第一部(6、白馬岳)

  白馬岳 1970年夏


 入学から1年余り経ち、遊び仲間も、男女のメンバ

ーの入れ替わりが有ったが、いわゆる、ペアーが何組

か出来てくるのも自然の成り行きだ。

 佐賀出身の福本由美子と、山育ちの浜田がくっつい

た。宏幸は、お互いに持っていない話題が引き合った

のかも知れないと思った。

 宏幸も、佐知子とは白樺湖事件以来離れられない関

係になっていった。そして、二人きりでの最初の宿泊

山旅は、梅雨明けの7月下旬に、しろうま岳に行くこ

とになった。梅雨明け十日と言われ、一番天候が安定

する時期である。

 白馬と書き、しろうまと読む。もともとは代馬から

転化した名前である。だが国鉄の駅はハクバと読む。

 今回も列車は夜行になった。ただしハクバ駅の始発

バスに乗るには、美ヶ原に行った時乗った急行ちくま

3号よりも、一本早いちくま号に乗る必要がある。そ

の列車のうち、前4両のくろよん号部分が、松本で切

り離されて大糸線に入り、6時にハクバ駅に着いた。

 ここから、猿倉行きのバスに乗るのだが、ちょうど

関東方面からの特急あずさ号も同時刻頃に着くので、

乗り場は既に数十人が並んでいて、

「エェ、待ち時間長そうやな」

と宏幸は心配したが、全員が座っていける3台のバス

がやって来た。

 6時20分発のバスで猿倉へは約50分で着く。乗

り込んでしばらくすると、夜行でやってきた者がほと

んどで、バスの心地よい揺れに居眠りを始める者が大

多数である。宏幸の左肩にも、いつのまにか佐知子の

頭が乗せられていた。

 猿倉で佐知子が作ってきたおにぎりで朝食を摂り、

登山届を出したら出発である。

 日本三大雪渓の一つ、白馬大雪渓が始まる白馬尻ま

では約1時間で着いた。ここからは、クーラー付きの

コースになる。ただしアイゼンを着けなければ登るこ

とは難しい。下の小屋で借りて、上の山小屋で返すこ

ともできるので、白馬尻小屋に行き、

「二組借してください」

と、宏幸が申し込み書に住所と名前を書き込むと、

「おっ、兄ちゃん関西やなぁ、ワシも関西や」

「この子は岡山ですけど、おたくは何処でんの?」

「滋賀の八日市や。可愛い子やなぁ。そやけど、その

素肌むき出しの短パンはまずいで。上に着いたら雪焼

けで火照ってしまい、今夜は寝られんで」

「そんなに紫外線きついとは思えまへんが・・」

「雪渓の紫外線反射率は90パーセントも有るんや。

いわば下からも太陽が照ってると思わなあかんのや」

 それではと、佐知子はスキー用のオーバーズボンを

上に履き、借りたアイゼンをキャラバンシューズに着

けた。

 見上げれば、青い空と白い雪渓の間に、朝の太陽に

暖められた霧が行く手を遮り、延々と続く行列が、

その霧の向こうに消されていく。

 歩くこと二時間ほどで葱平に着く予定だが、途中の

ところどころにはクレバスと呼ばれる雪渓の裂け目が

あり、覗き込むと岩の間をチロチロと雪解け水が流れ

ている。

「冷たくておいしそう」

と、佐知子が言うが、

「飲めへんやろ。上の小屋から流れ出た排水も混じっ

ているかも知れんので、大腸菌いっぱいやないのか」

「そうなの」

「飲むためには、一旦メタで沸かして消毒せなあかん

のや。持ってきたポリタンの水で我慢しよう」

「うん、わかった」

 大雪渓も切れ、杓子岳直下の天狗菱が迫ってくれば

葱平が近い。薄紅紫色のシロウマアサツキが咲いてい

る。振り返れば戸隠山も見えてきた。

「宏幸、キスリングが肩に食い込むように重いよ」

「だいぶ後ろに引っ張られている感じやな。紐を少し

きつく締めよか・・」

「こうね」

「もう少しで葱平や。着いたら休憩しよう」

 葱平で、軽く行動食のビスケットを食べ、一息つい

た後は急登で2時間、やっと白馬山荘が見えてきた。

時刻は1時過ぎである。平らになった登山道の脇で、

味付けパンとバナナなどでランチを摂る。目の前はお

花畑である。      

「白いのがチングルマで、黄色がシナノキンバイ、だ

よね宏幸」

「おっ、大分花の名前を言えるようになったな。でも

あの黄色い花はミヤマキンポウゲ」 

「そっか、どう違うの」

「シナノキンバイは、花の大きさがもっと大きくて、

ミヤマキンポウゲの倍くらいあるんや」

と、宏幸はバナナの皮をむきながら説明しだした。

「大きい青紫の花がウルップソウ。白馬を代表する花

で、本州ではあとは八ガ岳だけしか見られんそうや」

 二人は、山荘へは早めに入り、部屋を決めてから、

ゆっくりと山頂周辺を巡ることにした。白馬山荘は、

1500人収容の日本最大の山小屋だ。1泊2食で一

人2000円、それに、今回は個室を取ったので、プ

ラス2500円。

・・ちょっと高いかな、でも二人だけの時間が取れる

のだから・・

と勝手に宏幸は納得した。

 頂上へは、小屋から15分ほどで着く。

「白馬は2932メートルの高さがあり、南の杓子岳

と遣ガ岳を併せて白馬三山と呼ぶんやが、きわめて女

性的な姿で日本アルプスの女王と言われているんや」

 宏幸の解説が、又始まった。

「同じ三千メートル級の槍や穂高は、ごつごつした岩

だらけで、男性的な姿に比べ、ここは素晴らしいお花

畑もあり、見飽きん美しさや。なんと言っても、登山

口から半日あまりで頂上に着けるから、女の人にも人

気があるんやろな」

「槍や穂高も行きたあい」

「来年はそうしょう。でも二つ一遍にはきついかな。

アプローチも長いし」

「来年のことだけど、なんだかワクワクね。でも一つ

だけ心配なことが有るの」

「なんだよ・・」

「来年も宏幸と一緒に登れるかな・・」

と言いながら、佐知子は小屋に向かって走りだした。

「それ、どういう意味や。相手が変わるということか

いな。怒るで・・」


 次の日は早起きをして、もう一度山頂へ。

「うわぁ、最高。これが雲海なのね。あそこの山まで

泳いで行けそうだわ」

「雲の上に顔を出している山脈が、左から北信五山、

八ヶ岳。中央アルプスの向こうに北岳と、その右が南

アルプス。そしてその向こうが富士山。グルッと廻っ

て槍穂高や」

「こうして浮かんだ山を見ると形が良くわかるのね。

一生忘れないわ」

「そう願いたいね。ところでもっとすごい景色がある

んや」

「なんなの」

「真冬に北海道に行く時、伊丹から早朝便に乗ると、

丁度飛行機が北アルプスの上を越えるのや。白い世界

やけど山襞と山の影で、槍穂高なんかはすぐ見つけら

れるんや。あそこを登るんや思うと感動するで」

「いつ見たのよ」

「一回生の冬にジャルのスカイメイトで、手稲山にス

キーに行った時や」

「誰となの」

「残念ながら、高校時代の男友達四人ばかりでしたよ

ぅだ」

 小屋に戻り朝食をすませて午前7時出発。険しい岩

場の馬ノ背も難なく通過。三国峠に着く。富山県側の

斜面にはピンク色のコマクサの群生が一面に広がる。

 天候に恵まれたので、途中で佐知子は何度も日焼け

止めを塗る。

「どお、白いの残ってないか見てよ」

「あごの下と、目頭の上が残ってまっせ」

「取ってよ」

「鏡あるんやろ」

「水くさいんやね。キスリングから出すのが面倒やけ

ん頼んでるのに」

と、佐知子はふくれながら手の甲でゴシゴシやりだし

ながら、昨晩あれだけ優しくしてくれたのに結構冷た

いのね、と心の中で嘆く。

 宏幸は宏幸で、昨晩あれだけ可愛かったのに、結構

あつかましくなりやがったと、これまた嘆く。

 小さな言い合いをしながらも山旅は続く。小蓮華山

のお花畑で休憩する頃には、普通の会話に戻る二人で

あった。

「コマクサにリンネソウ、さっき見たイワキンバイ、

白馬は高山植物の宝庫やな」

「見飽きないわね」

と、佐知子はしゃがみこみ、コマクサを触ろうとする

と、

「おっと、触らんほうがええよ。花も葉っぱも猛毒の

アルカロイドを含んどるからな」

「うっかり触れないのね。他にどんな花が危ないか教

えてよ」

「金鳳花科に属する花は、触らんほうが無難やろな。

例えばフクジュソウやトリカブトかな。他にはコバイ

ケイもや」

 越えれば、女王のひとみと呼ばれる白馬大池が見え

てきた。小雪渓の白と周りの緑、そして池のブルーの

対比に、二人の心が休まるようである。

 大きなピークを越えれば雷鳥坂。その坂の草場と這

松帯を下り、小蓮華山から90分で大池到着。瞳の目

頭あたりにある白馬大池山荘でティータイムを取る。

 湯が沸くまでの間に、宏幸は、佐知子を雪渓の上に

足を投げ出したポーズで座らせ、小蓮華山と大池をバ

ックに、アングルを調整しながら写真を撮る。

 大池からは、ガラガラと岩の上を音を立てながら、

しばらく行くと最後のピーク乗鞍岳。下れば湿原が広

がる栂池に着く。結構道草を食いながらの行程で、5

時間ほど費やした。

 ここは、秋の草もみじが綺麗なところである。宏幸

がそれを佐知子に話すと、

「秋はここに決まり」

「そんな簡単に決めんなよ」

「宏幸は、計画組むのが上手いけん」

「おだてには乗りませんよ」


 章末注記

(1)「梅雨明け10日」の現象は、近年は無くなっ

  たようである。


(参考文献)

アルパインガイド 白馬岳後立山連峰 1975年版

                   山と渓谷社

夏山JOY    1975年6月号他 山と渓谷社 

山と渓谷     1988年8月号他 山と渓谷社



・・・「綿向山 1970年秋」に続く。

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