第二部(2、槍ヶ岳)

  槍ガ岳 1971年夏


 北アルプスの槍ガ岳は、山好きの学生にはぜひとも

征服したい山の一つと言われている。宏幸達の仲間で

は、久しぶりにパーティを組んで、槍に登ろうではな

いかとの話がまとまった。女性は5名、男性は4名の

参加が決まったが、みんなのバイトの都合もあり、夏

休みの頭からということになった。今年はから梅雨で

もあり、7月10日に空けてしまったていた。

 ちくま3号の夜行は、翌早朝に松本に着く。松本電

鉄6時半の始発に乗り、終点新島々からは、松電バス

で、部分的に未舗装の砂利道を砂煙を上げながら、対

向のできない釜トンネル等を抜け2時間弱で上高地に

午前9時前に着く。ここからは歩きが始まった。

 今日は、槍沢小屋までの6時間弱の歩行で、休憩も

入れて、午後4時着が目標だが、人数が多いこともあ

り、もう少し遅くなるかもしれないと宏幸は思った。

 歩き始めてすぐに福本由美子が、

「河童橋で集合写真撮ろうよ」

「だめや、写真は帰りに撮るんや。コースタイム通り

歩いてくれよ」

 結構ルールにうるさいと言われている法学部の田中

が、今回のリーダーである。

「帰りの天気は保障できるんかいな」

と、宏幸が突っ込む。

「昨日から、小笠原気団が張り出してきたから、当分

は大丈夫」

「参りました。さあみんな、リーダーに指示どおり歩

こうか」

 9匹のカニ族は、白いソバナ咲く小梨平のキャンプ

場を左に見て、涼しい樹林道を行くと1時間で明神館

に到着した。最初の休憩の指示がリーダーから出る。

今度は佐知子が、

「明神池に行きたいなあ。走って見てくるからダメか

しら」

 すかさずリーダーが、

「却下」

 10分後出発となる。

 宏幸は、今回サブリーダーで最後尾を歩く。山のル

ールは、サブが先頭で、リーダーは後ろを歩くと登山

書に書いてあったが、田中リーダーの性格からして、

先頭を歩かしたほうが早く着きそうなので、あえて変

わってもらったのである。

 徳沢園まで、約1時間歩いた。まだまだ観光客とす

れ違う。

 宏幸は、若い女の子とすれ違う度に、振り返って見

られるのが楽しいようだ。しかし、足元を見ていなか

ったので、つんのめって、前を歩く佐知子のキスリン

グにぶつかった。

「横見していたでしょう」

「いやそのう、最近若い女の子が、雑誌を片手に旅行

しているのを見かけるなあ」

「アンアンでしょう。去年創刊された雑誌よ。今年は

ノンノも出て、私もよく見てるわ」

「ファッション雑誌かいな」

「その類いね」

 更に横尾山荘まで1時間10分。到着は12時半を

過ぎた。

 河原に降りて昼食準備にかかる。リーダーは1時半

出発の期限を切る。大所帯だけに準備に騒々しい。

 それでも昼食は1時間以内で終わり、ここからはク

マザサの登山道が始まる。

 平坦に近い林道を行くと、槍見河原に飛び出す。さ

っそくリーダーが、

「槍が見えてきたぞぅ」

「えぇぇ、まだあんな遠くなの」

と、由美子が嘆く。新規参加の、木下真紀が、

「ここで、写真撮ろうよ」

「意義なぁし」

 今度はリーダーも反対しない。むしろ、積極的にカ

メラと三脚を取り出してきたので宏幸が、

「用意がええな。それに重たかったやろ」

「カメラが趣味やから全然苦にならないのや。食料減

らしても、これだけは忘れへんで」

 ミノルタの一眼レフである。

「さあ、女の子は前の列。真ん中に真紀ちゃんや。後

ろは二人づつ左右に分かれて、真ん中に槍を入れるか

ら」

 宏幸は、いささか細かいアングル注文だなと感心す

る。それに、どうやら田中は、真紀ちゃんに気が有る

ように思える。夕べの夜行でも盛んにアプローチをか

けていて、嫌がる様子が真紀ちゃんに見えたので、由

美子が、

「さあ、もう米原も過ぎたよ。寝る時間だから席に戻

ってよ」

と、一喝した。

 列車はすいていたので、自由席の4人掛けボックス

を二人で占領して横になって寝る。田中を除く男性二

人と、女性も二人づつに別れ、佐知子と宏幸がワンボ

ックス。リーダーは鼾をかくと言うことで、別のボッ

クスへ離されてしまったのである。

 写真を3枚撮り終え、次の目標地点、一ノ俣までは

1時間10分で着いた。そして更に1時間20分で、

一行は老朽化の進んだ槍沢小屋到着した。

 田中が受付で聞いた話によると、ここから30分ほ

ど下った所に新しい小屋を作る計画が有るという。

 夏休みの始めで小屋はすいていた。夕食は、鯖の塩

焼きと、蓮根と南瓜の煮物。なかなかの味であると、

料理好きの由美子が評を出す。

 念のために何人かは寝袋持参であるが、今夜はいら

ない。布団も一人一枚支給された。

 布団は端から、由美子、佐知子、真紀、香織、そし

て佐藤の彼女である、富田ひとみと女性が並び、反対

の端からは、田中リーダー、手前が浜田、宏幸、佐藤

の順になる。

「鼾は大丈夫なの」

と、佐知子が宏幸に聞く。

「これ持ってきたから、2個貸したげるよ」

「耳栓ね。用意がいいこと」

「一回生の時に行った白樺湖で、浜田の鼾に懲りてい

るからな」


 二日目は槍ガ岳をピストンして、ここに午後4時に

帰る予定になっている。

 朝7時出発。槍沢小屋の先にある水場で給水し、バ

バ平まで30分。U字谷の大曲がりを経ると、残雪の

ある明るい槍沢で、氷河公園から落ちる滝が見えてき

た。時刻は8時半を過ぎた。

 ここからは更に勾配がきつくなり、かつ後ろから照

り付けられるので、全員のペースが落ちてきた。

「もう少しで水場や。そこまでの辛抱」

と、リーダーが叱咤するが、宏幸もなかなかきつく感

じる。

 水場で休憩し、長い上りが終る頃、モレーンが見え

出し、槍の姿が大きく現れた。

・・もう少しかな・・

と、誰もが願うが、まだ坊主岩小屋で時刻は10時過

ぎ。そこから殺生ヒュッテまで1時間、更に槍の肩ま

で50分かかった。

 槍ガ岳山荘に着くと、周りにはトウヤクリンドウや

ミヤマキンバイが咲いているが、みんなは興味を示さ

ないようである。

 リーダーから、とりあえず山荘前で昼食の指示が下

った。しかし、食欲がわかないのか、誰も湯を沸かす

用意をしようとしない。

「誰か、山荘に行って、水を買ってきてくれるか」

と、リーダーが言うが、誰も動こうとはしない。しか

たなしに宏幸が、

「みんなポリタン出せよ。リーダーと俺が行くから。

その間に用意しておいてくれよ」

 結局、乾パンとコンビーフなどを沸かして入れたイ

ンスタントスープで流し込む。終っても、女性陣はチ

ョコボールやポテトチップを食べると、すぐに元気を

取り戻しワイワイやりだす。佐藤が、

「別腹隊やな。ああやって脂肪を溜めるから、遭難し

ても、生き延びられる確率が高くなるんやろな」

 一息ついたので荷物を置いて、アタックが開始され

る。鎖と鉄梯子が初めての真紀も、宏幸の直下からの

指導で難なくクリアー。全員が無事2時前に登頂。佐

藤とひとみが抱き合い、真紀も感涙にむせぶ。田中リ

ーダーが早速シャッターを切りだした。

 頂上で20分ほど滞在。混み合ってきたので、リー

ダーを先頭に降りだすが、途中で佐知子が、

「宏幸、下見たら足がすくんで、降りられないよう」

と、梯子にしがみつき動かなくなった。

「さっきの元気は何処へいったんや。自分の肩ごしに

下見るさかいに怖いんや。真紀ちゃんがやったみたい

に、思い切って梯子から体を30センチほど離して、

その間から足元を見て降りるんや」

 先に降りた由美子が冷笑しているようだ。

 全員が降り立ったので、再び山荘前に集合する。

リーダーが、

「今日の予定は、ピストンで槍沢小屋まで下る予定だ

ったが、今からだと5時を過ぎると思うから、この山

荘泊まりとします」

 みんな疲れており、全員一致で、

「意義ナーシ」

 小屋は、早い申し込みだったが、布団は3人で2枚

の配分にされた。端から、田中、佐藤、浜田。宏幸、

佐知子、真紀。そして、ひとみ、由美子、香織とリー

ダーが決めた。

 午後8時半消灯。2枚の布団をずらして重ね、宏幸

が端で、真ん中に佐知子、反対側に真紀が休む。佐知

子は、宏幸の方を向いてすぐ寝息を立て出した。廊下

の薄明かりが漏れ、宏幸からは、向こう側に仰臥した

可愛い真紀の顔がうっすら見えるので、思わず、

「横顔がなんとも言えんなぁ。鼻筋も、佐知子の団子

鼻に比べたら、すっきり通っているし、何よりもあご

の線がきれいや。田中が岡惚れするのも、ようわかる

わ」

と小声で言ってしまう。そんな宏幸も、いつの間にか

眠りに落ちた。そして、夢を見た。

 夜中に喉が渇いたので、起きようと目を開けると、

どういう訳か佐知子に代わって、目の前に真紀の顔が

ある。しかも、じっとこちら見つめている。そして小

声で、

「今日は、いろいろ教えてもらってありがとう」

と言いながら、唇を寄せてきた。

「ちょ、ちょっと待って。佐知子が気づくやないか」

言葉とは裏腹に、応じようと近づき、触れたとたん、

冷たい感じがする。

「真紀ちゃんの唇って冷たっくて、気持ちがええな。

喉の渇きも忘れるくらいや」

 宏幸は、いつの間にか佐知子の枕元に置いてある、

ポリタンに頬擦りしていた。


 三日目の朝がきた。リーダーの予想通り今日も晴れ

である。予定では7時に出発すれば、午後4時半頃に

上高地着で、6時前の最終バスに乗り松本深夜発のち

くま号で帰れる。

 昨日までは花を見る余裕もなかったが、今日は期待

できると宏幸の気分も高まる。

 一行は、少し遅れて7時半に小屋を出発、槍沢の下

りにかかると、 

「ミヤマキンポウゲと、シナノキンバイのお花畑や」

宏幸の言葉に、女性陣が一斉にキスリングを降ろしだ

し、香織が、

「リーダー、お花畑をバックに写真撮ってよ。田中く

んのカメラワークって素敵よ」

「まかしとき」

豚もおだてりゃ、と宏幸は苦笑する。

 多少の道草を食いながらも、河童橋には午後5時2

0分に到着する。橋の上では通行人も多く、河原に降

り岳沢をバックに集合写真を撮ることになった。

「みんな良い顔してや。はい、イー、アル、サン。も

う一枚、今度はセルフタイマー押すよ」

 みんなの前に田中が戻ると、すかさず佐藤が突っ込

む。

「リーダーは、やっぱり雀キチや」

 爆笑写真が撮れたようだ。



(参考文献)

アルパインガイド  上高地槍穂高  1975年版

                   山と渓谷社

夏山JOY    1975年6月号他 山と渓谷社 

山と渓谷     1988年8月号他 山と渓谷社



・・・「雨飾山 1971年秋」に続く。  

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