第四部(1、銀座)

  銀座 1975年夏


 宏幸と由美子は、今年も去年の夏と同じく、夏休み

は北アルプスと決めた。職場はやりくりして、二人と

も6日間の休みを取った。

 8月11日、米原経由夜間急行きたぐにに乗り、翌

早朝に富山で下車。6時前の折立行きの1番バスに乗

り込む。折立に近づく頃には、天気も小雨模様になっ

てきた。

 宏幸と由美子の雨具は、以前は、学生時代に買った

ポンチョとスキー用のオーバーズボンだったが、最近

出だしたカラフルな上下セパレート型に、そろって買

い換えた。

「やっぱり、由美子のレインウエアーはピンクを選ん

でよかったなぁ」

「ちょっと派手かと思っているけど・・」

「いや、それくらい派手なほうがええのや。遭難した

ときも見つけられやすいし、逆に、黒や紺なんかは、

熊やすずめ蜂に襲われやすい上、猟師からも熊に間違

われて撃たれる心配もあるんや」

 朝食はバス内で摂ったので、折立を8時に出発し、

樹林帯をひたすら登る。森林限界を過ぎると、眼下に

有峰湖が見えてきた。途中昼食をたっぷり摂り、6時

間で、やっと最初の宿泊地、太郎平小屋に着いた。


 次の日は小屋に荷物を置き、アタックザックのみを

背負い、往復6時間あまりの薬師岳ピークハントであ

る。

 小屋から見る薬師岳(標高2926m)は、北アル

プス中央に、たおやかな姿で立ち、簡単に登れそうに

思われている。東側には、特別天然記念物に指定され

た氷河カールを抱いており、また薬師平には、愛知大

生13名が帰らぬ人となった遭難碑があるという。

 途中には、北アルプス屈指のお花畑や樹林帯、池塘

などがあり、変化に富んだコースで、池塘の周りに

は、チングルマやシナノキンバイが咲いている。

「あの、おおきい葉っぱみたいなのは何なのよ・・」

「葉っぱみたいやなくて、葉っぱそのものや。もうひ

と月早かったら、白い大きな花が咲くからわかるけ

ど、実はミズバショウや」

「変るものね」

「二月に、琵琶湖の西岸に行った時に見たザゼンソウ

も同じで、両方ともサトイモ科や」

 薬師岳山荘を過ぎ、下から見上げると、こんもりし

た迷い薬師が現れた。視界が悪い中、愛知大生は、こ

こを山頂と思い込み、下りに中央カールに迷い込み、

遭難したという。

 頂上はすぐ北側にあり、ガラガラ道を20分で着い

た。眺望抜群である。

「あれが、明日縦走するコースや」

と、宏幸が指差す先は南の黒部五郎方面で、その奥に

笠や槍も遠望できる。眼下は金作谷カールが見える。


 太郎平小屋に連泊、次の朝は霧模様であった。小屋

を出発して、潅木と笹原の道を行き、森林限界を越え

ると、展望の良い尾根道である。やがて北ノ俣岳(標

高2373m)に着く頃に霧は晴れ、赤木岳越しに黒

部五郎岳が見えてきた。南斜面のハクサンイチゲの大

群落に、二人は目を奪われる。

「夏休みだけど、ほとんど人に会わないわね。昨日泊

まった人たちは何処に行ったの・・」

「半分以上が折立へ下ったと思うけど、春に話してい

た、雲の平へ行った人達も少なからずいる筈や。いつ

か行こうや。絶対感激すると思うよ」

「楽しみにしているわ」

「今日のコースは、西銀座ダイヤモンドコース呼ばれ

ているんやけど、何故か訪れる人が少ないんや。だか

ら静かな花の旅が出来るはずや」

「ということは、他にも銀座って名のつくコースが有

るの・・」

「燕岳から大天井岳を経て、槍に行くのが表銀座、反

対側の烏帽子岳から三俣蓮華岳を経て、槍に行くのが

裏銀座。でも、最近じゃ槍ガ岳は上高地から登る人が

多くなって、表銀座も人通りが減ってると思うよ」

 12時前、黒部五郎岳(標高2840m)に到着す

るや、展望は絶景になり、360度のパノラマが楽し

める。昼食の準備を始めながら、

「乗鞍岳って、どっちに見えるの・・」

「地図を出して、広げてみよか」

 由美子は、ガイドブックの付属山地図を、キスリン

グのサイドポケットから取り出した。

「でも、コンパス持ってこなかったんで、どっちが北

かわかんない・・」

「どっこい、コンパス無しでも太陽が出ていれば、簡

単に南北がわかるんや」

「どうやるの?」

「腕時計の短針方向と太陽を合わすんや。そして、1

2時方向との中間が南や」

「こうやるのね。地図から見ると、あの山が乗鞍ね」

「残念でした。あれは笠ガ岳。乗鞍は同じ方向だけ

ど、笠が邪魔して見えませぇん」

「そっか、地図の見方も勉強しなくっちゃ」

「万が一遭難しても、地図の見方が解らずに、現在の

居場所も特定できず、生還できなかったってことにな

らんようにな」

 昼食を済ませ、来た道を少し戻ってから、直下のカ

ールへ下る中は、巨大な岩と、ミヤマキンポウゲの大

群落である。ジグザグに下ると、草原と湿原の広がる

別天地、五郎平になる。

「わぁ、ここにもお花がいっぱい」

「チングルマ、ハクサンイチゲ、コバイケイと見飽き

んなぁ」

「あっ、宏幸くん。可愛い三角屋根が見えてきたよ」

「黒部五郎小舎や。まだ3時やし、少しこの辺で道草

しよう」

「小川が流れてる」

「飲んでもええよ。黒部の源流の一部や。源流の一番

奥はここから3キロほど東に行った所にあるんや」

 二人は、キスリングを登山道の脇に置き、カップを

取り出し喉を潤した。そして、木道の所々に設えてあ

る退避所の、広いところに寝ころがって、青空を眺め

ながら、

「ずっとこのままでいたいな」

「時間よとまれ、ね」

「この空も、この景色も独り占めするぞ」

「いいえ、私のものよ」

 たわいない会話が夕暮れまで続き、5時を廻った頃

に、やっと腰をあげた二人であった。


 次の日は、三俣蓮華岳を右に見て、先に三俣山荘に

行き、宿泊予約をした上で軽装になり、鷲羽岳を目指

すと、右手に真っ青な小さな池が見えてくる。

「鷲羽池や」

「綺麗なコバルトブルーね」

 鷲羽岳(標高2924m)を越えると、ワリモ岳越

に水晶岳(標高2986m)、別名黒岳が見えてき

た。ワリモ乗越付近で昼食を摂るが、森林限界を越え

ているので、登山道から周囲が見渡せる。

「あそこに、お猿さん御一行のお通りや」

「野生のお猿さんて、初めて見るわ」

「近づいて来ても、決して目を合わしたらあかんよ。

興奮するから」

「いやだ、怖いわ」

「実は、猿の集団は熊や猪よりも危険でね、これから

の秋から冬にかけてが、最も危ないんや」

 数匹の軍団は、二人から50mほど先を横断してい

った。

「ほっとしたわ」

「ある人の話しやけど、猿の集団と睨らみおうた事が

あったんやて。その中のボスとおぼしき猿が、尻尾を

高く突き上げて威嚇してきたそうや。そこでその人ど

うしたと思う・・」

「荷物を放り投げて逃げたのね」

「いや、猿と同じ格好の四つんばいになり、股の間か

ら、持っていた杖代わりの木切れを、上に突き出した

んや。そしたら、そのボス猿は、立てていた尻尾を降

ろし、一行ともども、すごすごと退散したそうや」

「なぜなのかしら・・」

「猿は立てる尻尾の高さで、ボスが決まるそうや」

「でもその人、そんな事よく知ってたわね・・」

「山渓の読者体験談を読んで知ったみたいやけど、ま

さか、自分がそんな場面に遭遇するとは思わなかった

そうや」

 そんな話をしながら昼食を摂り始める。

 午後は、裏銀座から少し北に逸れた水晶岳まで行

き、折り返す。

 ここも、360度大パノラマが見え、どこを向いて

も山、山、山だと言った深田久弥の言葉もうなずけ

る。


 その次の日も花一杯のコースである。三俣蓮華岳

(標高2841m)から、双六岳(標高2860m)

を経て、弓折岳(標高2588m)の間はハクサンフ

ウロやトウヤクリンドウが見られる。

 抜戸岳(標高2813m)を越え、その日は笠ガ岳

(標高2898m)下の山荘に二人は泊まった。

「明日は早朝に笠ガ岳に登り、抜戸岩の狭間を抜け、

杓子平から笠新道を急降下や」

「山地図見ていると、何々新道って付いた登山道が結

構あるのね」

「登山道切り開いた人の名を付けることも有るけど、

この笠新道はここの小屋のご主人の先代が開いたそう

や」

「短期間に出来上がるものでないだけに、先人の苦労

という訳ね」


 次の朝は夜明け前に山頂へ向かう。

「朝日が昇るに連れて、周囲の山々も目覚めていくよ

うやな。播隆平も雲の布団を捲り上げて起きだしてき

たで」

「結構うまく表現するわね」

「北に見える剣と立山は、朝から肩を組んで元気そう

やな」

「絵になりそうね」

「答えられんなぁ、2度と見られない風景になるかも

知れんから、よう目に焼きつけとこうや」

「写真撮ればいいじゃない」

「折角感激の余韻に浸ってるのにぃ・・」


(参考文献)

アルパインガイド 上高地槍穂高   1975年版

夏山JOY          1975年6月号他

山と渓谷           1988年8月号他

         以上すべて 山と渓谷社



・・・比良西南稜 1975年秋 に続く。

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