第四部(3、雛人形)

  雛人形 1976年冬


 宏幸は転職した。実は、彼の職場の会社では、贈収

賄事件が発覚して、多数の逮捕者が出たあとに、急速

に経営が悪化したので、早い目に見切りをつけた。

 世間では、よくある事と言われるが、官公庁から発

注された工事に対し、いわゆる手抜きの見返りに、役

人に利益供与したのである。後でわかったことだが、

三階建ての高等学校で、高さが30センチも低かった

所もあったという。


 次に選んだ会社は電鉄系の住宅会社である。数年前

から、電鉄会社が線路を延伸することに併せて、系列

会社は沿線を開発してゆくやりかたで業績を伸ばして

行った。

 退職直前は、千里中央の現場が職場だったので、自

宅から地下鉄乗り継ぎで45分たらずだったが、今度

は地下鉄と国鉄を乗り継いでの、大津が職場である。

 大阪駅から国鉄に乗るのだが、いつも宏幸は早く並

んで1、2本電車を見送り、座席を確保する。何日か

経つと、乗る車両の位置も定まってきた。日本人だけ

に限らないかもしれないが、降りる駅の階段付近に合

わせて、乗車駅の位置を決めるのが一般的だ。その為

に乗る駅は違っても、降りる時は、よく見かける人々

が多くなる。

 そして、高槻から乗ってきて、京都で降りる三人連

れの女性が、しばしば宏幸の前に立つことがあった。

 最初は、気にもしていなかったが、時たま聞こえて

くる、三人の会話から気づくことがあった。

 どうやら、彼女たちは三条烏丸付近にある信販会社

の社員であり、会話の内容は、社内でのゴシップネタ

で弾んでることも多いようだった。

 そんなある日、宏幸は昨日の残業の疲れのせいか、

うつらうつらとしている時に、かすかに聞こえてきた

会話があった。

「・・お雛さんみたいやね・・」

 お雛さん。確かに、宏幸の耳にはそう聞こえた。最

初は何のことかわからずにいると、クスクスと小さく

笑う声も。宏幸は薄目をあけ、様子を伺うと、なんと

三人組のうちの一人の娘が、いつのまにか宏幸の席の

横に座っている。

 宏幸は迷った。さてどうしたものかな。

・・もう少し寝たふりしていようか。それとも聞こえ

ましたとばかりに、その娘の顔をみてやろうか。でも

後者を選択したら、明日から、この電車に乗ってこな

くなるかも知れんな。ここはひとつ、このまま様子見

といたしましょう・・

 しかし、それっきり三人の会話は途切れたので、宏

幸は、

・・この娘は俺に気が有るんかな。ひょっとしたら、

こちらからのアクションを待っているんかも知れん。

でも直接行動より、他の二人から手を廻すことが出来

けんかな・・

 いろいろと手前勝手な想像を巡らすうちに、京都駅

に着き、三人組は下車した。


 つぎの日も高槻駅から彼女たちは乗り込んできた。

しかし、宏幸の近くには寄ってこなかった。宏幸は、

くだんの娘を目で探したが、今日は乗ってきていない

ようだ。

・・何があったのか。昨日の彼女たちの会話中に、目

覚めていたことに気付かれていたのか・・

 またもや宏幸は思案しだした。そんな時だった。

「あのう、これ読んでもらえませんか・・」

と、いきなり声がした。

 宏幸は気付かなかったが、いつの間にか、くだんの

三人組の一人が側に来ていた。

「えっ・・」

 宏幸は次の言葉に詰まった。

「昨日、貴方の横に座った娘がいましたやろ、気ぃつ

きませんでしたか。彼女は貴方に話があるみたいよ」

「何のことやろ・・」

「そんなん彼女に直接聞いてよ。それより、今すぐそ

れ読んで、丸かバツかの返事聞かせてよ」

 渡されたものは、三つ折のメモ書き程度のもので、

デートの誘いである。

「明日高島屋の前で、7時にお待ちしています。宮沢

裕子」

と書いてあった。高島屋は四条河原町角にあり、有名

なデート待ち合わせスポットである。

・・高島屋前デートデビューだ・・

 宏幸の心は躍った。そして宏幸の思案、いや妄想が

始まった。

・・何を話そうかな・・気の利いたセリフも用意しな

くては。何処へ行こうかな・・今な

ら、北野天満宮の梅が満開近いと、職場の連中が言う

てたが、ちょっと遠いか・・。いや

やっぱり、デートは鴨川沿いの薄暗がりで、おしゃべ

りや。学生時代から、鴨川アベックを一度はやってみ

たい思うていたんや・・並んで座り、彼女の肩をそっ

た抱く。傾けた頭が僕の肩に乗ると、少し震えている

のがわかる。そして目を合わすと・・

「返事は・・」

 頭の片隅に、由美子の顔が浮かんだが、

「も、もちろん丸です」

「あっ、すいません、貴方のお名前も教えていただけ

ませんか・・」

「恭子、武内恭子です」


 宏幸は、職場を6時過ぎに出て、山科経由の京阪電

車で四条まで乗り西へ歩く。約束の時間の15分ほど

前に着いたが、高島屋前は待ち人達で混んでいた。

 宏幸の周囲では、次々に待ち人の相手が現れ、カッ

プルとして去り、あいた隙間に別の待ち人が入る。

・・待ち合わせスポットを現実に目の当たりにする

と、よくもまあ入れ替わり立ち代り、沢山のカップル

ができるもんやな。俺もその一人、いやその二人にな

るのか・・

 待ち人は7時きっかりにやって来た。しかし三人揃

ってである。

 恭子に向かって、怪訝な顔を思わず向けた宏幸に対

して、

「裕子一人が行くとは書いてなかったでしょう。高木

宏幸さん」

「何で僕の名前を・・」

「当然でしょう。私たちの職場は信販会社なんよ。信

用調査は朝飯前、調べはついてんだから」

 もう一人の娘が、

「・・というのはウソよ。一度、朝に貴方の会社まで

そっとつけて行き、入口で押したタイムカードで知っ

ただけなんよ」

「大胆な人たちやなあ」

 とにかく皆で食事しようと決まり、北へ少し上った

所にある、味ビルへ入った。

「高木さん、裕子のことどう思はる・・」

「どうって、可愛い娘ですね」

「それだけ・・」

「彼女と付き合う気ぃない?」

「急に言われても・・」

「急じゃないでしょう。あなた毎日のように見ている

でしょう」

「裕子はお嬢さん育ちで、いわゆる晩生なの」

「あとは宏幸さん、リードしてやってね」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。僕の返事も聞か

ないで・・」

「いやなん・・こんな純情で可憐な娘やのに」

「そんなことないけど・・」

「じゃ、承知しなさいよ」

「強引やな、とりあえずビール飲ましてえな、一息い

れてから返事しますよって」

 宏幸は勿論断るつもりはなかった。

・・据え膳食わぬわなんとか、由美子には内緒や・・


章末注記

(1)アベックは死語。今は鴨川カップル。



・・・鴨川アベック 1976年春 に続く。

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