第四部(2、比良南西稜)

  比良南西稜 1975年秋 


 秋も深まり、宏幸と由美子は、紅葉の綺麗な比良山

系の南西側から武奈ガ岳を目指すことになった。国鉄

湖西線も74年に開通、堅田駅からはバスに揺られて

1時間弱、安曇川沿いの坊村で下車する。

 比良山荘の前の道を左折、明王院の中を抜けると、

直ぐに御殿山登山道が始まるが、かなりの急登にな

る。やや南西向きの斜面で、植林された木々が高く聳

え立つ。

「陽が当たらんから、草花があんまり生えてないな」

「そうね。リンドウとかセンブリが咲いているかと期

待していたのに、残念ね」

と、水筒のキャップを開けながら、由美子が答える。

「人手不足で、間伐や枝打ちがおろそかになると、山

は荒れてくるのやろうな。地肌ばかりが目立つが、大

雨が降れば、こんな急斜面やから、登山道は川に変わ

るで」

 やがて木々が自然林に変わる頃に、勾配は緩やかに

なり、色づいた雑木の稜線を暫く行くと、一本松に着

いた。左の開けた小さな広場に日帰り用のザックをお

ろす。

「休憩しようや」

「宏幸くん、このかたまって生えている、菊の葉っぱ

みたいなのは何なの」

「驚くなかれ、トリカブトや。花の咲く前の若葉は、

ニリンソウの葉に間違えるそうや。

嘘か本当か知らんけど、おひたしにして食べて死んだ

人もあったらしい」

「トリカブトって、・・根だけに毒があるのじゃない

の」

「全部が毒や。トリカブトの解毒剤は無いから近寄ら

んことやな。間違うても、花が咲いた時に、匂いなん

か嗅いだらあかんで。花粉も毒やから」

 御殿山(標高1097m)の頭を超え、目指す武奈

ガ岳の見える緩い下りを行くと、ワサビ峠に着いた。

ススキの白と低木の紅葉、疎らに生えた針葉高木の緑

のコントラストに、二人は暫し見とれる。

 ここからが西南稜と呼ばれる所で、由美子が手折っ

たススキを振りながら、先を行く。

「ウキウキ気分で楽しそうやな」

「だって、紅葉も鮮やかな上、秋風も爽やかで、言う

事なし」

 40分程で武奈ガ岳山頂(標高1214m)に二人

は立った。

「空が真っ青で高いな。伊吹山も良く見えるわ。おっ

と、左奥の白いのは白山やな」

「空が高く見えたり、遠くの山まで見えるのは、空気

が澄んでいるからね」

「そうやな。じゃ秋は何で空気が澄んでるんや・・」

「空気が乾燥してるからじゃないの・・」

「半分正解。あとの半分は、中国から、あんまり黄砂

が飛んでこないからや。今の季節、中国大陸は、まだ

夏草が残っているから風で砂が舞い上がらんのや」

 昼食を済ませ、由美子が柿を剥きだす。暫くする

と、

「アーッ、落として転げていったわ。拾いに行ってく

れない・・」

 だいぶ転がったようで、宏幸が3メートル程下まで

探すが、

「見つからんわ。諦めて違うの剥いてくれるか」

「こっちのは、少し柔らかくて私好みじゃないの。か

じれば、パリッと音がするくらいがいいの」

「それなら、8年程経ったら、もう一回ここに来たら

ええがな。さっきの柿が生えてるか

も知れんからな。その時は柿狩りができるで」

「名所になりそうね」

「残念ながら、甘柿の種からは、渋柿しか生らへんけ

どな」

 二人の仲は、秋風も吹かずに、まだまだ春たけなわ

が続くようだ。

 下りは八雲ガ原を通り、北比良峠からダケ道を通

り、イン谷口に出るコースを選ぶ。峠から30分余り

下り、カモシカ台で休憩をしようと、宏幸はリックを

降ろした途端によろけた。

 その拍子にスズメ蜂の巣がある木に手をつき揺すっ

てしまった。巣に気付いて逃げ出したが、スズメ蜂は

猛スピードで攻撃してきた。

「スズメ蜂や。逃げるんや」

「キャー」

 宏幸は帽子を被っていたが、首周りをやられたら大

変と軍手をはいた手で覆った。しかしその上からチク

ッと刺された。すぐに叩き落して踏み潰したが新手も

やってきたので、白いタオルを振り回しながら必死で

下って走り、ようやく安全圏まで逃れた。

 すぐ腫れと痛みがきたので必死につまみ、口で毒を

何度も吸出し吐き捨てた。そのあとはポリタンの水で

よく洗いステロイド軟膏を塗る。

「腫れは少ないが、まだズキズキするわ」

「どうしてスズメ蜂と判ったの」

「巣がまだら模様やったし、蜂は3センチ位おったか

な。それにあのスピードや。スズメ蜂しかないがな」

「お医者さんに行かなくて大丈夫なの・・」

「とりあえずあと30分ほどで山小屋に着くんで、そ

この人に見てもらうわ」

 イン谷口の出会山荘の管理人の話では、スズメ蜂は

10月頃には女王蜂が巣を新たに作るので、兵隊蜂が

過敏になっており、最も危険な季節とのこと。登山道

近くに営巣しているならば、駆除してもらえるように

町役場に頼んでみますと言われた。

 そして、宏幸の応急処置が良かったのか、痛みは数

時間後にはかゆみに変った。


章末注記

(1)スズメ蜂に刺されたら、素人治療で直しても、

  医者に行くこと。一度刺されると、ヒエラルキー

  ショックなることがあるので注意。



・・・雛人形 1976年冬 に続く。

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