119 わが心のフラッシュマン ロマン革命 Part1

1988.08/筑摩書房

1991.12/ちくま文庫

<電子書籍> 無

【評】うなぎ∈(゚◎゚)∋


●中島梓の真骨頂


 テレビ放映を一度も見ることなく特撮番組『超新星フラッシュマン』にハマった息子の姿を契機に、人間と物語の在り方について論じたエッセイとも評論ともつかない本。

 この本の評を書くにあたって大変に困っている。

 本書はなんというか、とにかくフリーダムなのだ。エッセイなのか、評論なのか、それすらもわからない。類似した本を見たこともない。

 四歳の息子が特撮番組『超新星フラッシュマン』にハマったことをきっかけに、大人の視線からはかくもちゃちに見えるものをなぜ子供が求めたのか、それを敷衍して思索し、人間には物語が必要だからであるという論を展開しているというのが、本書の概要といえば概要なのだが、それだけを語るには、なんというか、あまりにも論に寄り道が多く、そして特撮に対する言葉が過ぎている。

 戦隊ヒーローたちを没個性の全身タイツ五人組に物語を感じることはできないだとか、スーパーロボットをおもちゃ屋の手先である箱の化け物だとか、まー本当に言いたい放題いってくれちゃっている。自分としては痛快極まりないのだが、はっきり云ってかなり特撮に失礼な本である。その内容が、決して特撮をバカにしているわけではなく、ある種の大いなる共感によるものであると理解してさえ、どう考えても言い方が悪すぎ、その言葉の数々のインパクトに、肝心の論の内容がすっとんでいる気配すらある。

 実際、このまるで製作者が創作秘話でも書いたようなまぎらわしいタイトルと実際にフラッシュマンの悪役をデザインした出渕裕によるオフィシャルとしか思えない表紙イラストのせいもあって、本書を特撮関係の本だと勘違いして読み、そのあんまりないいように激怒したという人の話はよく聞く。それもまあ、仕方のないことであろうとは思う。

 だがそこで「特撮をなにもわかっていない奴が書いたトンデモ本」と斬って捨てるのは、これもまたあまりにも愚かなことだ。作中で何度も書いているが、本書はフラッシュマンを詳しく調べて論じた本ではないし、また本書の内容としてはフラッシュマンを知っている必要はまるでない、むしろ少ないデータから受け取ったイメージ――つまりは特撮を見ない世の「普通の」大人の視点で見たときにこそ、本書の物語論は意味を持つ。

 なにより、本書は最高に面白いのだ。


 とはいえ、そうした評論的な部分は本書の後半にまとまっているため、まずは前半から見ていく。

 ここは息子がテレビ放送を見たことなく雑誌や絵本の情報だけでフラッシュマンにハマった過程と、そのことにより中島梓が困惑したさまが描かれている。

 このくだりは軽妙で、エッセイとして大変おもしろい。いたくまじめにフラッシュマンを説明しつつ、そのちゃちさにうんざりし、困惑し、「しかし私の小説となにが違うのか?」という根源的な問いにつきあたっていく姿がえがかれているのだが、これがとても笑える。

 そしてちゃちさゆえに、ストーリーに没頭できず、出演している役者たちのほうにドラマを感じてしまい、勝手な想像で特撮番組に出演する売れない役者の日常を小説的にかきはじめたりする悪ノリがたまらない。

 小説道場でトンデモ作品が送られてきたときの反応もそうだけど、梓はリアリティはないんだけど勢いやロマンだけは感じる作品に出会った時のリアクションが本当に面白いんだよね。文章でこういう面白リアクション読んだの梓がはじめてだったからというのもあるけど、いまだにこの時期の梓のリアクション芸は最高としかいいようがない。


 これが中盤になるとさらに加速し、主人公の全身タイツには制作側の都合しか感じられないが、敵役にはロマンが感じられるといい、特にライバル役のサー・カウラーは良いと語りだして、止まらなくなる。

 サー・カウラーというのはこの本の表紙にもなっている、片目を隠したいかにもな感じのキザでクールな悪役で、演じているのは若い頃の中田譲治である。そう、腹に一物ありそうなエロい中年をやらせると当代屈指の声優であるあの中田譲治だ。80年代はけっこう声優以外の役者仕事もやっていたのだ。

 このサー・カウラーというキャラは宇宙の傭兵として汚れ仕事を請け負っているという役柄で、終盤では悪の組織である改造実験帝国メスを裏切った挙句、主人公のレッドと夕日の海岸で一騎打ちをするという大変おいしい役回り。しかも弟分のボー・ガルダンというのがいて、これが悪の組織に改造され怪物にされると「俺の可愛いガルダンを」とつぶやくというホモホモしい展開まである。

 ちなみにさっき、この本のレビューをするために動画配信でフラッシュマンの終盤を見てみたところ、やられそうになっているカウラーの前に立って「アニキは俺が守る!」などのホモいシーンも有り、普通にホモである。


 そんな二人のホモホモしさを『テレビくん』の写真だけでも嗅ぎ取った梓は、なんと二人の出会いや宇宙海賊時代を妄想して、この本の中で二次パロ小説まで書きだしてしまう。いちおう評論ということになっている本の途中で二次創作小説がはじまるなんて初めて見たんですけど……!?

 この小説――というか小説のプロット――というものが、また『ペリー・ローダン』や『キャプテン・フューチャー』を思い出させるようなベッタベタのスペオペなのがまたたまらない。

 なんかよくわからん銀河帝国があって、その銀河帝国をサー・カウラーが恨んでいる様子があったり、部下のエイリアン・ハンターがカウラーを見るなり怯えて逃げ惑ったり、襲った宇宙船に乗っていた貴族がカウラーを見て「もしやあなたはカウラー辺境伯では?」と云った途端にカウラーが撃ち殺したり、ガルダンそっくりに化けた偽物を倒して本物を救い出し「なんでアレが偽物だとわかったんだ?」「俺がお前とニセモノの見分けがつかんと思ったのか、ガルダン」って会話があったり、完全に安っぽい二次創作なのが最高だ。

 なにが最高って、栗本薫自身が『新・魔界水滸伝』とかでこの古いスペオペ世界そのまんまのをやってたり、「ニセモノとお前の区別がつかんと思ったのか」をいろんな作品で本当に何回もやっているのが面白すぎる。

 逃げ惑う部下の描写に「蜘蛛の子を散らすように」と書いて(絶対この表現使っちゃう)とかセルフツッコミじみたものを入れているのも良い。しかも実際、栗本薫の小説で悪い男のモブ部下はよく「蜘蛛の子を散らすように」という表現で逃げているし。


 ちなみにこれらも設定を詳しく調べて書いたものなどではなく、断片的情報とビジュアルから「自分ならこう書く」という梓の妄想である。

 これらの文章を通して、要するにフラッシュマンはおもちゃ屋の都合や予算など、様々な事情が絡み合ってちゃちくなってしまったが、その方向性においては自分の小説とちがいはなく、ただ自分の作品はこの分野の最高峰であるだけだと繰り返し述べている。

 己を最高峰だと言い切るその厚顔無恥さなチャーミングさは置いとくとして、大事なのは作品にこめたロマンであり、そのロマンこそが人に必要な物語であるのだ、と、本書は後半の物語論へと入っていく。


 このくだりは要約してわかったような気持ちになるのもどうかと思うが、要するに、人間は生まれ落ちたときは全能感に包まれた楽園にいるが、人として生を重ねるごとにその全能感は崩れていき、そうなったときに自らの存在を定義してくれる物語が必要になる、という話だ。

 人間は本能の壊れた生き物で、本能だけでは生きていけず、己の自意識をなんらかの物語(創作物という意味ではなく)に重ね合わせることでようやく精神の安定を得ると、中島梓は書いている。

 要するに、ヒーローものを見てヒーローに憧れるのではなく、すでに存在していたが言語化できていなかった漠然とした願望に一つの形を与えてくれたのがヒーロー番組である、ということだ。


 これらをはじめとして、この項で中島梓は、自らの抱えたロマン――物語が、どれほど人間にとって必要であるかを語っている。不幸な状態から脱しようとしないのは不幸であるという物語を求めているという。帰国後に奇行を繰り返したアラビアのロレンスは、英雄として抱えてしまった自己の物語と帰国後の凡人としての現実の乖離に耐えられなかったのだという。

 あるいは自分は沢田研二にロマンを抱き、彼をモデルにした小説を何冊も書いたが、最終的には自分の書いたキャラは沢田研二から離れ、より自分の理想に近づき「沢田研二よりも魅力的である」と思うようになり沢田研二に興味をうしなったことなどが書かれている。(これに関しては「いや、それもうオリジナルだろってレベルの二次創作している人けっこういるけど、自キャラが最高だから原作どうでもいいって人みたことないよ……梓の自己愛が強烈過ぎて参考にならないよ……」という気分になった)

 またその一方で、おなじ物語を抱えている人を発見することによって、人は世界は自分ひとりではなく他人もいるのだと理解していく、とも述べている。

 物語――ロマンこそが人の核なのだと、本書はあらゆる方向から力強く語っているのだ。そして、だからこそフラッシュマンはちゃちだろうと、正しいのだと、そう云っているのだ。


 こうした論の良し悪しを、ここで軽くまとめたようなレビューで判断されるのは心外というか、自分の読解力の低さで勘違いされるのも嫌なので、本書に関しては「いいから読んでくれ」と云いたい。

 中島梓の代表作と小説道場と本書だと、自分は思っている。軽妙な文章、思わず笑ってしまうリアクションと、頷いてしまう偏見。そして物語への熱い想い――この本は中島梓らしい中島梓にしかできない本となっている。

 『ベストセラーの構造』と文庫版『文学の輪郭』に掲載された『ロマン革命序論』を経てたどりついたこの『ロマン革命PART1』は、彼女の出した一つの結論であるだろう。


「わが心のフラッシュマン」とは、現実のフラッシュマンそのものではなく、息子の中に、そしてフラッシュマンに夢中になった子どもたちの頭の中に、人の数だけ存在する、己に必要な物語を具現化した「わが理想のヒーロー」を指している。

 ゆえにだろう。本書は以下の一文で幕を閉じている。


 戦え、フラッシュマン~中略~エイズも売上税もおもちゃ屋の陰謀も、ニセ札もテロも一家心中も――みんなみんな、フラッシュパワーでやっつけろ。

 わが心のフラッシュマン――愛と正義の超合金の戦士たちよ。そこにとどまっているがいい――お前は美しい。

 お母さんのお話は、これでおしまい。


 評論の結びとして、こんなにも美しい文章を、自分は他に知らない。

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