第四部(5、白馬三山)

  白馬三山 1976年夏


 宏幸の白馬は2回目で、前回、佐知子と来た時は、

しろうま岳から北上して、栂池に下ったが、今回は南

下し、いわゆる白馬三山を縦走、唐松岳から八方に下

るコースである。

 以前と同じく、夜行のちくま号で白馬駅に早朝到着

したが、生憎の雨になった。

「由美子の晴れ女も今日は、はずれやなぁ」

「雨男の貴方が一緒だからよ」

 呼びかけが、最近は、宏幸くんから貴方に変わって

きた。

「口の減らん娘やな。雨にぬれてもまた楽しだ、前向

きに考えようや」

「そうね・・チャンチャカチャカチャカチャン・・」

と、由美子が口ずさみ始めた。

「雨にぬれてもやな、学生時代に、明日に向かって撃

て、見た言うてたな」

「ブッチがエッタを自転車の前に乗せて、デートする

場面ね」

 白馬尻に着く頃には、雨は小止みになったが、ガス

が立ち込め、雪渓も先の方は見えない。

 アイゼンを着け黙々と登る。聞こえてくるのは、ザ

ックザックという、雪を踏む音だけである。突然由美

子が、

「霞んで見えにくいけど、あの右手の黄色い花は何な

の・・」

 雪渓をトラバースして近づくと、

「シナノキンバイや。上に行ったら、もっといろんな

花の群落があるはずや」

 宏幸は、忘れかけていた佐知子との花旅を思い出し

て、しばし花を見つめていると、

「貴方、なにニヤついているの・・」

「雨の中でも、可憐に花が咲いとるから、見とれてい

るだけや」

「そうかしら。ここにも、口うるさいけど、見とれて

もいい花がいるんだけど」

「次行ってみよう」

 結構楽しそうなかけあいの旅が続く。

 雨のおかげで、登山中の汗が発散せず、小屋に着い

ても、下着まで濡れている。こんな時は個室で着替え

たいので、申し込むと空いていた。

「先に着替えるから、入ってこないでね」

「濡れた体拭いたげよ思たのに」

「貴方は、それが愛情や思ってるんでしょう。でもす

ぐに悪さするからダメ」

 由美子の着替えが終わり、宏幸が中に入ると、

「おいおい、もうパジャマかいな。晩めしはお部屋食

違うで」

「食堂行く時は、この上にセーター羽織るから大丈夫

よ」

「いつもの性格が、よう出とるわ」

 一休みしたころ、6時半組の晩飯コールがかかる。

「さおお待ちかねや。おっと懐中電灯忘れたらあかん

で」

「まだ要らないでしょう」

「この部屋の天井見てみ、電灯なしや」

「よく気が付いたわね」

「それから、鍵も付いてないから貴重品もや」

「明日は晴れるかしら・・」

「小屋の壁に天気図の書いた黒板があったやろ。低気

圧は大分前に通過したから大丈夫や」


 二人が白馬山荘で迎えた朝は、昨日とはうって変っ

て、すがすがしい晴れ模様で、先ずは朝食前に、しろ

うま岳(標高2932m)に登る。由美子が雲海に見

とれて、

「こんな世界があるのね。たまらないわ」

「そうやろ、だから山登りはやめられんのや」

 7時半に山荘を出発。メインの稜線散歩が始まる。

まずは杓子岳(標高2812m)をめざす。黒部側か

ら吹き上げてくる、さわやかな風に乗って、由美子は

口ずさみ始めた。

「♪命かけてと、誓った日から・・」

宏幸も、合わせる。

「♪・・あの、すばらしい愛よもう一度」

「学生時代に、よく歌ったね」

 杓子岳を水平に、黒部側に巻いて行き、左に雲海を

眺めながら、石屑だらけの鑓ガ岳(標高2903m)

もなんなく過ぎて、小さなアップダウンを繰り返しな

がら、天狗ノ頭(標高2812m)に向かう。

「この鞍部から、左の雪田を下った所に、鑓温泉があ

るんや」

「入ってみたいわ」

「由美子はすぐ乗ってくるけど、予定外の、登り下り

のロスタイム計算せんと言うから困るんや」

「でも、そう度々こられないから行こうよ。それにま

だ朝の9時過ぎよ、大丈夫」

「ちょっと待ちいな、今調べるから」

と、宏幸は山地図「北アルプス北部」を出してくる。

「あかんわ、下り1時間半、登り3時間、風呂入る時

間入れたら、5時間はかかる」

「地図では近そうに見えるけど・・」

「登りが下りの倍あるということは、かなりきついや

ないか。鎖場もあるし、温泉入った意味がなくなるか

ら、今回はパスや」

 由美子は残念そうにしているのだが、宏幸は出発を

促す。天狗池で水を補給。この辺りは、コイワカガミ

が美しい所である。そこから天狗ノ頭まで行き昼食。

ここを越えると、天狗ノ大下りになる。

「ここを下って、最大の難所、不帰のキレットが、今

日のハイライトや」

「尾根がだいぶやせてきて、足がすくみそう」

 途中、畳1枚弱ほどの、平べったいスラブ(露岩)

を通過しなくてはならない。

「先に行くから、渡り方をよう見とくんやで」

 宏幸は露岩の上を渡り始める。すこし岩がぐらつく

が、鎖に沿いながら四つんばいで渡りきる。

「さあ来るんや」

「見ていてね」

 ところが、由美子は途中で止まってしまった。

「怖いのよ。下っ腹あたりが締め付けられる感じがし

て、進めないわ」

「下を見ないで、こっちを向いて真直ぐ来るんや」

 岩をカタカタ言わせながら、何とか宏幸の手の届く

所まで這ってきた。

「無事通過」

「まだまだ気ぃ緩めたらあかんで。あと何箇所か鎖場

があるから」

 不帰の嶮のトラバースは、カニの横歩きもあるが、

由美子にとっては、先ほどの恐怖に比べたら、幾分か

楽だったようである。

 やがて、午後3時半を過ぎて、唐松岳の登りにかか

る頃、緊張の連続も、ようやく無くなってきた。

 唐松岳(標高2696m)の頂上に立つと、すぐ下

に、今夜のねぐら唐松岳頂上山荘がある。

「やっと着いたなあ」

「もうヘトヘトよ。足にみがいったわ。肩も凝ってる

みたい」

「今夜、ゆっくり按摩してやるよ」

「夕べみたいな、変なことしないでね」

「今夜もしてほしいんかいな。大部屋なんやから、で

けへんで」

 夕食は、コロッケに刻みキャベツ添えと、人参と大

根の煮物で、缶ビールは平地の2倍もするが、

「喉越しがたまらんなあ」

「一口目がおいしいのね」

 二人は350ミリリットル缶を分け合って飲んだ。

 明日は下山というので、食堂で遅くまで、と言って

も8時過ぎまで、隣のペアと山談義が弾む。大部屋に

戻り、

「さあ按摩タイムや。足を壁の近くに持ってきて、う

つ伏せになるんや」

と言って、宏幸は由美子を腹ばいにさせた上で、冷た

い濡れタヲルをふくらはぎに乗せた後、足裏のツボを

押す為に、壁に手をつきながら、足裏に乗って足踏み

を始める。

「気持ちいいわ」

「そうやろ。後で代わってや」

 5分程で交代する。宏幸も足裏を踏んでもらい、ま

た由美子を伏せさせる。

「次は、ふくらはぎと太ももや」

 最初はゆっくりと揉みあげる。

「あいたたっ、みが入っているから、もっと優しくし

てよ」

 やがて、太ももからお尻の両サイドを指圧している

と、寝息が・・

「なんや、もうお寝んねかいな。よっぽど疲れとるん

やな。ビールも飲んだことやし」

 宏幸はそっと布団をかけてやり、トイレに行った後

は、腕が火照っているので外へ出て、小屋のベンチで

夜空を眺めていると、

「優しいのね。いつも彼女にマッサージやってあげて

いるの・・」

 いつの間にか、夕食後に、山談義を交わしていた女

性が声をかけて来た。

「そういう訳でも・・」

 暗がりであったが、宏幸は食堂でみた、清楚な感じ

を思い出した。左隣に座られると、ぬめやかな匂いが

してきた。年は二つ三つ上のような気がした。

「星が綺麗ね。山の上で見ると、天の川もはっきり見

えるのね」

「彼氏は・・」

「飲みすぎて、すぐ寝ちゃったわ」

「そうですか」

「お名前教えてくださらない。私は濱田比呂子と言い

ます」

「宏幸、高木宏幸です」

「高木さん、実は私、星占いを最近やりはじめたんで

すけど、実際に蠍座がどの辺にあるのか、まったくわ

からないんです。教えてもらえませんか」

「蠍座ですか、じゃあ11月生まれ・・」

「21日」

「僕は蠍座の最終日、22日生まれで、1日違いです

ね。今だったら蠍座は丁度五竜岳の上の方で、天の川

沿いにある、あのエス字の形をした明るい星ですよ」

と、宏幸は右手の指を指して教える。いつもの宏幸と

違い、言葉使いが関西弁でなくなる。

「えっ、どのあたり・・」

と、比呂子が宏幸の指指す方向を見ながら、頬を近づ

けてくるので、思わず宏幸は左手を比呂子の左肩に乗

せてしまう。

「あれですよ、よく見れば、エス字の上から、3本手

が出ているように見えるでしょう」

と言って、今度は比呂子の手の平を指でなぞる。

「ほら、ちょんちょんちょんの下に、エスの字で蠍に

見えるでしょ」

「なるほど、そう言われればそうね」

 この後の展開は・・。こんな出会いとスリルも、宏

幸の山旅の楽しみでる。


 宏幸は、昨晩ちょっと興奮したおかげで、朝が遅く

なって、二人が起き出した頃には、もう隣のペアは、

布団があげてあり、キスリングも無かった。

・・昨日は聞くの忘れたけど、どっちへ行ったんやろ

な・・

と思いながら、8時頃に小屋を出ると、くだんのペア

が唐松岳から降りてくる。

「おはようございます。これから登りですか・・」

と由美子に向かって、男のほうが声をかけてきた。

「いえ、昨日しろうまから下ってきましたので、今日

は八方に降りて帰ります」

「僕たちは、唐松岳だけの山登りでしたから、同じよ

うに下ります。ご一緒しましょう」

 二人の会話は弾む。残った二人は、その間終始無言

で見つめあっている。

 そんなわけで、由美子と相手の男性が先に進み、比

呂子と宏幸が続く。

 少し前の二人との間があいた隙に、宏幸が、

「よく眠れましたか・・」

「ちっとも。それに誰かさんのイビキが聞こえたりし

て・・」

「由美子ですよ。疲れると、よく掻くんです」

「そうですか、でも彼のイビキも大きくて」

 すると、足を止めて振り向いた由美子が、

「なにこそこそ話しているの・・」

「いや、夕べの二重奏の話や」

「なんの二重奏・・」

「イビキの話でしょう」

と、彼氏。

「私イビキなんか・・」

「二人も証言があるから、有罪や」

と、宏幸。由美子が、

「それはご迷惑さま。でも寝入ってしまえばわからな

いわよ。ねえ、濱田さん」

・・えっ、同じ苗字、夫婦かいな・・

と、宏幸は心の中でつぶやいて、比呂子の顔を見つめ

る。

・・そうなんです。知らずにあんなことしたの・・

と、目で返してくる。

・・けど指輪してなかったよね・・

と、手を見つめる。

・・でも、ちょっとスリルがあって、久しぶりにワク

ワクしたわ・・

・・ごめんなさい。忘れてください・・

 八方池手前の、丸山下周辺まで下ると、チングルマ

の群落が多く見られる。池まで下って、早い昼食を摂

り、結局宏幸達と濱田夫婦とは、ここで別れた。

「素敵なペアーね。私たちもそうありたいわね」

「お手柔らかに」

「濱田さんって、建設省のお役人ですって。長野県の

ダム工事で、今松本に単身赴任だそうよ」

「住まいは・・」

「神奈川ですって。こうやって奥さんが時々長野にや

ってきて、二人で山登りするそうよ」

「夫婦がいつもべったりより、新鮮さが保たれるかも

な。でも比呂子さんの方はやっぱり一緒にいたいのが

普通やと思うがなぁ。旦那は羽伸ばせへんけど」

「貴方はあこがれるの・・」

「ちょっとな。でもうちの会社は転勤ゆうても京阪神

どまり。だめやなぁ。やっぱり、いつでも、由美子に

耳掃除してもらえるほうがええわ」

「うまいこと言うわね」

 今回も楽しい旅の思い出を抱いて、松本からの夜行

で帰る二人であった。


(参考文献)

アルパインガイド 白馬岳後立山連峰 1975年版

                   山と渓谷社

夏山JOY    1975年6月号他 山と渓谷社

山と渓谷     1988年8月号他 山と渓谷社



・・・涸沢 1976年秋 に続く。

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