328 黄昏の名探偵

2003.10/徳間書店

2007.03/徳間文庫

<電子書籍> 無

【評】うな


● だらしない肉体をしたコスプレイヤーのような短編集


 自作した曲目を小説化した短編集。

 


 巻末に作者によって長文の解説がなされているが、本作は先に中島梓作曲の楽曲があり、それをイメージして描いた短編を集めたもの。それぞれの短編の最初に、もとになった歌詞が掲載されている。


『紅椿』

 母親に疎まれる肺結核の姉がいて、幼い自分は姉にひそかな思慕をつのらせていて、しかし姉が疎まれるのには理由があって、という大正浪漫な話。

 まあ横溝正史の『蔵の中』そのものなんですけどね。原作の『蔵の中』は蔵から隣家の事件を覗いてしまうミステリー要素が強いので、どちらかというと姉との禁断の愛を「姉ちゃんマジこええよ」とガクブルしたくなるくらいの鬼気迫る画でお送りした角川映画版の方が近いか。つうか事件なにもおこらないしね、この話……。いや、いちおうオチめいた部分もあるんだけどさ……。

 そんなわけで初読時は「はいはい有名作品から肝心の事件をなくして雰囲気作品にする栗本薫のいつものアレね」としか思っていなかったが、冷静に読むと本作の設定は栗本薫のネイキッドなコンプレックスと願望に彩られている。

 何度も書いているが栗本薫には白痴の弟がおり、母親がその弟の世話を最優先していたことによって、なんでも自分がナンバー1でないと気がすまない栗本薫は母親に愛憎を抱いていた。いたというかどうも死ぬまでこじらせていたようだ。

 それを敷衍して考えるに、今作はつまり「自分と弟の立場が逆だったら」という小説なのだ。現実の弟に対しては白痴のモンスターあるいは菩薩として描いているのに、自分が病気のパターンでは薄幸の美少女にする辺り、えげつない願望が感じられてならない。姉が父と近親相姦をしておりそれが原因で父が家を出ていっていたというオチも(あ、またオチいっちゃったあ~)も、栗本薫がファザコンで母ちゃん嫌い嫌い病をこじらせていたことを考えると、父親を寝取って母親に女としてのマウンティングを取っているとんでもないメアリー・スー小説である。

 そういう諸々のことまで考えるようになってしまうと、良くも悪くもただの『蔵の中』コピーとは思えなくなって、穏やかじゃないですね……。

 まあでも深く考えずに素直な気持ちを云うなら、ストーリーがあんまりない雰囲気小説なので面白くはないです。



『あの夏――Morning Light』

 映画にもなった初期作品『キャバレー』を、2001年に自分でミュージカル化し、そのときに書き下ろした曲をイメージして書いた小説、というややこしい作品。しかも設定は矢代俊一をダンサーに変更していたミュージカル版ではなくミュージシャンの原作小説版に準じている。マジややこしい。大島弓子原作漫画の実写映画『グーグーだって猫である』の公式コミカライズ作品(作画は大島弓子ではない)と同じくらいにややこしい。

 さておき、この短編は『キャバレー』をキャバ嬢英子の視点から描いた話。英子というのは映画で三原じゅん子が演じていた、矢代俊一の童貞を食った後、ヤクザと立ちファックを決めながらトロッコに乗って退場したあのキャラである。原作では「なんかよくわからんビッチ」程度の認識のまま、適当にストーカーに殺されて退場している。

 内容的には、そんな英子のひがみ根性というか、負け犬めいた心情がつらつらと語られ続ける、栗本薫が初期から中期に定期的に描いていた『ハード・ラック・ウーマン』路線である。

 男たちから性的被害をしょっちゅう受けるほどには美しく、しかしスターになるには全然足りない中途半端な美人である英子の、自意識の落とし所が見つからないで先延ばしにしているうちにどんどん追い詰められていく心情は、なかなか悪くない。そしてそんなところへまさに「選ばれた」存在である矢代俊一があらわれて、嫉妬と愛情をこじらせていくさまはあわれである。というか、完全に『翼あるもの』下巻の透とおんなじポジションだ。違いといえば、同性であるがゆえに対立する道を選ぶしかなかった透に対して、英子には「矢代俊一の初めての女」になることができたということ。

 こう書くと、なんか面白いような気がしてくるが、実際はなぜかそんなに面白くない。負け犬好きで『翼あるもの』を聖典にしている自分がなぜこの話はあんまりグッとこないのか、正直自分でもよくわからない。単純にストーリーが『キャバレー』本編に依存したサイドストーリーにとどまっていて単品では楽しめないからかもしれないし、主人公が異性だから共感できないだけかもしれない。が、単純にこの時期の薫の文章が好きでないだけな気がするね……。

 どちらかというと巻末の解説で「あれはあれで映像とか音楽とか好きだったしおまかせした以上は角川春樹監督にはなにも不満はないんだけど」と栗本薫らしからぬほどにフォローしながら映画版の改変部分に対する不満を述べているのが面白い。男子小学生に対する彫刻刀のように触るものみな傷つける傍若無人の薫でも、さすがに角川春樹には遠慮するんだね……。

 


『黄昏の名探偵・望郷編』

 帝都の誇る名探偵・陣内主水介は退屈でご機嫌斜め。助手の茜丸くんは先生が変なことをしないか心配するが……という探偵コメディSF。

 滑った笑いがノスタルジーにつながっており、栗本薫自身が云うように筒井康隆の名短編『我が良き狼』に通じるものがあり、コンセプト自体はわりと好きな作品である。

 面倒くさいからまたオチから云ってしまうと、なんらかの理由で絶滅しかけた人類が、VR空間で理想の世界を作って過ごしている、という設定で、助手の茜丸くんはそれをサポートするAI的なもの。名探偵はボケだか寿命だか精神が摩耗したかで消滅しそうになっている人間。

 本音をいうとこの設定自体も嫌いではないのだが、「ふぁんくしょんきーヲ押シテクダサイ」「な栗本薫なので、SF設定や言葉のセンスが刊行当時基準でも致命的にダサく、よんでいてなぜかこちらが恥ずかしくなってきてしまう。

 さらに「現代の若者」に対する栗本薫当人の偏見に満ちた物言いがどうにも胸糞が悪く、郷愁の念に対する共感よりも「うっせだまれ老害」感が先に来てしまう。いろんなエッセイでも書いていたけど、晩年の栗本薫の若者ファッションに対する物言いは、そういうファッションが好きではない自分からしても本当にイラッとくるから、よくないと思うんだよね……。だいたい薫も若い頃はこっ恥ずかしい若者ファッションを自慢してたじゃん……中年になってからもラメラメの服着て指十本全部に指輪つけてたりしてかなり攻めるてたじゃん……痩せてる子が憎いからって変な攻撃しないでよ恥ずかしい……

『我が良き狼』は、もはや不要になったヒーローである主人公が決して邪険にされずむしろ気を使われているのがむしろ切ないですよ……恥ずかしい格好した若い子にいじめられて「昔は良かった」じゃ本当にただの被害者意識だけが強いクソ老人じゃん……・。

 なんかストーリー以外のことばかり書いてしまったが、ストーリー的にはSF設定には新しさがなく、展開に緩急がないため、いまいち面白くない。設定は好みなので80年代の栗本が書いていたら自分好みの作品だったんだろうなあ、と切なく思うばかりである。



『タンゴ・トリステサ』

 19歳のめんどくさいお嬢さんがパーティーでちょいワル親父に一目惚れしてずっとぶつぶつ云ってる話。

 解説によると「サガン風味」らしいが、学のないぼくはサガンの小説を読んだことなどなく、C-C-Bの『不自然な君が好き』の歌詞「サガンの小説の少女のように気難しい顔が素敵だね」から、サガンの小説にはめんどくせえ女が出てるんだなと推測するしかない。そしてこの作品の主人公の少女はたしかにめんどくさい。おしりペンペンすればいいんですよこんなガキは。屁理屈ばっかこねてイケオジ見た瞬間にビチョ濡れになりやがって、ただのファザコンのわがまま女じゃねえか。

 薫本人は掌編と書いているが、これは掌編でも短編でもなく「長編の出だしだけ書いて投げ捨てたもの」である。なにせ冒頭で過去を改装する形になっているのに、まったくそこにつながっていない。道場主が「思いつきで書くな。書いたとしても人様に見せたり道場に送ってくるな」と、おこな反応していたことがあるが、「それな」としか云いようがない。栗本くんはへんへの言葉をケンケンフクヨーするように。



『薔薇廃園~亡き王女のためのパヴァーヌ~』

 吸血鬼の伝説が残る崩れかけの城館を訪れた二人の少年(ホモ)は、そこで出会った美しい魔物に魅入られて……という話。

 舞台『ヴァンパイア・シャッフル』のアフターストーリーと言うか番外編というか、ともかく露骨に本編ありきの作品で、単品で見てもよくわからない。『ヴァンパイア・シャッフル』はオーギュとジルベールみたいなホモカップルが『ポーの一族』しているコメディ。栗本薫はそのカップルがSMホモセックスしている話を公に発表することなく延々と書いており、後に『ヴァンパイア・サーガ』と題して同人誌として頒布した。このシリーズは商業で定期的に「こんな話もあるんですよチラッチラッ」していたので、きっと本当は同人誌ではなく商業にしたかったのだろう。受けキャラがちんこちんこずっと云ってて気持ち悪いしストーリーがない雰囲気小説なので無理ですよ薫……。



 栗本薫が商業で発表した短編集としては、伊集院シリーズを抜きにすれば本作が最後のものとなる。だが短編集とは名ばかりで、長編作品の一部分やワンシチュエーションを抜き出しているものばかりなので、短編として楽しめるものではない。栗本薫の短編が好きな自分としては非常に残念だった短編集である。

 全体的に、設定だけ見るとけっこう好みのはずなのに、なぜか全然面白くなかったのは、短編なのにろくにオチがないからなのか、単にこの時期の栗本薫の文章が好きではないからなのか、自分でもよくわからないところがある。

 雰囲気を楽しんで浸るタイプの作品集なのだろうが、そういう作品は独自の世界観や美学をもった作家だから成立するのであって、基本「~~風味」でオリジナリティのない栗本薫は、ちゃんとストーリーを作った方が良い。

 栗本薫は基本的に、好きな既存作品に似せて書くことでいい女や美少年になりきることを楽しむという、コスプレイヤー、それも作品愛からではなく強い承認欲求からコスプレするタイプのコスプレイヤー気質である。それでも見られるに足る技術や研鑽があればそれも一つのプロフェッショナルではあるのだが、プロとして商品に足る工夫をされていない本作は、デブのなりきりコスプレ写真の垂れ流しのようなものである。


 今作は徳間書店からの出版だが、徳間から栗本薫の本が出ることは非常に珍しい。1980年の『あずさの男性構造学』以来のはずだ。

 SFに力を入れていた徳間がなんで栗本薫と仕事をしなかったのか……といえば、おそらく「太陽風交点事件」のせいだろう。1981年に起きた、第一回日本SF大賞作品をめぐっての早川と徳間の出版トラブルであり、それを引き起こした張本人が栗本薫の旦那の今岡清である。この事件があったせいで、徳間は栗本薫に依頼することがなかったのだろう、と自分は理解している。

 それがなんで2003年にもなって徳間から短編集が出ることになったのかはわからないが、ずいぶん古い事件なので知らなかった若い編集者が執筆依頼してしまったのではなかろうか。

 しかしそんな微妙な関係にある状況下でも「だが彼はそのまましかし彼は無表情に目をそらした」(原文ママ)という文章がそのまま通ってしまうなど、薫のママイキぶりは健在である。それにしてもひでえなこの文章。

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