第六部(1、剱岳)


  剱岳  1979年夏


 日本アルプスでは、一般登山の中でレベルの高い部

類のトップは剱岳であろう。宏幸は、由美子が妊娠し

て子供ができれば、この辺のレベルは当分登れないの

で、早いうちに選んだ。

 北陸周りで室堂まで行き、室堂山荘に1泊する。

 次の日は、テント村雷鳥沢から浄土川の橋を渡り、

立山を右後ろに見てジグザクの雷鳥坂を1時間半で登

り、別山乗越へ着く。ここから岩の殿堂剱岳が右に屹

立して見える。

 30分で一気に剱御前(2777m)へ登ると、左

から薬師岳(2926m)が見えてきた。

 二人は、黒ユリのコルからコバイケイの群落を見な

がら剣沢に下り、明日の難所に備えて、少し早いが剣

山荘に宿を取った。


 翌日は、小屋を7時に出発、一服剣に着くと、益々

岩峰が迫ってくる。

「見上げる感じね。私でも登れるか自信が無いわ」

「圧倒されて、ここで引き返す人が結構いる様やが、

意外と楽に登れると、ガイドブックは解説しているん

で、勇気を出して行こう」

 1時間半程で二人は前剱(2813m)に立った。

昔、軍隊が剱岳を目指して登った時、視界が悪くて、

ここを剱岳と間違えたそうで、軍隊剱とも呼ばれてい

るピークである。

 二人は、先ず断崖を4~50m程トラバースする。

「鎖にあんまり頼らず、断崖にも引っ付きすぎずに渡

ろうや」

「あなたの体とロープで繋いでくれないの・・」

「そんなことせんでも大丈夫、落ちたら骨は拾ってや

るから」

「そんなぁ・・。あなたは、ロープ繋いでいたら、私

が落ちた時に体重を支えきれないと思っているでしょ

う」

「読まれたか・・」

 そうこう言っているうちに渡り終えた。しばらく行

くと、誰かが叫んだ。

「あっ、危ない。滑落や」

 その人は足を滑らしながら十メートルほど落ち、宏

幸と由美子の先を登っていた三名のパーティーの前で

止まった。岩角で足首を引っ掛け、ひねったようであ

る。すぐにそのパーティーが駆け寄った。そして前後

の多数のパーティーも緊張する。 

「どなたか、ステロイド剤をお持ちの方はおられませ

んか?」

「持ってますよ」

 宏幸のすぐ下から応答があった。その人が登ってく

るのですべての人が道をあけた。滑落した人を少し見

るなり、

「捻挫してますね。私看護婦です。すぐ痛み止めを注

射しますよ」

「誰か無線持っておられる方、救援を呼んで貰えませ

んか?」

「いまやっています」

 見事なものである。緊急時にこれだけすぐに判断で

きる人が大勢いると、宏幸は感心する。

「山では何が起こるかわからん。起こったときに自己

責任で判断できる能力があるかないかで生死を分ける

こともあるんや」

「心も、靴紐も引き締めて行きましょう」

 次は、カニの縦這いである。鎖場直下で50人程が

渋滞中で、取り付くまでに30分以上二人は待たされ

る。

 その間、景色はゆっくり見られる。天気も良く、登

山者にとっては、心地よい西風が吹いている。

「当分良い天気が続くやろう・・」

「どうして判るの?」

「夏に西から風が吹くということは、西側に高気圧が

ある証拠。天気は西から言うやろ」

「あ、そうか」

「反対に、東からの風は、高気圧が通り過ぎて東側に

あるから、悪うなる前触れという事」

 やっと順番が来たので由美子が先に登る。宏幸は、

「三点支持で鎖を補助にゆっくりと足元を見据えて登

るんや」

 由美子が登りきるのを確認し、宏幸が取りつく。結

構岩の割れ目の手掛かりが多く登りやすそうに思われ

るのだが、60度勾配で17m程の高さがあり、緊張

は解いていない。

 続いて、水平にトラバースして行き、尖った岩に足

場を丁寧に選びながら上ると頂上である。

 小屋から、途中休憩を含め4時間余りで、弘法大師

がわらじ千足履きつぶしても登りえなかったと言われ

る、剱岳(2998m)を、二人は遂に捉えた。

 真東が鹿島槍ガ岳で、左へ五竜岳、唐松岳から白馬

三山へと、後立山連峰がブルースカイを突き上げるよ

うに続く。

「2年前に歩いた下の廊下はこの下ね。露天風呂のあ

った阿曽原小屋はどのあたりなの?」

「方角で言うと、五竜方向やな」

「ひとっ風呂浴びてこようかしら」

「往復4~5日かけてもええんやったらどうぞ」

「そんなに遠いの?」

「直線なら10km程度やが、雪渓や残雪も多て、一

般ルートでもアイゼンやピッケルが要るし、下ったら

もう登る気がのうなるで」

「そのまま宇奈月温泉におりて、帰るわよ」

「負けん気強いなあ」


章末注記

 ・剱岳は再測量で、標高2999mに修正された。



・・・雨乞岳 1979年秋 に続く。

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