第二部(9、別れの朝)
別れの朝 1973年春
鈴代との関係は、佐知子には卒業まで、ばれずに済
んだと宏幸は思っていた。この半年間、佐知子とは回
数こそ減ったものの、関係は続いていた。
そして、3月に入ったある日、宏幸は久しぶりに佐
知子のアパートに泊まった夜に、いやな夢を見た。
「宏幸、もう貴方を解放したげるけん、好きな人と、
好きな所へ行っていいわ」
と、菩薩の面をかぶった佐知子から告げられた。
待ってましたとばかりに、宏幸と鈴代は、前方に白
く波立つ海が見える公園に行き、歌って、踊り、そし
て、笑いながら駆けまわる。
時が経ち、疲れた二人は立ち止まって、そっと唇を
重ね、そして微笑み、青く透き通った空を見上げる。
ところが、宏幸が鈴代の眼をもう一度見ようと、頭
を下げた時、彼女の肩越しに、高い茨の垣根の隙間か
ら、二人をじっと見つめている佐知子の顔があった。
二人はそこから逃れようと、公園の出入口を探して
必死に走り回る。しかし何処にも出入り口は見つから
ない。
宏幸は思った。
「佐知子の顔さえ見つけなければ、こんなことにはな
らなかったはずだ。そうすれば、二人は何時までも、
青い空と白い雲を眺め、打ち寄せる波と戯れられてい
たのに・・」
もう一度二人が元の場所に戻ると、夜叉の面をかぶ
った佐知子がいた。
「やっぱり佐知子から逃げられないのだろうか・・」
「高木くん、海よ、海に逃げよう」
「そうか、海を泳いで逃げよう」
宏幸は泳げないことを忘れ、鈴代の手を引き、どん
どんと海に入っていく。
どれだけ入っただろうか。振り返ると、佐知子の姿
がまだ見える。
しかし、いつのまにか宏幸は鈴代とははぐれた。
宏幸は、鈴代を探そうと、一、二歩前に進んで、背
の立たない深みにはまった。
「うわぁ!助けてく・・・」
そこで、宏幸は目が覚めた。
「どうしたのよ、だいぶうなされて・・」
「ちょっと恐い夢を見たんや」
「どんなのよ」
「佐知子の顔が七変化する夢や」
「どんなふうによ」
夢の中身は、佐知子には正直に話せないので、
「見る方向で、悟りを開いた菩薩にみえたり、夜叉に
見えてたり・・おっと夜叉はないわな」
「自分の進む方向がはっきりしたからよ」
と、佐知子は、きりっとした言い方をして、
「卒業したら実家に帰り、父の工務店を継ぐことにし
たの」
「じゃ、社長さんか」
「寝込んでる父が会長になり、母が専務で、従業員が
10人ほどの大会社の社長よ」
と、半ばやけ気味で佐知子はつぶやき、
「だから、忙しくてもう貴方とは会えなくなるけん」
「そうか、仕方ないなあ」
「それだけ・・。他に言うこと無いの」
「うん、元気でな」
「宏幸との4年間は、楽しい思い出として残しておく
わ」
佐知子は、本当は思い切り宏幸の心変わりをなじり
たかったが、いまさら、宏幸が別に付き合っているら
しい人のことなどを言っても、自分がみじめになるだ
けと思い、言うのをやめた。
・・去年の夏に、新幹線で宏幸を見つけたとき、声を
かけようと思ったけれど、横に座っていた女の人がど
ういう人かわからなかったのでやめたの。でも大阪駅
で降りた二人の後ろ姿でやっぱりと思ったわ。
大学の後期が始まる前に上高地に行った時は、本当
はあんな喧嘩をしたくなかったのよ。
卒業までの残された間を、良い思い出だけを作って別
れたかったの。
でも、そのあと宏幸と何度か会って話をしていても
辛かったわ。宏幸がどんどん手の届かない所へ去って
いくように感じたわ・・
佐知子は別れの長い口づけを交わしながら、甘く切
ない味を思い出そうとしたが、ざらついた感触しか味
わえなかったので、そんな思いはもうきっぱりと忘れ
ようと決めた。
しかし、その日は宏幸が帰ったあと、ウッデーウー
の、「今はもう誰も」のレコードを何度も聞きながら
泣き明かした。この曲は、街角やスーパーの二階で、
ジュークボックスに百円玉を入れて、何度も二人で聞
いた思い出深いメロディーだったのである。
そして、中島佐知子は卒業と同時にアパートを引き
払い、岡山へ帰っていった。
第2部 完
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