240 緑の戦士 緑の星へ!

1997.10/角川書店

<電子書籍> 無

【評】うな(゚◎゚)


● イニシエーションとしてのファンタジー小説


 アカリウムの森は火に包まれ、るかは変わり果てたメンドーザに追いつかれる。だがその時、真の敵が正体をあらわし、るかはこの世界の真相を知る――緑の戦士シリーズ完結篇。



 テレビゲームを意識したゲーム風ファンタジーと云いながら、迫力はないわグタグダとムダな会話は長いわワクワク感もメルヘン感も足りないわで、わりとひどいことになっていたこのシリーズ。しかしこの最終巻でずいぶんと持ち直す。

 なにせラスボスを倒した(いやまあ説得しただけですが)と思ったら真のラスボス登場、そして設定の真相解明、栗本薫としては珍しく完全に完結するエピローグ、とエンターテイメントとしてやるべきことをしっかりとこなしているのだ。そしてこの真相の部分が、手垢がつきまくっている気がするが、なかなか悪くない。

 以下、(いつもだけど)思いっきりネタバレ。


 一言で云うと、今作はある種のアンチファンタジーだ。

 食事をせずとも腹が減らず、傷つけ合うことのない植物たちの暮らす緑の世界。選ばれた英雄として歓迎される主人公。よくわからない謎パワーでピンチになるとデウス・エクス・マキナしてくれる光の剣。あまりにも現実感のない、ご都合主義に満ちたこのメルヘン世界というものが、主人公が自殺したときに次元のなんかがアレして近くにあった世界を、幼いころに書いた童話に模して改変してしまったのがこの緑の世界である、というのがこの物語の真相だ。主人公に対して作品世界があまりに都合が良いのは、お前がそういう風に作ったからだよ、というわけである。

 これを、主人公がなんかよくわからんけどみんなにモテモテで持ち上げられまくりでピンチになるとスーパーパワーで都合よくなんとかしてしまう『グイン・サーガ』『魔界水滸伝』の作者がやるのだから、なかなか痛烈な自己批判ともとれる。

 また、そうして主人公が作った世界に生まれた生命であるラスボスが、主人公をママと呼び恨んでいることを、当初のラスボスと思われたメンドーザが「すでに生きて動いているんだからもうへその緒は切れてる。親は関係ない」「世界がどうの親だからどうのと難癖をつけるのがガキの証拠だ」とバッサリと切り捨てるところなどは、この後、晩年を迎えた栗本薫がなぜか母親への愛憎をこじらせたことに対するアンサーにもなっていて面白い。


 余談だが、『英雄コナン』シリーズの作者ロバート・E・ハワードも重度のマザコンで、母親が昏睡状態になるやいなや自殺し三十歳の若さで早世したことと、栗本薫が『指輪物語』でも『ナルニア国物語』でも『ゲド戦記』でもなく『英雄コナン』を耽溺し、暗い輝きがヒロイック・ファンタジーに必要であると論じたのは無関係ではあるまい。


 結局、主人公はこうしたファンタジー世界での、幼いころの妄想をひとめぐりし、そこでの経験と他者との出会いを経て成長し、現世に帰っていくこととなる。いわば今作はイニシエーションとしてファンタジー世界を遍歴し、大人になる話なのだ。

 肝心のファンタジー世界の描写にいまいち魅力がなかったり、展開がとろくさかったり、主人公がおばさん臭かったり、戦闘に迫力がなかったり、最後の最後まで登場人物やギミックのほとんどが出したっきりで有効活用されなかったり、ラスボス周りの整合性がメチャクチャだったり、とにかく展開がとろくさかったり、作品としての総合クオリティは決して高いとは云えないが、この最終巻で示された作者のファンタジー観や物語の終わらせ方はけっこう好きであり、再読してみると意外と影響を受けていたことに気がついた。


 ライトノベル雑誌『ザ・スニーカー』に連載された作品であるが、作品の系譜としては今作はグイン・サーガなどのファンタジー作品ではなく、女子高生がある朝目覚めると世界から他人が消滅していた短編『コギト』(『滅びの風』収録)、根暗な作家が明治四十八年の架空日本で名探偵となる『魔都 ~恐怖仮面之巻~』に連なる作品であろう。

 通じるのは異世界転移という現象をもって内面世界を抉りだそうと姿勢だ。いまや定番となっている異世界転移モノと云えば、現世での失敗者が理想世界で成功をおさめる話が多いが、多数の異世界を描いた栗本薫が異世界転移ものを書くと、ことごとく内宇宙の問題とストレートに向き合っていく話となるのが面白い。

 そして『コギト』では主人公は自分を気にかけていた父母の心に気づくことなく異世界に消滅し、『魔都』では現実世界にも自分を好いてくれる友人がいることに気づきながらもなお異界への想いを捨てられず姿を消したのに対し、この『緑の戦士』では父母の声が届き、異世界を愛しながら現実に適応して終わるという、わりとまともな、云ってみれば普通の終わり方をしているのも興味深い。

 もっとも後の作品であるからそれだけ大人になった、というだけではあるが、今作が息子の愛好するテレビゲームに着想を得て、若者向けの雑誌に連載したというのも無関係ではあるまい。栗本薫が子供に向けて作った、数少ない大人としての作品というわけだ。

 ――もっとも、そうした作品の大半が子供にとっては退屈なように、今作が中二真っ盛りな『ザ・スニーカー』読者のストライクゾーンに入っていたとは、とうてい思えないのだが。


 そういう栗本作品としての位置とかを考慮しない場合は、とにかく無駄にだらだらしていることが一番惜しい作品である。無駄に長いのが薫の基本とはいえ、この作品は話自体はそれなりにコンパクトにまとまって後腐れがないので、余計に惜しい。全三巻のところをバッサリと半分にして厚めの一冊にまとめていれば、悪くないジュブナイルの佳作としてオススメできていただろう。


 あとがきで、テレビゲームの持つ物語性の根源的な力を認め「つまらねープライドを持っているといまに小説はゲームに抜かれるぞ」というのは、意外とまともな感性アンテナを持っていて驚く。一巻のあとがきで「時間の無駄に思えるから自分ではやらない」とか云っていなければだけどね……。ゲームは自分でやるのと後ろで見ているのとでは全然違うのですよ……動画勢は認めないよ、僕は……。

 あとこう云った直後に「現にアンジェだのエヴァだのを見れば、あれに匹敵する熱狂を引き起こせている小説がいくつあるんだ」とか書いてるけど、エヴァはゲームじゃなくてアニメですね……やっぱりアンテナ鈍りきってますね……。スーファミスーファミいってるけど多分あなたの息子が当時やってたのはサターンですね……多分サターンのエヴァをやってたんでしょうね……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る