263 タナトスの子供たち ―過剰適応の生態学―

1998.10/筑摩書房

2005.05/ちくま文庫


【評】う


● バイバイ、評論家の中島梓先生……


 中島梓名義の評論本。

『コミュニケーション不全症候群』の続編にあたり、ヤオイに焦点を当てて社会を語っている。


 前作『コミュニケーション症候群』で中心的に語ったオタク・ダイエット・ヤオイの内、「オタクは落ち着くところに落ち着いた気がするので興味がなくなった、ダイエットはより深刻になって今の自分には手に余る。となると今の自分の語りたいことはヤオイを好む女性についてだ」という理屈でヤオイについて語った本になっているのだが――


 この評論、一言で云うと寝言である。

 そもそも『コミュニケーション症候群』自体で言及されていたものの中で、ヤオイに関してが一番的外れであった。(ちなみにこの本が出た当時は「BL」という名称は生まれたばかりでまだ定着しておらず「JUNE・耽美・やおい」など呼び方が不確定な時代であった。そして腐女子という言葉も当然なかったのでまとめて「ヤオイ」と表記されている。が、シリアスJUNEもBLもアニパロも全部いっしょくたにそう呼んでいるので非常にわかりづらい)

 今作はそれから八年が経ち、その間、的からはずれた照準をあわせ直そうという努力をしなかったため、ずれが年月分だけ着実に大きくなってしまっているのが原因だ。


 ではなぜずれているのかというと、それは中島梓の自己分析に欺瞞があるからである。

 あらゆる本のレビューで書いているが、彼女の作品はコンプレックスとルサンチマンに満ちている。彼女の抱えたコンプレックスの要点はだいたい三つに分けられる。

 一つは「力への希求」。軽んじられることを極端に嫌った彼女は人の下に立つことを拒み、実力・権力を求めた。はじめはお遊び半分の企画だったとはいえ若輩の身で小説道場で後進の指導をし、また劇団を主宰して舞台を興行し、パソコン通信でもパティオで人を集めちょっとしたカルト教団のミサの様相を呈していたのは、すべてこの人の下に立ちたくないという強烈な意識が為したことだ。

 この点に関しては、梓自身は自覚的であり、自分がホモ小説を通じて書きたいのはパワーゲームなのだろうと自己分析している。それ自体は間違いではない。だがこれは云わば自分で認められる程度の痛みであり、そこだけでは分析は到底足りない。


 いま一つは外見への強烈なプライドとコンプレックス。彼女の小説が異様に美形の描写にこだわり、しかもそれがいつもおんなじような顔であるのは、理想の投影にほかならない。少し呼んだだけでも美へのコンプレックスが異様に強いことは誰でも察するだろう。さらに彼女が自分に施すメイクはかなり異様である。特に入念にアイシャドウを用い、どの写真でも目を見開いていることから、潰れ気味のタレ目をなかったことにしたいのがバレバレだ。

 それでいて、こんなにも自著に著者近影が載っている確率の高く、しかもその近影で使われる写真がこまめにアップデートされている作家というのも非常に珍しい。顔で商売しているわけではないのだし、あまり顔を見せたがらない作家というのはいくらでもいるのにここまでドヤ顔の近影を載せ続ける彼女が、「美人だ」と思われたくてたまらないのは嫌でも伝わってくる。

 個人的に云えば、別に中島梓は不細工な顔というわけではないと思っている。美形にはほど遠いが、ある種の愛嬌のある顔だと思う。中年になって太ったのも、やや度が過ぎてはいたが、経産婦で座業で運動嫌いで食いしん坊なんだから仕方ないだろうと思う。

 ただ、その事実を認めぬように、顔の上に別の顔をつくるような無理な化粧を施し、嘘の少食アピールを繰り返し、若い子の痩せ方を非難するようなことをしていたことが、彼女の外見を生まれ持ったものよりはるかに残念なものに見せてしまっていた。


 最後の一つは「性的欲求不満」である。エロ小説を書きまくっているんだから、ヤりたいという気持ちが溢れているのは当然である。無論、商売として書いているエロ作家もたくさんいるのでイコールで作者の願望とは云わないが、しかし彼女の作品のプレイ内容はエンターテイメントとしてのバラエティに富んではおらず「巨根のストーカーに無理やりレイプされるSMもの」がほとんどであるため、切実な願望以外の何物でもない。また同時にこれは外見との連携で「モテない」というコンプレックスにもなっている。


 創作物を見ることは精神カウンセリングに似ているといい、ことにJUNE作品にはそれがことさらよくあらわれると幾度も主張したのは中島梓自身である。こうしたコンプレックスは、彼女の著作を数冊も読めばほとんどの人間に伝わっただろう。

 だが彼女はそれを自分で認めることはついぞなかった。自分は野菜ばかりたべているといい、モテたといい、既婚者であることを強調しつづけた。彼女にとってはモテない不細工で欲求不満な惨めな自分の願望充足作品であると認めてはならないものだったのだ。


 別に認められない事自体は罪ではない。しかし、実作者の一人として自分を俎上にあげてヤオイを論ずるといいながら、作品に明白にあらわれた自己の欲求を認められないのではお話にならない。

 BLの多くは作者の分身であるウケを作者の分身であるセメが慰撫してくれる自分のための箱庭であると論じながら、栗本薫の作品はパワーゲームの話なので現実とぶつかっていくリアルな話であるなどというとんちんかんなことを言い始める。言うまでもなく栗本薫のホモ小説のほとんどは「理想の自分である美貌の受け」を「現実の自分の分身である醜い負け犬の攻め」がストーキングする話である。力・外見・セックス、この三つへの希求が渾然となってあらわれているのが彼女の作品だ。

 それを認められないから、彼女のヤオイ論は自分以外の作品を論じるときも性的欲求をないものとして語っている。無論、それがすべてではないが、JUNEやBLの書き手にエロ魂があることを認めないため、に、見当違いなことばかり云っている。


 さらにそんな分析の曖昧な自分をヤオイ作家の王道タイプと見做しているため、「ヤオイ作家は少女漫画家に比べて既婚者が多い」「ヤオイ作家には長女が多い」などの見当違でもあり作家に対して失礼でもあるようなことをとうとうと述べている。評論なら全然説得力のない狭い見識での感情論ではなく、母数を多くとったデータを見せろと云いたい。


 こうした作者の歪んだ自己像のためにおかしくなった部分にくわえ、純粋なデータとしての間違いも非常に多い。

 アニパロのカップリングはいつも決まっているといい、その一例として「若島津くんが攻めで日向小次郎は受け」などという「こじ×けん・けん×こじ」戦争を知らんのかとおどろくようなことを云い出す。よりによって盛大な焼け野原を作り「逆カプにはお互いに触れないようにしよう」という不文律を作ったカップリングをなぜそこで出す。

『ドカベン』がプロ野球にいかずにずっと甲子園にとどまっていたのは少年漫画の構造の問題といっているが、もちろん間違いで本来はプロ野球編にすぐに行く予定だった。単にドカベンとあだ名されていたリアル選手の香川がプロ入りしてしまったので、香川の引退までお蔵入りしていただけだ。

『幽☆遊☆白書』が尻すぼみな感じで終わったのもトーナメント形式の少年漫画の限界とかいっているが、冨樫義博が週刊連載、特にアシスタントとの共同作業が嫌になって連載をやめたくなり意図的に物語をぶっ壊して投出したのは有名な話だ。

 別に素人が好き勝手に噂する分には勝手なのだが、評論という形で世に出すのなら、調べればわかるようなことは調べるべぎだろう。

 中島梓の著作はもともと記憶力と推測に頼った部分が多かったが、今作では当時信者であった自分ですら「さすがにこれはいい加減なのでは……」と思ってしまったほど事実関係の把握が雑すぎるのだ。

 

 データ以外の考察にせよ、例えばエロシーンのテンプレに「攻めが一度受けをいかせてしかるのちに挿入をする」という流れをリアルではないといいしかしそれをやるということは理由があり、それは男同士は女と違って射精が感じている証拠になるから云々……と語っているが、別に一度愛撫でいかせてから挿入するのは男性向けエロ漫画でもAVでも当たり前のことであり、男の自分からしてみれば「感じさせれば和姦」という理論によって罪悪感を減少させて心置きなくエロを満喫するための形式でしかない。そもそも性的対象が感じている姿に興奮するのが普通なんだから、エロ作品によく使われるのは当然だ。

 しかし栗本薫はSM至上主義で痛くなくてはいけない派のため、どうも違う派閥の気持ちがわからないらしい。別に個人的な趣味は勝手だが、読者に求められる王道プレイの意味を客観視できないのは評論としていかがなものか。


「ヤオイは基本的にアダルト・チルドレンの話である」というのも非常に見識が狭いし、しかもその直後に「『残酷な神が支配する』は完全にアダルト・チルドレンの話だからヤオイではない」とまるで正反対のことを云いだすからさっぱり意味がわからない。どうも栗本薫は全体的に萩尾望都は自分と方向性がちがうからJUNEではないと分類したいみたいなのだが、人気・実力・影響力すべてにおいて萩尾望都を外すのは無理がありすぎる。


 また今作は編集的な部分もひどいものがある。

 もともと中島梓が主宰するパソコン通信のパティオで無料公開したものがもとになっているため、文章がいつも以上にくだけ、(爆)や顔文字が飛び交っているし、内輪向けな言葉が多い。こういうのは書籍化のときに手を入れるべきだろう。漫画のキャラ名もを何度も間違えたり(早乙女乱馬を「乱麻」と書いたり) 、わりと誤字脱字を気にしない自分でもどうかと思うような部分が非常に目立つ。

 担当編集ちゃんと仕事しろ、と云いたくなるが、そもそも校正を「ママイキ」でつっぱねて返すことを誇らしげに書いていた薫なので、もう「もめると面倒くさいからそのままでいいや」とほっとかれていたのだろう。しかし筑摩書房の本でこれはなんとも恥ずかしい。


 だがそうした細部にも増して一番ひどいのは、終盤での論理の飛躍だろう。

 こうしたヤオイ志向の根源は現代社会への警鐘、レミングが集団自殺して個を減らすことで種としての存続を保つように、遺伝子を残さない同性愛への傾倒は崩れたバランスを取り直すタナトスの衝動であるというように、唐突に話が飛躍する。そしてSF小説『滅びの風』で書いたような、大げさで根拠のない感情的な「人類は滅んでいくのだ」話を展開させていくのである。

 正直『滅びの風』自体は好きな小説なので、別にこれが小説なら多少の論理の飛躍には目をつぶってもいいが、これは評論本なので理屈のない印象論での飛躍に「はあ?」という声をださずにはいられない。


 間違ったデータをもとに、歪んた自己認識のままで、感情的な論理の飛躍で語られる社会論にが、なんの役に立つというのか。読んでいて納得できるところもいくつかはあるものの、それを敷衍した話が全部見当違いの方向に広がっていくので

まったく褒めることは出来ない。

 本作を読んで学べることと云ったら「梓は幽白にハマってた」ということくらいである。


 人はなにかをごまかすときに、主語を大きくし、論点をコロコロ変え、話をひたすら長くする。「人生の負け組ほど政治や社会正義を語る」の法則である。やたら長いわりにはピンポケで理論の欠けた本書を読んで感じるのは、相手が呆れて去っていったのを完全論破と勘違いしているネット論客の議論を読んだときのような気持ちである。


 本書上梓の二年後の二〇〇〇年、中島梓は悪名高い自作HP「神楽坂倶楽部」を開設。同年末にはグイン・サーガのキャラがホモ化することへの批判メールを送った読者との公開論争事件により、ネット上での彼女の評価はだだ下がりすることになる。(著作には関係ないのでこの件に関しては自分は詳しく書かないが、興味のある方は「グイン・サーガへの手紙」で検索すれば顛末のすべてを読むことができます。)

 こうした致命的な凋落へと至る明確な前兆を、この作品から窺い知ることができる。

 評論家の中島梓は、本書で死んだのだ。

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