249 真・天狼星 ゾディアック3

1998.03/講談社

2001.04/講談社文庫

<電子書籍> 有

【評】 う


● え!?同じ作中劇の紙上公演をもう一度!?


 殺人鬼・利根一太郎が脱走した直後、気絶した竜崎晶が路上に倒れ、近くでは共演者の女性が死体として発見される。彼女を殺したのは利根なのか。利根はなぜ晶に手を出さなかったのか。大介は晶に関する懸念を山科に打ち明ける。

 そして、晶の出演する舞台「炎のポセイドニア」が初日の幕を開ける――



 最初の章では山科警部と大介の会話がだらだらと続き、内容自体はつまらないわけではないものの、これが本当にだらだらとしているので、いよいよ雲行きが怪しくなってきたな……と思っていたら、山科が帰ったあとのアトムくんとの力の抜けた会話で、作中の大きな謎がいきなりさらりと一つ解明される。その謎自体はわりとバレバレのことではあったんだが、あまりそのことに焦点を合わせていない状態から不意打ち気味に語られるので、ぐっと引き付けられた。ここはなかなかテクニカルだ。


 この後の段での描写になるが、竜崎晶の人の目を引きつる演技の説明に「客が予想しているよりほんのちょっと早めに意表をついて怒鳴ったり、客が固唾をのむくらいのあいだ何も云わずに間をとったりすることが、かれは自在にできたのだ」とある。これは実は栗本薫の小説技法の根幹にあるものであり、先に書いたさらりと謎が明かされるところなどは「客が予想しているよりほんのちょっと早めに」というやり方の実演である。いたって普通の展開を魅力的に見せる文章の呼吸を、栗本薫は心得ているのだ。

 後から冷静に考えるとありきたりなストーリーが、読んでいるときはページをめくる手を止まらせないのは、この呼吸の捉え方にある。設定やストーリーは面白いはずなのに、なんかいまいち乗り切れない作品というのは小説漫画映画を問わずに存在するが、それはまさしくこの展開の呼吸が詰まりすぎて息苦しかったり、平坦すぎて退屈だったりするからであろう。そして後年の栗本作品の読みづらさというのは、彼女自身の呼吸のとり方が冗長過ぎて一般的な感覚と大きくずれてしまったがゆえのものであると、自分は思っている。簡潔に云うと「老人の話は同じことの繰り返しで長くて嫌になる」というだけの話だが。


 ともあれ、この『真・天狼星』の時代でも、栗本薫の文の呼吸というのはずいぶんと冗長になり、いささか一般性に欠けるものとはなっている。だが、彼女の天性のテクニックがぎりぎり成立する、きわどいラインでもあるのだ。前出の謎が明かされるところは、まさにそのぎりぎりのファインプレーである。

 そして、今巻の後半はアウトになってしまった部分である。


『新・天狼星』では下巻ほとんど丸々が作中作『炎のポセイドニア』の紙上公演であったわけなのだが、なんとこの巻の後半も同じ舞台の紙上公演がはじまってしまう。重ねて云うが、おんなじ舞台である。新と真を通巻で数えると、二巻目と五巻目の半分が同じ内容なのだ。これにうんざりするなというのは無理である。

 いや、新~の方では舞台上の晶の視点で、真~では客席側からの視点、という違いはある。たしかどこかで薫自身も「同じ舞台を二つの視点で書いた」とドヤっていた。が、要するにストーリーは同じなのだから退屈なもんは退屈だ。辛い。

 なにが辛いって、この作中作『炎のポセイドニア』が単純につまらなさそうなのが辛い。

 この作中作のあらすじは、簡潔に云うと「知武勇美血を備えている陰キャの兄王子が、奴隷女から生れた陽キャの弟王子に負ける」という話である。もっとわかりやすくいうとナリスがレムスに嫉妬して勝手にケンカふっかけてきて自爆する話である。

『グイン・サーガ』の読解にも踏み入ってしまうが、この「完璧だけど陰キャのせいで負ける兄」というモチーフは、栗本薫こと山田純代ちゃんそのもののことであり、「うすのろだけど選ばれて勝利する弟」とは、重度の知的障害ゆえに母親の寵愛を受けていた山田純代の弟のことである。

 客観的に云って完全に自分の方が優れているのになぜか欲しい愛はすべてあいつに奪われる、という関係性は、『翼あるもの』の透と良を代表に、たびたび彼女の作品で描かれている。一方で『グイン・サーガ』においてその勝利を約束された弟王子であるレムスに、双子の姉リンダが存在するのは、嫉妬の対象である弟を家に残って世話し続けるつもりでいた若き純代嬢の愛憎の具現である。ドジでクズで足を引っ張り家に縛りつづける存在と見下しながら、自分から捨てるという選択肢を持たなかった彼女の複雑な感情が、初期の聖双生児の微妙な関係を魅力的に見せていたし、弟への畏れがレムスに大器の片鱗を見せるとともに闇に落ちる前兆をも備えさせていた。

 結果的に、グイン・サーガ初期の執筆中に担当と不倫して結婚して実家を出て子供産んで……という家族関係を大きく変える変転があったこと、後年にはその弟が四十代でついに亡くなったことなどが、レムスの存在がどんどんひどいピエロになったり初期キャラで一人だけグインに冷たくあしらわれたり空気になったりという形にあらわれているのだと愚考するが……話が逸脱しすぎたので戻ることにする。


 ともあれ、『炎のポセイドニア』は、その優れた兄王子と約束された勝利の弟の話であり、作中では本来弟の輝きぶりがメインの芝居のはずが、竜崎晶が天才すぎるのでみんな兄王子に夢中になり、兄王子に惹かれながらその闇に怯える芝居になってしまう、という、なんというか、まあ痛いとしかいいようがない話になっているです。ストーリーだけで考えても「無国籍ファンタジーでそんな中二的暗黒微笑キャラ激推しの舞台とか絶対話題にならねえよ……」という気持ちにしかならないし、そこに栗本薫の持つ家庭のバックボーンまで見えてくると、もう恥ずかしくて辛くていたたまれないとしか云いようがないのです。

 そんな舞台を、あなた、二度目ですからね、この巻で。辛いですよそれは。舞台の描写も「晶きゅんはこんなに凄くて目立っててみんな夢中!」に終止してるし、でも客観的に云って自己中で迷惑な役者だなー、という気分にしかならないし。しかも合間合間に共演の、ジャニーズをモデルにしているであろう事務所のキャラの演技の下手さをプゲラッチョする文章が入ってくるので、いわゆる他人sage自分ageにしか見えなくて辛いのです。

 で、舞台を見るなりそのジャニ的事務所の追っかけたちが次々に「いままで~担だったけどあいつしょぼいから晶担になるわ」宣言をするのである。栗本薫本人がそういう人なのか、あるいは周りの人がそういう人だったのか、当時の追っかけたちがそうだったのかは、ほぼ舞台やライブに行かない自分にはいまいち計り知れないが、推し変更はあったとしても劇場内で宣言とか怖くてできんわ。刺されるでホンマ(まあ薫自体が「『OH!ギャル』以降のジュリーは聞いてない。もう興味ない」とか必要ないのに宣言してたから作者の性格の問題だと思う)


 そして作者が特別な天才と押せば押すほど、肝心の竜崎晶のどこがすごいのかさっぱりわからなくなっていく。

 いや、冷静になると、初登場の『天狼星Ⅲ』でも、必要以上に周りが特別特別云っていて、かなり鼻白む感じはあるのだ。正直、再読すると初読のイメージを壊れそうなので、自分はストーリーの確認以上には『天狼星Ⅲ』を読み直そうとしていない。

 だが、大きな違いとして『天狼星Ⅲ』での晶は、あくまでこれから羽化していく蛹として描かれていた。これは初期レムスや、初期の伊吹涼、『レダ』の主人公イヴに対して、作中での行動よりも周囲や読者が大きな期待をかけている構図と似ている。ハッキリ云えば「ぼくはいまはまだ何者でもないけどいつか羽ばたくから」というかなりお花畑なメアリー・スーであるのだが、その若さに感情移入させるのが、若い頃の栗本薫は上手かった。「いつか自分も……」という気持ちを心の底に持っている若い読者の気持ちを、だからこそ捉えた。

『天狼星Ⅲ』の頃の竜崎晶は、それが成立した最後のキャラであったと思う。

 そして『天狼星Ⅲ』から『真・天狼星』の間に、栗本薫はいくつかの挑戦と挫折を味わっている。舞台への本格進出、『グイン・サーガ 炎の群像』での大借金、なかなかふるわぬ世間の評――

『天狼星Ⅲ』のころは、特別さが漠然としているがそれゆえに多くの若者に届くメアリー・スーであった晶は、栗本薫のかなり狭い範囲の願望を詰め込んだメアリー・スーになってしまった。ハッキリと云ってしまえば、設定や人間関係が類似しているせいで、「本当はこうなるはずだった『グイン・サーガ 炎の群像』」、という淋しい願望投影をしているようにしか見えないのだ。


 そうした竜崎晶および作中劇に対する切なさは置いておくとしても、これだけの紙幅を二度もとっておきながら、この作中劇の内容が『真・天狼星』の本筋とまったくリンクするところがないというのも、なんか長々と無駄なものにつきあわされた感を助長している。

 中島梓は小説道場で門弟の作品に対し「作中作を逃げずにもっとちゃんと見せて欲しかった」といった評をしていたこともある。また『ガラスの仮面』を小説でやったようなつもりだったのだろう。でもガラかめは演劇漫画、この小説は一応猟奇ミステリーですからね……。作中劇をやるにしても、許される限度というものがあるでしょ……。

 話がずいぶんながくなってしまったが、要するに、この作中劇の長さが、焦らしのテクニックという言葉ではもはや許されない、バランス感覚の欠如のあらわれである。

 まあ、そうは云っても、作中劇が面白かったら、これはこれでいいやって気分になってたかもしれないけどね!


 そんなわけで、一巻、二巻と「あれ?記憶にあるより面白い……」と戸惑わせてくれたが、三巻目にして「ああ、やっぱり」と安堵と落胆を与えてくれたのでした。

 ああ、でも、この巻、女房と娘四人を連れて観劇にくる山科警部(いや今作では出世して警部じゃないけど)は良かったかな。一巻目からそうなんだけど、この作品は山科さんの出番が多く、善良で真面目なずれたおっさんという感じが実にホッとする。知り合いが舞台に立っているのを見てはしゃいで自慢して嫁や娘に嫌がられるところなど実に楽しい。昔もそう思ったが、歳を取ってから読み直すとなおさらだ。やっぱり伊集院シリーズは大介・森カオル・山科警部のトリオが一番魅力的だなあ……。

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