第一部(3、横山岳)
横山岳 1969年晩秋
宏幸と佐知子が、北陸線の木ノ本駅で降り、バスで
杉野農協前に降り立ったのは、学園紛争も一段落した
11月の下旬であった。
今日の佐知子は、お気に入りの赤色のテンガロンハ
ットを被り、同じく赤のキャラバンシューズを履いて
きている。
「やっぱり、佐知子は赤がぴったりや」
「赤は昔から好きやったけん」
「そやけど気ぃつけや、ここは猿がおるかも知れんか
ら。猿は赤色見たら、飛び掛ってくるから」
「いやだぁ」
「冗談やて」
そこから30分ほどで白谷登山口に到着。トイレと
登山届を済まし、案内板を見て、白谷本流コースを登
ることになった。
登りはじめて50分ほどで経ケ滝に着く。滝は何段
にも分れ、水量も多い。
「紅葉もいいけど、ここは新緑の季節がええのや。ヤ
マブキやヤマシャクヤクが咲くらしいわ」
「どんな花なの」
「ヤマブキは、文字通りヤマブキ色の花が咲く木。ヤ
マシャクヤクは、白くてボタンに似た花や」
更に30分ほどで五銚子の滝に着き休憩。白糸のよ
うに流れ落ちる滝をバックに写真を撮る。左右の紅葉
が滝とコントラストになり、ヤマウルシの葉も赤くな
っている。
ここからは急登が続く。15分ほど登ったころで、
宏幸が足を止めた時、見上げると、
10メートルほど先の登山道に動物がいる。
「カモシカや。こっちに気づいているな」
「山で動物に出会うなんて、感激だわ。一頭だけかし
ら」
「たぶんな。静かにして、やり過そか」
「自分の縄張り守りながら、食料も自前で確保しなけ
ればならないけん動物は大変よね」
「人間みたいに、弁当の入ったリックを背負うたカモ
シカは見たことないしな」
やがて、カモシカは登山道を横切り谷へ降りていっ
た。
「カモシカは、鹿の仲間やなくて牛の仲間やそうや。
結構好奇心が強くて人間を見ても驚ろかんみたいや」
「だから、さっきはじっとこちらを見ていたのね」
白谷登山口から約3時間で横山岳西峰(標高113
2m)に着いたが、展望は良くない。
「東峰に行こうか。途中が遊歩道になっていて景色え
えのや」
「ここが頂上じゃないの」
「双耳峰いうて、二つのピークがあるんや」
20分で東峰(標高1131m)に到着。今度は視
界が開けており、少し遅い昼食を摂る。秋晴れで空気
も澄んでいる。
「あの、向こうの一番高い山が白山らしいな、反対側
のこっちには伊吹山や」
「伊吹山って簡単に登れるの」
「下からでも3、4時間。三合目までスキーリフトに
乗ればもっと楽や。もっとも、岐阜県側からドライブ
ウェーが付いていて、山頂近くまで行けるんや。でも
そんなん登山言わへんけどな」
下りは西峰に戻り、三高尾根を通り鳥越峠を経てコ
エチ谷に出るコースを取った。
白谷登山口から200メートルほど下った所の林道
に降り立つと、近くに日本猿の集団が屯ろしている。
畑には秋野菜や柿が実っているからだ。
猿たちには目を合わさず、じっと立ち止まっている
と、やがて里の畑に降りていった。
「食べ物が少なくなる冬に備えて、食い貯めしに来る
んや。結構太っとったな」
「猿は冬眠しなかったわね」
「哺乳類で、冬眠するのいたかな」
「熊がするんじゃないの」
「熊は冬眠状態にはならないから、冬ごもりと言うん
やそうや」
たそがれ始めた林道を下る。
「土曜日だけど、人は少なかったわね」
「あんまり有名な山やないからな」
宏幸は佐知子と手をつなぐと、柔らかな感触が伝わ
ってくる。二人は幸せを噛み締めながら、トアエモア
の歌を口ずさむ。
「♪・・ああんなに おしゃべり していたけえれど
・・」
手に持ったススキを回しながら、バス停まで下って
いった。
章末注記(1)キャラバンシューズは、2003年
製造中止
(参考文献)
アルペンガイド 鈴鹿美濃 1992年版山と渓谷社
・・・「新年会 1970年正月」に続く。
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