171 バサラ 1


1993.09/カドカワノベルズ

<電子書籍> 無


【評】う


● KBTIT伝奇

 天下一の踊り子としての名声を手に入れた出雲のお国は、しかしなにか奇妙な苛立ちを感じていた。そんなある日、彼女の踊りを嘲る声に怒りとともに視線を向けると、そこには奇妙な男がいた。「俺はバサラだ」と名乗るその男、弥勒丸に導かれ、お国は新たな道を歩みはじめる――

 

  今作は「時代伝奇」と表紙に銘打たれ、あとがきでは薫は「ヒロイック・ファンタジーのつもりである」と書いている。どういう話かといえば、歴史の裏に流れるロック・スピリットを描くとのことであり、出雲の阿国編が四冊、天草四郎編が四冊、現代ロックバンド編が四冊の三部十二冊の構想だという。なんでそれでヒロイック・ファンタジーやねんと思うだろうが、歴史物のつもりはないからストーリーに合わせて史実を曲げるけど突っ込むんじゃねえよという宣言である。別に創作物で史実を曲げるのはいいけど、いじめられないようにわざわざあとがきで宣言するのはちょっと恥ずかしいですね。


 ともあれあとがきで薫自身も旦那も「手応えが違う」と評したこの作品。

 ぼくも初めて手に取ったときに思いました。これは他の栗本作品とはなにかが違う、と。

 そう――まったく面白そうに見えないのである。

 設定も、あらすじも、タイトルも、惹句も、全然手に取ろうという気を起こさせないのである。作品としての出来以前にピンとくる部分が一切ないのである。結果としていまいちな作品はこれまでもあったが、ここまで「誰が読みたいと思うんだろう?」とターゲット不在な作品はなかった。

 だが、肝心なのは内容だ。内容さえ面白れければ、途端にタイトルも輝いて見えるものだ。


 が、ハッキリと云ってしまえばこの作品、クッソつまらない。

 人気の絶頂を極めながらスランプに陥っていた出雲のお国が、俗世との関わりを絶った棄民である山の民と出会い、彼らの独自の音楽や踊りと出会うことによって、新たな芸に目覚める、というのが基本の筋だ。メフィストフェレスとファウストに代表される物語の王道パターンである。

 この手のものはやはりメフィストフェレス役の魅力と、彼/彼女が見せてくれる新しい世界のユニークさがすべてといってもいい。

 そこでこの物語のメフィストであるバサラを名乗る男・弥勒丸だが、うすものをまとっていていつとも濃い色の乳首が透けて見えていて妖しい色気があるらしい。いまとなってはその描写から想像されるのはKBTITしかいない。


 そんなKBTITとの出会いから新たな世界がひらかれるかと思いきや、この一巻目ではずっとお国のよくわからん思い上がった物思いが続き、ストーリーが全然進まない弥勒丸との出会いのあとは、ずーっとぐだぐだして、ようやく再会して話が進み始めたと思ったら「続く」である。一巻目として続きを読みたいと思わせる山場がまったくない。

 引きであるラストも、山奥で音楽かけながら乱交していてビックリという、完全にキメセクパーティーである。六本木ヒルズとかでやっているやつである(偏見)。ロック・スピリットってキメセクパーティーかよ……押尾学先生かよ……というげんなりするぼくを止めることがだれにできるであろうか……。やっぱり弥勒丸様はKBTITだったんだ……


 また文章も、やたらと出会うキャラ出会うキャラの美形描写がしつこく、それでいてどのキャラもしこすぎていまいち「美形らしい」ということしか外見が想像できないという、薫のいつものアレである。外見に関してイメージできるのは、気持ちの悪い悪役としてさらっと描かれている京極弾正だけであり、お国も蒲生氏郷も名古屋山三郎もさっぱりよくわからず、弥勒丸はKBTITである。

 

 そしてまた歴史物じゃないもん! ファンタジーだもん! と逃げているので歴史物として楽しむこともできない。

 ストーリーが面白くなく、キャラが魅力的でなく、展開が遅く、歴史物だけど史実完全無視宣言とあっては、楽しみようがない。新シリーズの一巻目としては完全に失敗している。

 いったいなぜ、こんな作品を書こうとしてしまったのか――その答えは冒頭にもあとがきにもしっかりと書かれている。入れ込んでいた役者のためだ。

 この作品の巻頭には「後藤宏行に捧ぐ」とあり、あとがきでは後藤宏行を主役とした舞台として考えられた物語であることが語られている。後藤宏行というのは舞台『魔都』で起用し『マグノリアの海賊』で主役に抜擢――というか後藤宏行のために『マグノリアの海賊』という脚本を書いた――ダンサー兼役者である。この時期、栗本薫は各所で後藤宏行を熱く語り、推していた。

 今作はそんな後藤宏行と自分自身を題材とした、栗本薫の夢小説なのである。


 三十半ばで人気の絶頂にありながら、己の表現にマンネリとスランプを感じ、若手の台頭に「あんなの顔だけだ」と見下しながら嫉妬しているお国の姿は、完全に九十年代前半の栗本薫そのまんまである。そんなお国がバサラの音楽に出会い、新たな芸に目覚めるという展開は、手を変え品を変え様々なジャンルの小説を書きながら作家としての行き詰まりを感じていた薫が、舞台という別の表現手段に活路を見出したのとまったく同じである。

 メフィスト後藤に子宮がじゅんじゅんして抱かれたくてたまらない、でもこれは女としてじゃなくて芸の道を行くものとしての者なの!という言い訳臭いドリーム小説がこのシリーズなのだ。というか今思えば『マグノリアの海賊』も完全にそういう話である。

 栗本薫の作品が基本的に夢小説の側面がかなり強いとはいえ、だいたいが天才で可哀想なお姫様に自己投影しているものばかりであり、特定の個人×自分でのカップリング妄想というのは後藤宏行に入れあげていたこの時期にしか存在しない。

 そして夢小説とは自分のためだけに書かれている自分発自分行の娯楽であるため、今作が他人にとって面白くないのも当たり前である。後藤宏行とハメたい三十~四十代の女作家や舞台人にしか響くわけがないのだ。


 今作はそういったわけで舞台を前提に書かれており、お国を篠井英介、弥勒丸を後藤宏行、名護屋山三郎をピーターで舞台化したい、とあとがきにあるが、結局、舞台化されることはなかった。そもそも舞台化するつもりの作品で全十二巻を予定しているというのが意味がわからないのだが、薫はどういう計算をしていたのだろうか? 永遠の謎である。

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