けるとススキが

一面に広がるT字路に出た。頂上は左へ少し登ったと

ころであるが、ガイドブックでは東雨乞岳が展望が良

いと書いてあるので右に登り、先にそちらで昼食であ

る。登山口から丁度2時間で着いた。

 御在所岳や鎌ケ岳などがよく見える。南西斜面や前

面の七人山北西斜面は紅葉が綺麗なところである。

 この景色は、二人の為に用意されたキャンバスのよ

うに見える。そして他の登山者もいない。

「由美子の作った最高の料理を食べながらの絵画鑑賞

は、この上もない幸せいっぱいだ」

「おだてが上手くなったわね。でもあなたの為にまだ

まだ腕を上げるわよ」

と言いながら、由美子は作ってきた炊き込みご飯のお

にぎりを差し出す。宏幸が半分に割ると、銀杏、鮭、

マイタケが出てきた。

「この辛みは、ひょっとして生姜かいな・・」

「そう、擦った土生姜を入れて炊いたの。食欲増進と

殺菌を兼ねてね」

「よう考えてるなあ」

「はい、これも食べてね」

と、チーズかぼちゃを箸でつまんで、宏幸の口に放り

込む。

「旨いのはええけど、無理に突っ込むなよ」

 昼食を終え、西へ10分程で雨乞岳山頂である。頂

上は狭く、背の高いササと潅木に遮られて、座るとあ

まり展望はきかないが、3脚を石の上に載せて使えば

何とか写真を撮れる。

 山地図にはないが、頂上から南への尾根道が、笹原

とススキの中に伸びている。

「前に歩いている人もいるようね、行ってみましょう

よ」

「迷うたら自己責任やで・・」

 原っぱを5分ほど下ると、後方でガサガサと音がし

た。右後方を振り返ると二匹のカモシカがいる。

「つがいかしら・・」

「多分そうやろ。鈴鹿山系はカモシカが多いのや。天

然記念物に指定されていて、保護されているからな」

 道は下りながらも相変わらず尾根を通っている。二

人は、しばらくして前を歩く登山者に追いついた。

 ところが、登山道を表す赤リボンは付いているが、

50メートル置き位に間隔があいてくるとともに、足

元は人があまり通ったような形跡がなくなってきた。

 頂上から30分ほど下った頃だろうか、三人の足が

止まった。

 もう一人の登山者が、

「谷の方へ少し踏み後があるようだわ。道が有るか見

に行ってくるわな」

「じゃ、私はこのまま尾根を少し下っていきますわ。

お互い10分経ったら元に引き返しましょう」

と宏幸は答え、由美子をその場に待たせた。

 20分後に、引き返してきた宏幸は、

「何とか100メートルくらい毎に、赤いリボンは続

いているわ。下へ行った人は未だ戻ってきてないな」

 もう10分待った。

「遅いわね」

「ちょっと見てくるわ。20分後に戻るから」

 結局その人は見つからず、戻ってもこなかった。

「細い道はあるし、横に谷は有るが水は流れていない

ようや。滑ったような跡もない。大声で呼んでみたが

返事がないのや」

「どうするの・・」

「どうもこうもないやろ。道に迷った人を探しに行っ

て、谷に下りたら二次遭難する可能性大や。10分で

戻る約束を破った人もええ加減や。幸い尾根道は続い

ているようやからこのまま行くよ」

 二人は急ぎ足で下り、何とか鈴鹿スカイラインの、

滋賀県側料金所の近くに無事下りることが出来た。秋

の夕暮れは早い。西の空が茜色に染まってきた。

「それにしても、さっきの人は無事下山できたかしら

ね・・」

「わからんな」

と言いながら、駐車場に近づくと車が一台出て行く。

「あっ、さっきのやつや」

「失礼な人ね、挨拶もなしで」

「名古屋ナンバーやな」

「山登りする人は、善人ばかりと思ったら大間違いや

で。誰も見ていないから、マナーもルーズになりやす

いし、極端な事言えば犯罪も起きやすいのや。テレビ

ドラマでも、わからん思うて山に死体捨てたりするの

がええ例や」

「山登りで、その人に性格やマナーが知れるのね」

「ゴルフもそうや。いつもスコア誤魔化して、社内か

らも取引先からも嫌がられているのが、うちの職場に

もおるわ」

 そんな話を車中でしながら、湯ノ山温泉のホテルに

着いた。


章末注記

・鈴鹿スカイラインは、1997年無料開放された。



・・・転勤 に続く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る