第一部(2、美ヶ原、霧ヶ峰)

  美ヶ原、霧が峰 1969年夏


 ある日のこと、遊び仲間の一人で、長野県信濃大町

から少し西へ行った、大町温泉郷出身の浜田という学

生が、

「夏休みに長野へ来ないか。美ヶ原から霧が峰方面は

自然がいっぱいで最高だぞ」

と、言い出した。

 彼が中心になりメンバーを募ったところ、男子学生

5人と女子学生3人が集まった。

 それからは、皆が毎日のように喫茶店に集まり、旅

の計画を組み出した。

 宏幸は、時刻表を京都駅で調べたきた。

「日程を有効に使うなら夜行がいいよ。夜の10時半

過ぎの急行ちくま3号に乗れば、翌朝6時過ぎには松

本に着く。そこからバスで美ヶ原入り口まで直行でき

るね」

「浜田はどうするの」

「俺は先に長野へ帰っているんで、直接松本駅に行く

よ」

「他の者は7月22日木曜日京都駅10時集合。間違

えんなよ、夜の10時だぞ」

 ガイドブックや時刻表を見ながら、1杯のコーヒー

が冷めるているのを忘れ、男女が頭を突き合わせて相

談しあう時は、若者達の至福の時間である。

「でも、昼食なんかは自分達で作りたいね。山小屋で

も昼の弁当作ってくれるらしいけど、ガイドブック読

むと、中身はおにぎりとタクアンがせいぜいで、楽し

くないよなあ」

「インスタントラーメンでも、ワイワイ言いながら外

で作れば、それで大満足や」

 結局夜の食事も作ろうではないか、と言うことにな

り、黄土色のキスリングと彼らの計画はどんどんと膨

らんでいく。

 荷物の中で特に重いのは、メタと呼ばれる固形燃料

であるが、かさばるのはポリタンと、鍋やフライパン

等が組み合わせになったコッヘルセットである。なぜ

か宏幸は、トイレットペーパー1巻も入れ込んだ。

 いざ決行。

 ところが夜行列車では寝付かれない者が多かった。

寝台車ではないので2人掛けの座席に横になるか、

通路に新聞紙を敷き直接寝るのであるが、米原、岐

阜、名古屋、木曽福島と、駅につく度にガシャンとい

う列車の連結器の音が目覚めさせるのだ。

 列車は松本には早朝に着く。昨日買っておいた味付

けパンなどで朝食を摂る。

 松本からバスに乗り約2時間、天狗ノ露岩バス停で

降りる。そこから40分程を登り切れば、王ガ鼻に着

く。ここが美ヶ原の西の端で、淡紅紫色の花、ハクサ

ンフウロが出迎えてくれた。

 東へ歩くこと20分で最高峰の王ガ頭(標高203

4m)に着く。天気も良く、

「あれが富士山で、左へ八ヶ岳、浅間山。右へ御嶽、

槍穂高。360度のパノラマだ」

と、地元解説員の浜田が案内する。

 このあたりは牛も放牧されており、梅雨もあけ、登

山道脇にはチングルマやヤナギランなどの花が、今を

盛りと咲き乱れている。

 岡山県出身の佐知子は、海辺の田舎町で育ったこと

もあり、山登りは感激することが一杯のようである。

「宏幸、この黄色い百合みたいな花は何て言うの」

「これはねニッコウキスゲや」

「へえぇ、よく知ってるね。何処で覚えたのよ」

「山と渓谷という雑誌に付録が付いててね、これこれ

この本」

と、キスリングのサイドポケットから取り出し、

「こうやって図鑑と照らし合わせながら見ると、よう

覚わるんや。佐知子みたいに人に聞くばかりじゃ記憶

に残らんよ」

「そうね、それ貸してよ宏幸」

「ええけど、返せよ」

「すぐ返しますよ」

「この間貸した、建築計画の講義ノート、まだ返して

もらってないんやけど」

「いけない、帰ったら返すけん」

 横からいつも合いの手を入れるのが上手い佐藤が、

「いつから二人は、宏幸、佐知子と呼び合う間柄にな

ったんだよ」

 佐知子は、思わず赤くなり言葉が出せなかったが、

宏幸は、

「そんなんじゃないんやけど、そう見えるかね・・」

「見える、見える」

と、大合唱で返される。

 そして、美しの塔や、東の端の白かば平、そしてお

仙ケ淵伝説が残る巣栗渓谷等を巡り、最初の宿泊地、

本山小屋に着いた。1泊2食で1500円である。

 ところが、ハイシーズンでもあり、なんと男女8人

が、六畳の一部屋に放り込まれた。そして布団は二人

で1枚である。困ったことに男女が奇数づつであり、

少なくとも男女一組のペアを作らねばならない。しか

し誰もがこの問題に触れようとせず、布団も敷こうと

しない。しびれを切らして佐藤が、

「リーダーの浜田に決めてもらおうではないか」

「おいおい、勝手にリーダーにするなよ」

「当然みんなは浜田がリーダーと思っているよ。さあ

決めてくれ。決定したことには全員従うから。ただし

くじ引きなんて無責任なやり方は、やめてくれよ」

「くじ引きを提案しようと思ったのに先に言うなよ。

しようが無い。独断と偏見で決めるぞ。宏幸と佐知子

がペア。文句言わせない」

 こうして、二人にとっては不安な夜となった。躊躇

する宏幸に対し、佐知子は案外冷静そうに振舞ってい

る。しかし一枚の布団の中では離れて寝ることは出来

ない。どうしても、お互いの体温が伝わってくる。

 宏幸が動けば佐知子の柔らかな部分に触れてくる。

顔の間近には少し開き気味の唇が有るので、気になっ

て寝付かれないようだ。

 出来るだけ動かないでおこうと思い、両手を胸の上

に置いていたが、うとうとして少し経つと、いつのま

にか宏幸の手は佐知子のお尻の横辺りに触れていた。

そっと引こうとした矢先、なんと佐知子の手がその上

に降ろされてきた。

・・しまった。眠ってなかったのかな・・

と宏幸は思ったが、どうやら佐知子は無意識らしい。

しかし宏幸の手の上に佐知子の手、というより腕全体

が乗ってしまったので、身動きが難しくなった。

 一方、佐知子も本当はなかなか寝付かれなかったよ

うだ。宏幸と二人きりならいいのだが、周りには学友

がいるのであり、いくら半公認の仲とは言え、他の女

の子には気兼ねしなければならない。話す事や動く事

で出す音も控えなければならない。

 ところが、やはり昼間の疲れが出たのか、二人とも

いつのまにか意識がなくなっていた。そうなれば、ど

のような動きも責任は取れなくなる。

 佐知子は、朝は早く目覚めたのだが、いつのまにか

宏幸の右腕の上に佐知子の左腕があり、それを抱える

ように右を向いて宏幸は眠っている。目の前に、髭の

伸びかけた顔が有る。

・・男の人って、あんがい無防備な時は可愛いい顔し

てるのね・・

と、思いながら、右手で宏幸のざらついた頬をそっと

触った。すると思いがけなく、宏幸の目が開いた。宏

幸は声を出さずに唇の形だけで、

「お・は・よ・う・・ね・む・れ・た・か」

「す・こ・し・だ・け」

「そ・ん・な・こ・と・な・い・や・ろ・・い・び・

き・か・い・て・た・で」

「う・そ・で・し・ょ・・わ・た・し・じ・ゃ・な・

い・け・ん」

「さ・ち・こ・の・ね・が・お・か・わ・い・か・っ

・た・な」

「い・や・な・ひ・ろ・ゆ・き・・も・う・ご・じ・

よ・・お・き・ま・し・ょ・う・よ」

 宏幸は布団を跳ね上げ、他の男どもの布団も剥がし

始めた。

 リーダーの浜田も、きびきびと指示を与える。

「男全員は先に洗面とトイレ。その間に女の子は着替

え。15分で済ますこと。男どもは、それまでに戻っ

てきたら罰金」

 女三人、着替えは無言で済ませたが、何となく、お

互い気まずい雰囲気が出来てしまっている。佐知子は

つぶやく。

・・そんな顔されたって、私が決めたんじゃないんだ

から・・

 山小屋で出された朝食を済ませ、二日目は茶臼山、

扇峠、和田峠を越え、八島湿原を経て霧が峰に入り、

車山を右に見ての白樺湖までの強行軍である。ハイラ

イトの八島湿原に着くと、七島八島ガ池、鎌ガ池、鬼

ガ泉水等の池塘には、ヒルムシロの葉が浮いている。

「昼食ぅぅ」

 御射山遺跡を越え沢渡りに着くと、リーダー浜田の

号令で一斉にキスリングを降ろす。そして、今朝打ち

合わせた役割分担のもと昼食準備が始まる。宏幸と佐

知子は水汲み係りになっており、全員のポリタンを集

めて西へ向かうと、

「宏幸、この看板見て。ビーナスライン予定コースっ

て書いてあるよ」

「道路は直ぐ南まで来ていて、最終は今日通ってきた

扇峠のバス停まで繋がるらしいんやけど、環境破壊の

問題で工事がストップしてるんや」

「静かな環境が失われ、都会の喧騒とゴミが持ち込ま

れ、靴の踏み込みで高山植物が絶滅していくなんて、

悲しいわね」

「我々もその一員や。車を使わず歩いて入る登山者は

別や、なんて考えはエゴや」

「どこの山でもそうだけど、できるだけ環境に優しい

登山をしたいものね」

「食事の後始末も、水で洗い流すのではなく、紙や布

で拭き取るようにしようや」

「トイレットペーパー持ってきたのはその為ね。そん

なこと考える人って、まだまだ少ないわよ」

「何年後かには、当たり前の考えになることを願うば

かりや」

 昼食を終えた一行は、ニッコウキスゲが揺れる車山

山麓を北に巻き、午後の5時頃に、白樺湖畔の深山荘

キャンプ場に到着した。

 ところが、結構皆はバテててしまい、夕食は自炊と

決めていたにかかわらず、全会一致で近くの食堂へ直

行した。

 そして、たまたま空きがあったバンガロー3棟を借

りられたので、おしゃべりもそこそこに、それぞれの

棟に入った。

 宏幸の同部屋は浜田だったが、

「いびきがうるさいなぁ、眠れないじゃないか」

と、眠りこけている浜田に悪態をつきながら、仕方な

く散歩に出た。

 一方、佐知子も眠れなかった。

 横になってからの女の子三人の会話も、潮が引くよ

うにだんだんと静かになったが、佐知子は考え事で目

が冴えていた。

・・私って、気づかないうちに、いつのまにか宏幸を

意識しだしているんだわ。彼の笑顔を見ると、なんか

吸い寄せられるようになるのね。でも、昨日はあんな

に皆からひやかされたけど、彼はどう思っているんだ

ろう。案外、私の一人相撲だったりして・・

 佐知子はあれこれ思いながらも、ちょっと夜風に当

たりましょとばかりに、バンガローから這い出した。 

 白樺湖は波音もなく、静けさだけが漂っている。佐

知子はボート乗り場のある方向へと歩き出したが、後

ろから砂を踏む音がして、

「眠れへんのか・・俺もや」

 宏幸だった。

「由美子と香織が寝ちゃったけん、そっと抜け出して

きたの」

「都会にない静けさやな。もっと静かな所へ行こう」

「何処なの」

「ボートに乗ろうよ」

「怖いわ」

「怖くないよ。でも少し怖いかな。俺、金鎚やったし

な」

「いいわ乗せてよ。こんなこと滅多に出来ないけん。

・・でも変なことしちゃいやよ」

「はいはい、お嬢様」

 二人乗りのボートで佐知子を後ろに乗せ、宏幸がオ

ールを握りゆっくり漕ぎ出していく。もちろん無断拝

借である。 

 湖といっても、広いところでも幅が300メートル

程度だが、50メートルも岸から離れれば、遠くに防

犯灯らしきものが見えるだけで、周囲は「宵月」の月

明かりだけの世界である。

 ギーギーという音だけが、いやに二人の耳につく。

「とめてよ。やっぱり怖いけん」

「そうかぁ、じゃ漕ぐのをやめて星空でも見ようか」

 薄明かりの中で、宏幸はそっと佐知子の腕をつかん

だ。ゆっくり寝転び、肩を寄せ合わせて見上げる。

「じっと見ていると、点滅する星もあるのね、蛍を見

てるみたい」

「明日の天気は良いやろ。ただし、風は強いで」

「どうしてわかるの」

「星が瞬くのは、安定した寒冷前線が通過している証

拠や。前線が通過したあとは、当然天気が良うなる。

ただし寒冷前線は低気圧をたいがい伴うとるから、そ

れに向かって風が吹き込むわけや。こういうのを観天

望気いうんや」

「ふううん。ところで宏幸、オリオン座って、どのへ

んなのよ」

「オリオンは冬の星座で今の時間では見えへんよ。そ

れよりも、あの真ん中の一番明るい星がベガ、そして

南東に少し下がってアルタイル。日本名が、佐知子も

知っている織姫と彦星や」

「宏幸って、何でも知っているのね」

「そうかな。でも佐知子のこと、あんまり知らんよ」

 そう言って、ふいに宏幸は佐知子の唇を塞いだ。

 ボートが左右に少し揺れるのを気にしながらも、あ

あ、やっぱりこの人は私が好きなんだわ、と、戸惑う

ことなく佐知子は素直に受け入れ、宏幸の首に手を廻

した。

 やがて、佐知子が見上げる天の川も小刻みに揺れ出

し、砕けて散った。


 章末注記(1)キスリング=帆布製の登山ザック

     (2)ちくま号は、2005年廃止

     (3)ビーナスラインは、残念ながら19

       81年全線開通


(参考文献)

アルパインガイド 美ヶ原霧が峰蓼科高原 1970

             年版    山と渓谷社

夏山JOY    1975年6月号他 山と渓谷社 

山と渓谷     1988年8月号他 山と渓谷社



・・・「横山岳 1969年晩秋」に続く。

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