第二部(3、雨飾山)

  雨飾山 1971年秋


 宏幸は山の温泉を好む。何時間も歩いてたどり着い

た後の入浴はたまらないようだ。去年の夏に話してい

た「秋は栂池の草紅葉」を計画する中で、近くの雨飾

山に登る途中にある、梶山新湯を地図で見つけた。

 10月上旬、北陸線で糸魚川に昼過ぎに着いた二人

は、頚城バスに40分乗り、山口の停留場で降りた。

根知川に架かる山寺橋を渡る。

「ここからは歩きや。2時間半ほどかな・・」

「山の中に有る温泉なんて初めてだわ」

「秋の温泉は露天風呂に限るで」

 佐知子は、林道に沿い紅葉を愛でながらの歩行にウ

キウキしだす。シラカバ林の中を、ナナカマドの赤い

かわいい実を捜しながら歩く。かじってみると渋いの

で、直ぐに吐き出しながら、

「宏幸、ナナカマドの花言葉って知ってる・・」

「いいや」

「用意周到よ。宏幸にピッタリ。いつも感心するわ。

特に女の子に対してはね」

 宏幸は返す言葉が出ない。去年の春に比良山に行っ

てから、順子に関心を示しだした宏幸に対しての、佐

知子の牽制球である。

「さあ行くで」

「ちょっと待って、靴紐緩んだけん締め直すわ」

「踵に足を寄せて、はと目の上から下へくぐらし、最

後の蝶々結びは2回巻いてから通すと、緩み難くなる

で」

 道草を食いながら歩いたので、3時間余りかかって

雨飾山荘に着いた。案内された2階の宿泊部屋は天井

が張られておらず、がっしりした梁や母屋の小屋組が

見える。

 平日なのですいており、明るいうちに露天風呂に入

浴しようということになった。ところが宿の人から、

「混浴ですよ。でも、今の時間なら誰も入っていない

と思いますが・・」

との言葉に促され、二人は最近できた宿の東横にある

「都忘れの湯」に向かった。

 露天風呂の周りは石垣と樹木に目隠しされていて、

やはり誰も入っていなかった。

 佐知子は大胆である。

「宏幸、見張りお願い。向こう向いててね」

と、言いながらさっさと脱ぎ始めた。

「おいおい、それはないで。一緒に入ろうや」

「だめっ。水着持ってきていないけん、誰か来たら断

ってよ。すぐあがるから」

 佐知子はそう言いながらも、東側に視界の開けた所

から、鋸岳等の山々に10分も見入っていた。その間

小心者の宏幸は、ハラハラし通しである。

 結局宏幸は、その後交代して入ろうとした時にやっ

て来た、三人連れの中年女性達の勢いに押されて、露

天の入浴を諦めざるをえなかった。

「宏幸、負けたわね。おばちゃんパワーに」

「あの三人に囲まれたら、出られんようになるのは目

に見えとるわ。内風呂からでも外の景色は見えるし、

そうするわ」

「負け惜しみね」


 二日目は、いきなりの急登で、難所ノゾキからの尾

根歩きでも急登が続く。登山道脇に咲いているアキノ

キリンソウやリンドウを横目に見ながら、2時間余り

で中の池で、水芭蕉の巨大な葉が残っている。更に1

時間弱で、樹林帯をジグザグに登りきると笹平に着い

た。

 ここで一息入れる。東の焼山も秋真っ盛りだ。

「宏幸、一寸行ってくるわ」

「お花摘みやな」

 佐知子は、背丈ほど伸びた笹原にごそごそと分け進

んで消えた。2、3分で戻って来ると思ったが、なか

なか戻らない。

 そのうちに、下ってきた三人組の登山者と宏幸の目

が合った。昨日の露天風呂で出会った中年女性達だ。

「兄ちゃん又会うたなぁ。彼女はどないしたんや?」

「いや・・そのう・・おばさんは関西でっか?」

「ほや、大阪の八尾や。兄ちゃんは?」

「生野区ですわ」

「近いがな」

と言いながら、最年長らしき女性がポケットを探り、

「飴食べるか・・」

と渡す。

 しばらくは、大阪談義が続くので、佐知子は出てこ

られないようだ。

 三人組は、10分程してやっと下って行った。戻っ

てきた佐知子は、

「お尻が冷えてしまったけん、どうしてくれるのよ」

「知らんがな。おばちゃんらの話が止まらへんのや」

 雨飾山(標高1963m)は双耳峰で、三角点は南

峰にある。笹平からは15分で頂上に着いた。

「日本海が見える。白馬岳が目の前やし、ずっと槍穂

高までよう見える」

「南の、あの山は何?」

「高妻山と、その右奥が、確か戸隠山のはずや」

 笹平に戻り、その先の分岐を、南に一気に下ると荒

菅沢で、

「何やこの絶景は・・まさに錦秋そのものやないか」

「宏幸が、夕べ言っていた布団菱なのね」

 二人共しばし見とれて時計も止まる。

 その夜は、小谷温泉の山田旅館に登山靴を脱いだ。

「小谷温泉は、四百年以上の歴史がある、信玄のかく

し湯やそうや」

「それにしても、この建物は雰囲気良いわね。大正ロ

マンみたいなものが感じられるわ」


 次の朝は一番バスに乗り、南小谷、白馬経由で栂池

に向かおうとするが、道沿いの中谷川にはブルドーザ

ーが何台も動いている。先日の台風で、土石が川をせ

き止めたりしたからである。

「地方の土建業は、こういった公共工事しか、あんま

り仕事がないんや。都会の土建業と違って、特に山間

部は、災害に備えて堰堤作ったり、川や道を復旧する

のが主な仕事になるんやろな」

「私たち、建築家を目指す者は、弁護士や医者と一緒

で、都会に出て華々しい仕事をしたがるけど、こうい

った仕事もあることを忘れちゃいけないのね」

 昨年新しく整備された栂池自然園は広大で、宏幸が

予想したとおり、草紅葉が見事である。そして何より

も、冠雪した白馬三山が紅葉の向こうに白く輝き、二

人の忘れ得ぬ思い出となったようだ。


章末注記

(1)梶山新湯は雨飾温泉に名前を変更。1999年

  には車で直接行けるようになった。


(参考文献)

夏山JOY    1975年6月号他 山と渓谷社 

山と渓谷     1988年8月号他 山と渓谷社



・・・「流葉 1972年冬」に続く。  

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