関連作『キャバレー』(映画)
監督:角川春樹
原作:栗本薫
主演:野村宏伸
1986年公開
栗本薫の同名小説を「蘇る50年代」をキャッチコピーに角川春樹社長自らが監督として映画化。
いわゆるクソ映画である。
大藪春彦原作の『汚れた英雄』、赤川次郎原作の『愛情物語』に続く角川春樹監督の第三作目。前二作の時点で監督としての才能にかなりの疑問を呈されていた春樹監督が、今作でもやっぱりやっちゃったぜ、という作品である。
観始めてまず思うのは主演の野村宏伸くんの演技の棒っぷりだ。第一声から腰を砕けさせてくれる見事な棒なのである。しかも声がへにょっとしていて、立ち姿にも華がない。まちがいなく二枚目ではあるものの、ものすごく脇役っぽいのだ宏伸くん。準主役である滝川を演じる鹿賀丈史や、その情婦を演じる倍賞美津子、宏伸くんと寝る三原じゅん子、明らかに出る必要ないのに監督人脈で一瞬だけ出てくる丹波哲郎、薬師丸ひろ子、原田知世、真田広之などが、演技にしろ存在感にしろしっかりとしているだけに、宏伸くんの「ただそこにいるだけのちょっと顔がいいボンクラ」っぷりが際立っている。
画作りもまずく、キャバレーの雰囲気を出すことに注力したのだろうが、基本的にカット割りが冗長で、しかもわかりにくい。ほとんど鹿賀丈史の存在感で間をもたせているだけである。宏伸くんは演技がアレだからなのか、隙あらばやたらと脱いでサービスしてくれている。しかしなぜか三原じゅん子は脱がない。やってるシーンでも宏伸くんの裸ばかりが映る。しかも倍賞美津子すら濡れ場があるのにぽろりなしで、やはり宏伸くんの裸だけ映る。春樹は宏伸くんの裸以外見たくないということであろうか?
また「蘇る50年代」というキャッチコピーだが、別に舞台が50年代という設定でもないようで、小道具はすべて80年代そのものである。あのキャッチコピーはなんだったのか?
脚本的にも、これは栗本薫の原作自体がそうだから仕方のないところではあるんだが、前半はなかなか事件が起こらず、退屈である。そして原作ではようやく盛り上がってくる後半の展開が丸々変えられており、このせいで宏伸くんの存在自体がストーリー的に不要なものとなっており、完全に鹿賀丈史が勝手に男死にするだけの作品になっている。原作の肝である、音楽のことをなにも知らないヤクザ者が矢代俊一の音楽を守るために身を挺する展開も、助けられた矢代が「あの人の名前も知らなかった」というラストシーンも全部なしである。
多分、本当にキャバレーの情景を撮りたかっただけの映画なのだろう。七二年に公開された名作ミュージカル映画『キャバレー』への対抗意識があったのやもしれない。前作『愛情物語』もまた往年の名作映画と同名作だったし。
しかし原作の良さは基本的に矢代と滝川の関係と終盤の展開のみにあるので、そこを丸々改変してはなんのための映画なのかさっぱりわからない。自分は未見だが『愛情物語』もオチの部分がまるっと改変されていたらしいので、春樹がなにを考えているのかさっぱりわからない。
以上のようなありさまなので、三十なかばのヤング鹿賀丈史や、立ちファックをキメる三原じゅん子(でもぽろりはなし)を楽しむ以外には特に観る必要のない映画である。栗本薫が二〇〇〇年にわざわざ舞台化したのは、自分の萌えツボと完全にずれたことをしでかしたこの映画版が気に食わなかったからかもしれない。
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