215 グランドクロス・ベイビー

1996.04/角川書店

1999.10/角川文庫


【評】う(゚◎゚)


● グランドクロスと云えばエロ


 アイドル緑川純のおっかけだけが生きがいの女子高生・早智子は、その費用の捻出のため、友人の手引で売春をしていた。だがある日、彼女の顧客に阿久津という名のヤクザがあらわれたときから、彼女の日常は崩壊していく――『スポーツニッポン』誌上に半年に渡り連載されていたポルノ小説。



 この小説、はじめて読んだときは「なんだこれ」だったし、その印象で長いことひどい作品だと思っていた。

 まず基本的にずっとセックスしてアンアン云ってるのだが、無駄に直接話法で下品なだけで、まったくエロくない。若者の性を題材にしたところはW村上あたりを意識したのかなと思えなくもないのだが、主人公に九十年代の女子高生らしさがまったくなく、刊行時まさに同年代だった自分は「なんだこの女子高生気取りのおばさんのハメ撮り日記……」みたいな気分にしかならず、タイトルと設定からうかがえるような、1999年を前にした若者の閉塞的絶望感はまったく味わえないのだ。

 ストーリー展開も、追っかけの費用捻出のために素人売春してたら本職に見つかってケジメつけさせられる、という展開自体は良いのだが、ただヤクザとセックスしてアンアン云ってるだけでまったく発展性がなく「こんな凄いセックスして私はもうオトナの女……」という、処女捨てた途端に魔性の女を気取る根暗女みたいないつものアレでしかない。

 ヤクザによって非人間的な扱いを受けて深みに堕ちていく転落の様を丁寧に描けば面白いだろうし、性調教されるならそのディティールに凝ればそれはそれで面白くもなろうが、本当にただデカイチンコにアンアン云わされて悦に入ってるだけなので、実にエロ小説としても暗黒小説としても半端としか云えない。


 それでじゃあヤクザとの話がメインなのかというと、中盤で唐突に追っかけていたアイドルのバックバンドとヤル話になって、そのバッグバンドの人が長髪ガリガリ美形ドSナルシストというテンプレキャラで、セックス中にイエスイエスベイビーベイビー云うギャグキャラで和むのはともかく、そのネタキャラにアイドルが惚れてて執拗に迫ってて、そのネタキャラを崇拝しているローディが嫉妬で大変なことになっているというホモの痴情のもつれがはじまって「え、これスポニチ連載の男性向けエロ小説じゃないの?」というよくわからんことになっていく。

 それでヤクザの話と芸能ホモの話がどうクロスしていくのかな、と思っていると、その後はヤクザと一発ハメて、テレフォン・セックスした挙句、唐突にアイドルが引退宣言したので殺しにいくところで終わるという、栗本薫の他の作品で何度も見た光景に「あれ? もしかしてヤクザとのセックス部分ストーリーに全然関係ないんじゃない? 全体的になんかよくわからんが下品なだけの話だったな……」という感想になってしまったのだ。


 が、いま改めて読むとこの作品、作者の意図とはおそらく別のところでグランドクロスな作品となっている。

 追っかけするために売春している女子高生という設定は、ご存知デビュー作『ぼくらの時代』。

 サチとサッチというそれぞれの呼び名で別の自分が励起されるなんちゃって二重人格は『シンデレラ症候群』

 ろくにしゃべらない人間の思い込み過剰なモノローグからの殺人宣言は『ONE NIGHTララバイに背を向けて』

 アイドルに対して過剰に思い入れて殺しに行こうとするのは『翼あるもの 下巻 殺意』

 古臭い女子高生の、事態に反して深刻さの感じられない語り口は短編『軽井沢心中』

 ヤクザに調教されチンコ大好きになりつつ、なぜか親への反感と優越感を示すのは晩年のホモ小説『タトゥーあり』

 こうした栗本薫作品特有の様々な設定や展開が、珍しい女性主人公によって混在しているのだ。これらの要素のほとんどは、あまり一般的でもない栗本薫個人の抱える問題ばかりである。欲求不満だから強引に犯されたいし、それでいて好き勝手にされることでなぜか相手を支配したいし、セックスなんてしたところで気持ちいいだけでなんにもならないと云いたいし、自分の欲するだけの愛をくれなかった母親に対して事あるごとに恨みを云いたいし、別の自分になりたいし、特別な自分になりたいけどどこまでいっても凡庸だし、ひいきのアイドルを好きだということだけが自分の特別性の証明である。

 これらのいたって個人的な欲求が、まったく自分の脳内で整理されることもなく開陳されているのが、この小説だ。結果としてヤクザ調教とホモ芸能界の話がまったく融合することなく繰り広げられ、雑にアンアン云ってるだけのよくわからない話となってしまっている。


 だが、ここまで栗本薫のナマの欲望や劣等感が、美化されることもなく露わになっているのは、基本いろいろだだ漏れの栗本作品の中でも珍しい。

 業界人を語って処女を喰うのが趣味のしょうもない男にひっかけられるくだりのみっともなさや、憧れのギタリストの抱いた女をギタリストのTシャツをクンカクンカしながら抱くキモいローディー、アイドルの引退に対して裏切られたという気持ちを切々と語る気持ち悪いクライマックスなど、嫌なシーンに関しては妙な迫力を感じるところも多い。

 ことに追っかけているアイドルだけが自分の気持ちをわかってくれているはずなんだという思い込みの気持ち悪さや、ホモだといいよねーと仲間と語りながら実際にホモだったことにショックを受け裏切られたと思う身勝手さには、栗本薫オリジナルのパワーを感じるし、死んで何年も経ってるのにいまだに栗本薫に対してぶつぶつ云い続けている自分には否定のできないものがある。

 こうした独自の劣等感や欲望を、天才ホモのメアリー・スーに隠すことなく、凡庸な女子高生を語り手とすることによって、稀有なほどに赤裸々に語っている。


 しかし、この作品が優れているかというと、そんなことはまったくない。

 前述したように構成がめちゃくちゃで二つの要素がまったく融合しておらず、長々とやっているエロシーンは下品なだけでエロくも面白くもなく、ご都合主義的にヤクザが主人公に本気になったりバンドマンに目をつけられたりする展開は無理があり、あまりにも栗本薫個人の問題を掘り下げたテーマや展開は男性にも女性にも共感を呼ぶようにはとても思えず、かといって自分自身を冷静に捉えて分析しているわけでもないため、己を切り裂いた作品特有の痛みも感じない。

「自分自身を出した作品の方がずっとチャーミングだ」というのは小説道場で中島梓が何度も主張していたことだが、自分自身を出したがゆえに商品としての魅力がなくなり作品としての理解者の幅が異様に狭まってしまった例である。


 それでも、本作は栗本作品の中でもかなり彼女の本質に迫った作品であり、この作品自体は不出来だが、この作品の先に、四十代を迎えもはや若書きでは許されなくなった彼女の語るべきだったテーマがあったのではないかと思えてならない。評価されなかったためか、書くことがしんどかったのか、これ以降のこうした作品がホモのメアリー・スー小説ばかりになってしまったのは残念である。

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