第五部(1、雲の平)

  雲の平 1977年夏


 夜行列車で富山まで乗り、朝一番のバスに乗り替え

有峰湖が見えると、もうすぐ折立で7時40分に着い

た。そこから、ひたすら登ること約6時間あまりで太

郎兵衛平着。ここまでは、一昨年、西銀座ダイヤモン

ドコース等に行った時と同じ道である。今回も宏幸と

由美子は太郎平小屋に泊った。


 明けて快晴のもと異郷の楽園に向けて出発である。

薬師沢まではひたすら下っていくと、途中から薬師沢

源流沿いの道になり、水芭蕉の大きな葉が目に付く。

「さっき出合った人は細長いケース持っていたけど、

ひょっとして中身は釣竿・・」

「山女や岩魚が釣れるようやな」

「こんな山奥まで、しんどいめして来るなんて物好き

ね」

「釣師も我々を見て、おなじ様に思ってるんかもね」

 河童伝説のある、カベッケガ原の草原を抜け、太郎

平小屋から3時間余りで、薬師沢と黒部源流の合流点

に建つ薬師沢小屋に到着。少し早いが、

「あひる飯にしよう」

「あひる?」

「朝飯と昼飯の中間やからあひる・・」

「じゃあ、昼飯と晩飯の中間はひばん飯ね」

「ひっかかったなあ。残念、小昼と言うんや」

「こびるって、何?」

「知らんのかいな。昔の百姓は重労働で一日5回食事

したんや。その内3時頃に食べる食事を小昼言うたん

や」

「今でもそうなん」

「まさか。でも子供の頃に、親の実家が百姓やったん

で、田植えと稲刈りは必ず手伝いに行かされたわ。そ

の頃はまだ残っていたな。いつも家でばあちゃんが作

った小昼を取りに帰らされたわ」

「今で言う、3時のおやつね」

「それなりにボリュームがあった筈や。そやけど田舎

に行くのはあんまり好きやなかったんや。日の暮れに

なっても、稲刈りの後にハサ掛けをしてしまわんと終

わらんかったしな」

「暗くなってもやるの」

「当たり前や。日の出前と日没後は、カーバイドいう

臭い匂いのするランプ点けてやるんや。カーバイトは

今でもキャンプ用品として売ってる筈や」

「ハサは今でも田舎へ旅行すると時々見かけるわね」

「米は天陽で自然乾燥させたものが美味いんや。最近

の出荷する米は、コークス燃料の乾燥機で強制乾燥さ

せてるから味は落ちるけど、農協への出荷の期限があ

るからやむなく使うてるんや」

「天陽干しの米はどうしたら手に入るの・・」

「農家の保存している、自家米を少し分けてもらうし

かないな。食管法ちゅう悪法が残っとるから、昔やっ

たらヤミ米買うたら後ろに手が回ったけど、今はザル

法やから大丈夫や」

 水を補給して11時前に小屋を出発。吊橋を渡ると

きつい登りが始まる。手袋をはめ、木の根や岩に手を

掛けて登り、後半はやや勾配は緩くなるものの、ぬか

るんだ道を歩くこと3時間余り、やっと樹林に囲まれ

たアラスカ庭園に到着した。

「雲上の楽園の入り口や」

 奥日本庭園を通り、雲の平の中心ギリシャ庭園に建

つ、マンサード屋根が特徴の雲の平山荘に3時半到着

した。

 赤い大きな引き戸を開けて、受付で1泊2食一人3

700円を払い、大部屋に荷物を置き散策を始める。

 先ずはアルプス庭園へ。360度のアルプス大パノ

ラマが楽しめる。

「ここは、南東に見える祖父岳が噴火してできた溶岩

台地やそうや」

「日本では一番高いところにある台地と、ガイドブッ

クに書いてあったわね。溶岩台地って、他にどこがあ

るの・・」

「美ヶ原に霧が峰、弥陀ヶ原に五色が原、苗場山もそ

うかな・・。日本列島は火山列島やからどこにでも有

るんや」

 そして反対側の奥スイス庭園は、コロナ観測の鉄塔

があるコロナ平へと続き、下っていけば高天ケ原方面

に行ける。

 午後5時を廻り、大部屋に戻ると、いつの間にか満

員状態だ。夕食を済ませ布団に包まる。布団幅が80

センチほどしかない。

「すし詰めやなあ」

「あんまりくっ付かんといて」

「なんでや・・」

「汗のにおい残ってるでしょう」

と、由美子が小声になってしゃべる。

「由美子のにおい嗅ぐと、刈りたてのワラの上に寝転

がってる感じするわ」

「どんなにおいなのよ・・」

「少し青臭さが残った、イグサより甘い感じかな」

「わからないわ」

「とにかく、由美子は肉類あんまり食べてへんからや

と思うで」

「そんなの関係ないでしょう」

「ところが、肉食動物は脂くさいけど、草食動物はい

い香りするのと同じや」

「私は鮎かしら・・」


 次の日も晴れの天気が続く。雷岩からスイス庭園に

入ると、池塘とチングルマのお花畑である。

北東端まで行くと岩苔小谷が覘け、その向こうに双耳

峰の水晶岳がそびえる。

 元の道を戻らずに先を行くと祖父庭園に入り雪渓が

ある。色取り取りのテントも花盛りである。そこから

は日本庭園を通らず、コバイケイ咲く道を祖父岳(2

821m)へと行き、岩苔乗越を目指す。

「さあ、いよいよ黒部源流の最初の一滴を見に行こう

や」

 祖父岳から下ると、ハクサンイチゲと、遠くにシナ

ノキンバイらしき群落が見える。

 岩苔乗越から緩やかな草原の谷合いを下ると、チロ

チロと流れ出る黒部源頭に到着。

「ここから始まり、奥の廊下、上の廊下、下の廊下と

続き、富山湾へと冷たい水を運んでいくのやなあ」

「富山湾の蜃気楼も、この冷たい水が原因で起こると

聞いたわ」

「メカニズムは・・」

「理科系人間はすぐ理屈知りたがるのね。冷たい水が

流れ込み、湾内の空気の下層が冷やされた結果、暖か

い上層の空気との間で、光の屈折率が異なる為に起こ

る現象ね」

「理路整然やな」

 由美子は、カップを取り出し、

「きれいな水が流れ出てるのね。飲んでも大丈夫かし

ら」

「ええけど、飲みすぎんようにな。渇水で黒四ダムが

発電できんようになるから」


章末注記

(1)雲の平山荘は1959年築。2010年建て替

  えられたが、屋根は旧山荘と同じ、マンサード

  (正確にはギャンブレル屋根)になっている。

(2)富山湾の蜃気楼のできる原因は、諸説ある。


(参考文献)

ブルーガイド 立山剣黒部雲ノ平   1973年版

                  実業之日本社

「ヤマケイJOY」秋    1988年10月版他

                   山と渓谷社



・・・下の廊下 1977年秋 に続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る