第五部(8、宮之浦)

  宮之浦 1979年春


 結婚を機に、二人の山旅の範囲は、ますます広がっ

ていった。そんな中でも、屋久島は思い出に残るもの

だった。

 鹿児島までは伊丹から飛行機で行き、フェリーに乗

り換え宮之浦に着いたのは、5月のゴールデンウイー

クがあけた9日だった。

 安房にある今夜の民宿に入るにはまだ早いので、バ

スで平内海中温泉に行こうということになった。

 屋久島の北側にある宮の浦港から、海中温泉は丁度

島を東廻りに半周したところである。そこで降りる客

は二人だけであった。

 途中、若いバスの運転手からは、

「あんまり人の来ないところですよ」

と教えられていた。

 ハイビスカスの咲く道を、海岸方面に少し下ると温

泉の看板があり、その看板を見て、

「えっ、無料やんか。しかも管理人もいない、脱衣場

もない所や」

「潮の満ち引きで、温泉が出来たり無くなったりする

んだって」

 そこは岩場が多く、ところどころに直径2、3mの

窪みができたところに湯が湧き出ているのであり、海

水が満ち潮時に入り込み、適当な温度になっている。

「なかなか風流やなぁ」

「何言っているのよ、水着持ってきていないわよ」

「大丈夫や、岩陰で脱いで、そのまま滑り込めよ」

「でも誰かに見られないかしら・・」

「俺が見張っていてやるから先に入れよ」

「もういいと言うまで、向こう向いててね。脱いでる

とこ見ちゃいやよ」

 由美子は、リックからタオルを取り出し、岩陰に行

き脱ぎ始めた。

 宏幸は、しばらく向こうを向いていたが、気になり

だしそって振り向くと、ちょうど由美子が湯壺に身を

沈める直前だった。

 後姿だけれども、真っ白な裸身を見てしまった宏幸

は、わが妻ながら照りつける太陽よりも眩しく思う。

 もういいと言われて近づき、

「ウミヘビは、泳いでないか・・」

「ええっ、そんなのいるの・・」

「エラブウミヘビ言うて、猛毒持ってるらしいで。も

っとも、ウミヘビは温泉には弱いんで、いないと思う

が、念のためや」

「透明なお湯で、よく見えるから大丈夫よ」

「誰も見てないし、写真とろか・・」

 由美子は両手を胸に当てながら、

「いいけど、ここより下は駄目よ」

「湯の中に浸かっていれば、肩から上しか写らんよ」

 宏幸はカメラアングルを変えて、数枚を撮り終える

と、

「一緒に入るよ」

「絶対にだめ。だって人が来たらどうするのよ」

 本当に、いつ人が来るかもわからないところでもあ

り、百メートルほど離れたところにも民家が建ってい

て、覗かれているかも知れない。宏幸はやむなく立ち

番をしながら、由美子とその向こうに広がる、大海原

に目をやった。

 静かな潮騒と、のどかな日差しで、宏幸は、いつま

でもここに居たい気分になる。

 由美子と交代に宏幸も湯に入り、同じように写真を

撮りあった。

 1時間ほど過ごしバス停に戻ると、5分ほどで折り

返しのバスがきた。運転手は、行きのバスと同じ人だ

った。乗り込むなりニャッとされた。


 次の日は、早朝にタクシーで東側のアプローチ、淀

川登山口まで行く。こちらのアプローチは、春からい

ろいろな花が見られるという。

 淀川小屋を越え、高盤岳展望台までの間にも、サク

ラツツジや、咲きかけのヤクシマシャクナゲが見られ

た。

「ねえあなた、シャクナゲって何処にでも咲くものな

の・・」

「なに言うてるの、2年前に大台ケ・・」

 宏幸は、そこで言葉を切ってしまった。

「えっ、今なに言いかけたの。おおだいって何・・」

「いや、2年前に大台ケ原のシャクナゲが、鹿に荒ら

されたって記事が載ってたのを思い出したんや。シャ

クナゲは日本全国だけではなく、東南アジアでも見ら

れるそうや」

 由美子は、宏幸のごまかしに気が付かなかったよう

である。

 日本最南端の高層湿原、花之江河を越え、黒味岳の

東を巻いて行くと、二匹の屋久鹿に遭遇した。

 いくつかにピークを過ぎれば、双耳峰の宮之浦岳

(標高1935m)に着いた、登山口から約5時間余

り。丁度昼食時である。

 そこから、今夜宿泊する高塚小屋までは3時間半ほ

ど。その間は、ヤクササの多い道である。

 高塚小屋は管理人はいない。到着時間が早く、二人

が一番乗りである。無人であるが故に掃除が行き届い

ていない。

「さあ、奉仕活動しよう」

「そうね、タダで泊めてもらうので、それくらいやら

なくっちゃ」

 箒(ほうき)掃きと雑巾かけを1時間ほどやり終え

る頃に、宿泊者がぼちぼちと入って来だした。やがて

一人の女の子が駆け込んできた。

「すいません、ケガではないんですけど、すぐ近くで

一人歩けなくなって困っています。どなたか来てもら

えませんか・・」

と救援要請が入った。

 宏幸は、さっき湯を沸かして入れたおいたテルモス

を持ち、すぐに同行していくと、学生風の女の子が木

陰で横になっており、胸はくつろげてある。

 どうやら軽い脱水症状で、よく聞くと、昨夜の酒の

飲みすぎと寝不足が原因らしい。宏幸は、

「いま時分は、水より温かいお湯を飲むとええよ。喉

に刺激を与え、胃腸にやさしいから」

と言って、テルモスのお湯を少し冷まし、彼女の仲間

が持っていたポッカレモンを垂らして飲ませた。

 20分余りで回復したので、一行共々小屋へ案内し

て事なきを得た。

「新しく買ったテルモスが役に立ってよかったね。去

年に製品化されたものね」

「山渓で紹介されていたから直ぐに飛びついたんや。

今までは冷たい水を飲んではグルピーにようなったけ

ど、これのお陰で温かい水分補給ができて、雉打ちが

少のうなって助かるわ」

 二人が夕食を終えた頃に、くだんの女の子がやって

きて、

「先ほどはありがとうございました。おかげで助かり

ました」

 と言いながら缶ビールを差し出した。宏幸は、よっ

ぽどの酒好きやなと思いながら、

「どういたしまして。今夜は飲みすぎんように」

 無人小屋なので布団は無い。宏幸は持ってきた衣類

を全て寝袋の下に敷き、身を横たえたが、なかなか寝

つかれない。しばらくすると、由美子の寝息が聞こえ

てきた。

「神経がズ太いもんは、早よう寝付かれて楽やな。あ

やかりたいわ」

 そうは言うものの、もらったビールを飲んだのが効

いてきたせいか、そのうちに宏幸は眠りに落ちた。


 三日目はハイライトで、大株歩道と呼ばれる、縄文

杉、夫婦杉、大王杉、ウィルソン株などが続くところ

を通過する。

 小屋から10分で、根まわり43メートルと言われ

る縄文杉である。二人はゆっくり一周し、元の位置に

戻り、振り返ると屋久鹿が近づいてきた。登山者が与

える食料を期待しているのかもしれないが、可愛いか

らと言って与えてはならない。

「昨日も屋久鹿に会ったけど、奈良の鹿に比べて少し

小さいわね」

「ベルグマンの法則って知ってるか?」

「知らないわ」

「哺乳類などの恒温動物で、同じ種の動物は緯度が高

くなるほど、即ち寒い地方に棲んでいるほど、体が大

きくなるという法則や。いい例が、本州に住んでいる

月の輪熊より、北海道のヒグマの方が大きく、更に北

極熊の方がより巨大や」

「何故そうなるの?」

「・・調べとくわ」

「あなたの雑学って、広く浅くよね」

「博学って言うてほしいなぁ」

「はくがくのはくは、薄いと言う字ね」

「・・・」

 そこから1時間でウィルソン株に着く。中に入ると

結構広い。適当に隙間窓も開いていて、通風採光がよ

く、端に寄れば雨露もしのげそうである。

 更に20分程でトロッコ道に出た。ここからはほぼ

水平な道が続く。あまり足元に気を付け無くてよくな

り、二人のおしゃべりに熱が入る。

 1時間余りも歩いた頃に、

「もう、そろそろ白谷雲水峡に出られる分かれ道が出

てきてもいい頃やなあ」

「そうね、ウィルソン株を出たのが9時30分頃で、

今が11時丁度だからそろそろね」

「ウィルソン株は9時20分頃やなかったかぁ・・」

「もう少し行ってみましょうよ」

と言いながらも、二人は既に、その分かれ道を15分

前に通り過ぎていたのであった。

 更に歩くこと15分。

「やっぱり行き過ぎてるわ。登りの人に会わへんのも

おかしいやないか」

「引き返しましょう」

 戻ること30分。右側に楠川別れの小さな標識が出

てきた。

「ちょっとした不注意で、もう少しで道迷い遭難だっ

たわね」

「大層なこと言うんやない。それよりも一寸急ごか。

雲水峡で見ていた余裕時間を使うてしもたしな」

「宮之浦港の3時のフェリーに間に合うかしら」

「大丈夫や、もっと遅い最終にさえ乗れば、何とかな

るわ。鹿児島で宿探しが遅うなるけどな」

 結局二人は、昼食代わりの行動食を食べながら、あ

わただしく雲水峡を通過し、タクシーに飛び乗り、港

には3時前に何とか着いたのであった。


 後日写真のプリントを見て、大変なことを宏幸は発

見した。

「由美子の入浴写真に、オッパイ写っとるやないか。

ファインダー覗いた時は、波が動いてて気が付かなん

だけど・・この写真は由美子に見せんほうがええな。

見せたら、今度から撮らせてくれへんようになるしな

あ」

 しかし、他の写真を見せた時、

「あれっ、私の写っている海中温泉の写真は・・」

「手ぶれであんじょう写ってなかったのや」

「そう残念ね」

「今度から、重いけど三脚持っていくわ」

 宏幸は、うまく誤魔化せたと思った。



  第5部 完

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