第五部(2、下の廊下)

  下(しも)の廊下 1977年秋


 紅葉は、北アルプスが定番と思うようになった宏幸

と由美子。今年は、下の廊下に行くことになった。黒

部ダムが出来るまでは、平ノ渡しが上と下の境であっ

たが、今は黒部ダムより下流が下となっている。

 上の廊下は、黒部川の上流に行き、所々で道なき川

中を遡行するのだが、川中で足の立たない所もあり、

宏幸は最初から行く気はなかった。なぜなら、宏幸は

全く泳げないのである。その点、下の廊下は登山道が

黒部川に沿いに、よく整備されている。

 米原から夜行列車の急行北国で富山まで行き、宇奈

月温泉まで鉄道で入る。そこから関西電力のトロッコ

鉄道に乗り込む。10月下旬で、宇奈月は紅葉が始ま

っていたが、あいにく小雨混じりで、終点の欅平で、

宏幸は雨カッパを着るように由美子に言う。

「半分は、屋根が被さったような所を歩くらしいが、

雫も結構落ちてくるから着とこか」

「風は無くてよかったね」

 欅平駅の裏から、いきなり蜆坂の急登だが、一気に

上りきると水平道が始まる。

 この登山道は、元を正せば、黒部ダム建設の為に岩

肌をコの字に削り取り付けられたものであるが、掘り

進めた当時の労働者の労苦が、岩肌のノミの跡に見ら

れるという。

 歩くこと4時間余り、雨がやむ頃に、本日の宿泊地

阿曽原温泉小屋にたどり着いた。

 さっそく冷えた体を温めるべく、宏幸は様子見がて

ら、一つしかない露天風呂に入浴する。ただし照明も

なく、薄暗い夕明かりだけが頼りである。

「ぬるかったなぁ。それに男共が占領して、とても由

美子には薦められんな」

と、大部屋に帰るなり由美子に言った。

「えぇ・・せっかく楽しみにしてきたのに、がっかり

だわ。体が冷えて寒いわ」

「俺があっためてやるよ」

「いやよ。皆が寝静まってから行ってくるわ」

「一人で大丈夫かぁ・・」

「何言ってるのよ。一緒に行って、貴方が見張りして

くれるのが当たり前でしょう」

 ということで、夜中の12時頃に二人は這い出し、

懐中電灯片手に露天風呂へ。

「貴方、先客が二人いるみたい。女の人よ・・。覗い

ちゃ駄目」

「えぇ、残念な・・」

「さあさあ、ユーターン」


 二日目は昨日の天気と打って変わって晴天で、6時

に出発した。

「秋の長雨が上がると偏西風が強まり、大陸方面から

の冷たい移動性高気圧がやってくるんや。ここ二、三

日は良い天気やろう。よお色づくでぇ。山頂付近はい

きなり新雪に見舞われたりするんやけどな」

「いいんじゃない、紅葉と新雪のコントラストを一回

見てみたいわ」

「去年の涸沢で見たやないかいな」

「あそっか、忘れてた」

「能天気やなぁ」

「ところであなた、モミジとカエデの違いって知って

るかしら」

「よう聞いてくれました。モミジの語源は、もみつと

言う動詞で、紅葉することを指すんや。カエデは、葉

の形が蛙の手に似ているところからきたもんや。又、

葉の切れ込みが深いもんをモミジ、浅いもんをカエデ

と区分して呼んでるようやけど、実は学術的には区別

がないのや」

「詳しいのね」

「伊達に住宅の設計やってませんよ。京都の風致地区

なんかは、外構計画でどんな種類の木を何パーセント

植えろっていう規制があって煩いから、調べたんや」

「そうね、でも、うちの事務所でランド模型作らされ

たりするけど、木の種類なんか気にしないわ」

 仙人ダムの上を右岸へ渡り、東谷にかかる百メート

ル程の吊橋を渡れば、やがて地下発電所の送電線が見

えてくる。この辺りは、左下を見下ろせば川面までが

目も眩むような高さだ。そしてS字峡から半月峡に入

っていく。

 歩き始めて約三時間半で十字峡に着いた。西からは

剣岳に端を発するからの剣沢と、東からは、爺ガ岳に

端を発する棒小屋沢の白い急流が注ぎ込み、青い黒部

川の流れに混ざる珍しい場所である。

 そして、更に1時間ほどでの白竜峡だ。昼食を摂り

ながらも、対岸の白い滝と草紅葉に箸が止まる。

 大へつりの断崖路を、幾度も折れ曲がりながら行く

と、対岸には落差の大きい新越ノ滝が現れる。この辺

りもイタヤカエデの紅葉が見事である。

 午後1時半、水量豊富な内蔵の助谷に出会う。

「朝通った阿曽原峠からと、ここの谷から溯って、う

ちくらのすけべえを北上するのが、東側から登る剱岳

へのルートや」

「うちくらのすけべえ?」

「山地図に書いてあるやろ」

「これって、くらのすけだいらって読むんじゃないの

かしら?」

「よう判ったなぁ」

「だって、大石内蔵助と同じでしょう。山科の大石神

社に行った事あるもの」

「京都住まいが長いからなあ」

「剱岳へは、どれくらいの時間で行けるの・・」

「ここからでも1泊2日は見なあかんやろ。北アルプ

ス三大雪渓の剱沢雪渓もあるしな」

「去年登った白馬の雪渓と、あと一つは何処・・」

「針ノ木雪渓。扇沢からすぐや」

「帰りに連れってよ」

「もう一泊できたらな」

 内蔵の助出合を過ぎた頃からはコースの最終段階に

入り、ブナの黄葉を愛でながらの登りを辿ると、目的

地の黒部ダムが見えてきた。ダムに近づくほど、堰堤

は見上げるほどに高くなり、直下に着いたのは、阿曽

原温泉を出てから9時間後の午後3時であった。ダム

上に登れば、夢の通い路から、俗世間に戻る喧騒が待

っていた。


章末注記

(1)阿曽原峠からの仙人湯小屋に出るルートは廃道

  になり、代わって仙人ダムからの雲切新道が、2

  007年につけられた。


(参考文献)

ブルーガイド 立山剣黒部雲ノ平   1973年版

                  実業之日本社

「ヤマケイJOY」秋    1988年10月版他

                   山と渓谷社



・・・ギター教室 1977年冬 に続く。

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