関連作『いま、危険な愛に目覚めて』

1985.07/集英社文庫

<電子書籍> 無

【評】 うなぎ(゚◎゚)


● 栗本薫らしさに溢れる名アンソロジー


 栗本薫の選出により著名作家の隠れた名作を集めたアンソロジー。

『片腕』川端康成、『踊る一寸法師』江戸川乱歩、『侏儒』栗本薫、『獣林寺妖変』赤江瀑、『前髪の惣三郎』司馬遼太郎、『会いたい』筒井康隆、『カイン』連城三紀彦、『公衆便所の聖者』宇能鴻一郎、『星殺し』小松左京、『日曜日には僕は行かない』森茉莉、以上10篇収録。


 栗本薫が趣味全開で選出した作品を集めたアンソロジー。

「文学史上に残る名作、埋もれた傑作を収録」と銘打ち、著名作家が趣味を最大限に発揮して選出するアンソロジーシリーズの一作である。例えば五木寛之は『音楽小説名作選』、筒井康隆は『実験小説名作選』、色川武大は『食前にたっぷり』、宮脇俊三は『鉄道が好き』と題されたアンソロジーを選している。


 これは栗本薫関連作の中でも隠れた名著である。栗本薫の趣味=ホモであるのは想像に難くないであろうし、その想像はおおむね間違っていないのだが、すべてがホモ作品というわけでもない。ジャンルも作家名を見れば分かる通り、ミステリ、SF、歴史もの、ホラー、文学と様々だ。これらの作品に共通しているのは、妖しく幻想的で退廃的で破滅的な情念……つまりは表題の通り「危険な愛」だ。雑誌『JUNE』のキャッチコピーから取った本書のタイトルを、あとがきで栗本薫は「私流の冗談」と述べており、事実ちょっと笑ってしまうタイトルではあるのだが、収録作に通底するものをあらわしたタイトルでもある。


 川端康成『片腕』は、少女から一晩片腕を借りる話である。片腕を借りる、というのは、文字通り腕を肩から外して貸してもらうのだ。そうして少女の片腕をなでさすり会話し共に寝るさまを描いた、フェティッシュでド変態な幻想小説である。「YESロリータ、NOタッチ」の精神を貫いた真性のロリコン紳士である川端康成らしすぎる作品であり、その端正な文体とともにレベルが高すぎていまの僕にはついていけない一作である。


 江戸川乱歩『踊る一寸法師』は、見世物小屋で働いてる侏儒がいじめられる話。いつもの江戸川乱歩としかいいようがない怪しく陰惨な短編だが、幻想的な名短編して名高い『押絵と旅する男』でも『目羅博士の奇妙な実験』でもなく本作をチョイスするのが渋い。本来は『芋虫』を収録したかったらしいが、いずれにせよ奇形・不具に対する栗本薫の熱い想いが伝わってくる。その情熱はアンソロジー全体を貫くものとも云えるだろう。


 栗本薫『侏儒』は、まさに江戸川乱歩の影響を色濃く感じさせる怪奇小説。森の中の洋館で外界と隔絶したまま、人間蜘蛛のごとき醜い侏儒に育てられた美少年の話だ。アリストートスや刀根一太郎など、栗本作品に何度も何度も出てくる『ノートルダムの鐘』のせむし男みたいな怪人が、美少年にストーキングして気持ち悪いうわ言を云い続けるという、いつものアレである。冷静に読むといきあたりばったりで短い作中に矛盾が存在するノリと設定だけの作品ではあるのだが、、初期のこととて文章に妖しい雰囲気があり、栗本薫の怪奇小説の中でも出来は良く、この名品だらけのアンソロジーの中でも見劣りはしない。

 後に『蜘蛛』と改題され、短編集『蝦蟇/蜥蜴』に収録された。


 赤江瀑『獣林寺妖変』は、歌舞伎でホモで殺人事件という赤江瀑のいつものアレ。だがただのホモ小説ではなく、古刹の血天井(戦国武将が落命したときに血のついた床板などを供養のために天井に貼ったもの)を調べたらここ数ヶ月でついた血痕が混ざっていた、しかも血液が下から上に垂直に落ちとしか思えない血痕であった、という導入からして、ミステリーとしても十分に引き込まれる作品である。

 改めて読むと栗本薫の芸道小説は赤江瀑の小説からミステリ要素を抜いたようなものだったのだなと思うが、カレーライスの福神漬が好きだからとルーを抜いて福神漬山盛りにするような蛮行である。


 司馬遼太郎の『前髪の惣三郎』は、今日では大島渚の映画『御法度』の原作として知られている。大島渚はこのアンソロジーを読んで今作を知ったという。意外なところで外部への影響の大きいアンソロジーである。

 内容は新撰組に入ってきた美少年のせいでホモ痴情のもつれが起きまくってさあ大変、というもの。司馬遼らしい断ち切るような文体で、美童が男を知り魔となっていく姿が妖しく描かれている。『夢幻戦記』に出てくる魔童・楠小十郎や、同人誌『MU・GE・N』シリーズにおける沖田総司によって、新撰組にホモの嵐が吹き荒れて隊規が乱れていく光景は、明らかに今作を元ネタにしたものだ。薫ワールドにおいて新撰組が総ホモなのは今作のせいなのかもしれない。

 自分にとってもこのアンソロジーのなかでも強く印象に残った一作である。二十代半ばごろにひょんなことから司馬遼太郎にハマってずいぶんと読むことになるのだが、「サラリーマンが歴史上の人物に自己投影してニヤニヤするための小説」という偏見を持っていた司馬作品を手に取るきっかけとなったのが、十年以上前に読んだ今作であるのは間違いない。


 筒井康隆『会いたい』。好きな子をいじめてしまうタイプのドS男がいじめすぎて女の子を殺してしまい発狂する様子をポエジーに描いた作品。……と説明しては理に落ちすぎてなんかちがうのだが、雑に説明するとそんな感じである。

 筒井康隆は『傷ついたのはだれの心』をはじめ、狂気と暴力性に満ちながら切実な哀しさを湛えた短編をいくつか残しており、今作もそうした作品の一つである。真性ドSの筒井康隆らしい歪んだ恋愛小説であり、「やめてやめないで」のSMプレイが大好きな栗本薫らしい選出である。


 連城三紀彦『カイン』。病院から脱走した二重人格の恋人(ホモ)を追いかける精神科医(ホモ)の話。ホモとか耽美とかいう以前に、文章の上手さに唸ってしまった。文章が端正だというのもあるが、設定の説明が自然すぎる。連城三紀彦は本当に上手い。

 九十年代にやたらと多重人格ものが量産されたため現在では手垢のついたストーリーに見えてしまうが、シンプルであるがゆえに今読んでも十分に面白い。

 九十年代に栗本薫は多重人格にハマって多重人格ものの小説を書くわシリーズの途中からキャラを多重人格設定にするわ自分も多重人格だと云いだすわで、まさに黒歴史の見本市のようなことをしていたものだが、その端緒は今作にあったのであろうか。

 作品的に云うと『シンデレラ症候群』『いとしのリリー』は今作にかなり強い影響を受けているのがわかる。薫はいつだって自分から元ネタを教えてくれちゃうんだ。


 宇能鴻一郎『公衆便所の聖者』は、巻末解説で栗本薫が特筆しているように、本書の中でももっとも鮮烈な印象を残す作品だ。

 本作は「映画館のトイレや公衆便所などで壁に穴を開け女陰の絵を描き、だれかが興味本位でペニスを入れてくるのを口をひらいて待っている五十男がいる」という都市伝説めいた話を追っていく、ルポ小説めいたもの。

 この話がノンフィクションなのか、それとももっともらしく書いてあるだけの創作なのかはわからない。だが、ゲイでもないのにチンコそのものを崇拝するにいたり、そのために妻子に捨てられ財を失い、穴に向けて口を開けたまま死んだ男の姿に、確かな聖性を感じさせる筆致は、読者を此岸から彼岸へと連れ去る魔力に満ちている。

 読者の目に触れることのない女性器を執拗に丹念に描きつづけるエロ劇画家の姿を描いた栗本薫の初期短編『ナイトアンドデイ』に、薫が本作に受けた強い影響を見て取ることか出来るだろう。


 小松左京『星殺し』は、先遣調査隊が消息を断った惑星に事態の究明に向かう、という昔ながらのSF。SFとしてのアイデア自体は現代の視点で見るとありきたりなものではあるのだが、そこに先遣調査隊にいたマッチョと自称詩人のカマホモのカップルがおり、マッチョの親友である主人公はメンヘラカマ野郎に振り回されている親友に苦い気持ちを抱いていた、というホモの痴情のもつれが絡んでくるところが栗本薫が選出した理由である。

 ストーリーの合間合間に入る主人公の「俺は男だ」論が激しく、それがガチムチオチにつながっているのだが、それはそれとして栗本薫の初期SFに登場するマチズモを振りまく宇宙船乗りの元ネタをしのばせてくれる作品である。


 トリを飾るは森茉莉『日曜日には僕は行かない』。

 もはや説明する必要もないであろう、日本BL史を切り拓いたとも云える耽美小説である。何度読んでもタイトルが素晴らしい。



 さすがの大家・名人ばかりであり、珠玉のアンソロジーと云えよう。

 自分が本書を初めて読んだのは、たしか15歳の頃であった。ほとんど小説を読んでこなかった自分にとって、本書は初めて触れる空気をまとう作品が多かった。「ようこそ!倒錯パークへ!」「(性的な意味で)獣はいるし(社会の)のけものしかいない」という言葉が聞こえてきそうな、変態スターターキットとして有能である。

 今作での名義が文芸評論家の中島梓ではなく、小説家の栗本薫であるのは、こうした作品をこそ良しとする自らの作家としての立場を誇示する意図があったからであろう。巻末解説もふるっており、小説のもつほの暗い魅力、この世にないものを現出させる力への勇気と自負を語る口調は熱い。であるがゆえに、末期を知る今日となっては悲しい解説でもある。

 ことに以下の文が切ない。


 もし万一、少しでも、かれらのペンが自らの予期したよりも力なければ、かれらのみたすばらしい白日夢が、読者のもとへ、意あまって力足りず、届かなければ、その場で夢はさめはてる。馬車はカボチャ、馬はネズミにすぎなかったことが、容赦ないカメラ・ライトにてらし出されて明らかになり、魔法は破れる。未熟な魔法つかいは、傷心をかかえ、嘲笑と面罵をあびつつ、面目を失ってすごすごと家に逃げかえるしかない。



 まるで自身の晩年を予言するような言葉だ。しかし、それをわかっていて、なお以下の言葉を続ける栗本薫が、やはり自分は好きだ。



 だが――だからこそ、いま、これほど、魔法の失われつつある楽屋落ちと道化の時代なればこそ、私は、あえてリスクをおかしても(こういう云い方がゆるされるなら)二枚目を立てとおすことをえらびたい。(中略)小説が現実をなぞって何になろう(中略)悪夢を見るための阿片が私はほしいのだ。



 栗本薫を魅了した素晴らしい悪夢たちと、小説家としての彼女の決意を凝ったアンソロジー。是非とも一読してみてもらいたい。

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