第一部(8、六甲山)

  六甲山 1970年冬


 12月も半ばを過ぎたある日、宏幸のところへ佐知

子が新聞の切抜きを持ったきた。

「これ見てよ。裏六甲の七曲滝が、この寒波で凍った

そうよ。明日連れてって」

「えらい急やな。いつも佐知子は、思いつきで言うか

ら、かなわんわ」

 とは言うものの勢いに押されて行くことになった。

 六甲山は東西には長いが、南北間が狭いので気軽に

登れ、エスケープルートも豊富である。今回は宝塚か

ら西へ登り、一旦魚屋道を有馬に下り、滝を見てから

温泉に泊まる。そして次の日も、再度六甲山に登る計

画を二人で組んだ。

 佐知子は京都の四条から阪急電車に乗って行き、大

坂の十三の駅構内で宏幸と合流する。9時過ぎの急行

に乗り宝塚で降りて、宝来橋を渡り山手に向かうと、

緩やかな坂道になり、甲子園大学と塩尾寺を過ぎると

登山道が始まる。駅から1時間余りで岩倉山を通過。

 譲葉山を過ぎると、左手に市街地と大阪湾の展望が

きく。少し歩くと鳥の声が聞こえてきた。

「あそこの木に鳥がとまっているよ、宏幸」

「どこや」

「あそこ、尻尾が群青色しているよ」

「ようわからんけど、ビタキかな」

「もう一羽止まったわ」

 と言いながら佐知子は道をそれて一歩踏み出した。

とたん、

「きゃあ」

 ドンと音がする滑り方で、尻餅をついた。

「この辺は、柔らかい花崗岩が細かく砕けて真砂土に

なって、滑りやすいのや。皮下脂肪厚くて大丈夫やっ

た思うけど」

 佐知子は立ち上がり、土を払いながら、

「皮下脂肪が多いけん、宏幸より長生きするわ」

 大谷乗越、大平山、船坂峠、水無山とアップダウン

の少ない縦走路を行く。六甲最高峰(標高931m)

には、途中で昼食を摂ったこともあり、午後の2時過

ぎに着いた。

 少し引き返し有馬に向かって魚屋道を進み、すぐに

左の谷筋に下ると小さな滝音が聞こえてくる。先に宏

幸が、右手から滝下へ回りこむ。

「この辺は凍ってないな」

と言いながら、宏幸はカメラを出し、飛び石に右足で

乗った途端に滑った。

「あ痛っ」

 カメラを庇ったお陰で、したたか左の尻を打ち、直

ぐには立ち上がれない。

「佐知子、引っ張ってくれ」

と左手を差し出し引き起こされる。

「これでおあいこね。ずいぶん濡れてるから着替えた

ほうがいいよ」

 下着の替えは持ってきたが、ズボンは無いので、雨

ガッパのズボンを穿いた。尻を打った所が青死んでき

た。宏幸は、とても寒く感じ足も引きずったように歩

く。

「今日は、滝見物中止や」

「そのほうがよさそうね。有馬温泉につかって打ち身

を温めて治そうよ。打ち身は冷やすのだったかしら」

「どっちでも良いから、早うおりよう」

 宏幸はゆっくりと温泉に入り、人心地ついてから、

食事もそこそこに横になる。今夜は佐知子に手を出す

元気も無さようだ。

「ちょっと出かけてくるわ」

「俺を放ったらかしにして今頃から何処に行くんや」

「せっかく有馬に来たんだから、温泉めぐりしてくる

わ。今夜はだめ見たいけん先に寝ていていいわよ」

「その前に、早う湿布を貼ってくれよ」

「そうだったわね。外から帰ってきたら、私の冷えた

お尻で冷やしたげるから」


 次の日は、昨夜も星空だったので朝から寒い。

「今日、凍った滝見られそうね」

「ゆうべも放射冷却で、よう冷えてたからな」

 有馬温泉から、大谷右岸沿いからの林道をゆっくり

遡ること1時間半、紅葉谷出合から白石滝に着く。

「この先にある、白龍滝の上の大安想滝の下で、昨日

滑ったんや」

「もう一度行くの」

「縁起でもない。ガイドブックにも危険箇所有りと書

いてあるしな」

 ここから少し引き返し、左手の谷あいにある凍りか

けた百間滝に着く。更に小さな尾根を越えると、目的

の滝、七曲滝に着く。

「お目当ての、氷瀑に着いたで」

「新聞に出ていた景色、そのままね」

「有馬四十八滝、冬の六甲の風物詩や」

「でも、何でこんなに滝の数が多いの」

「六甲山はまだ若い山で未だに隆起しとるんや。だか

ら谷も成長中で滝も多くなるんや」

 15分程戻ると湯槽谷分岐。

「この谷を登ると裏六甲の縦走路があるんやけど、今

やったらニオイスミレやオオイヌフグリが咲いとるか

も知れんな」

「その体で登るつもりなの」

「ご冗談を」

 二人は鼓ケ滝公園まで戻り、ロープウェイで山頂に

着く。

「ねえ宏幸、ここで夜景を見たいから、もう一泊しよ

うよ」

「今夜は、クリスマス前やから、急にはホテル取れへ

んがな」

「何とかしてよ」

「わがまま娘やなぁ」




  第1部 完

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