121 朝日のあたる家 Ⅰ

1988.10 /光風社出版

2002.12/角川ルビー文庫


【評】∈(゚◎゚)∋うなぎ∈(゚◎゚)∋


● 栗本文体の完成系


 巽竜二の死から数年。ジゴロとして代議士の妻や女優などとつきあいつつ、あぶく銭をかせいで東京の夜を生きていた透は、気がつけば巽が死んだのと同じ三十三歳になっていた。巽の命日に墓参りに行った透は、そこで泥酔した今西良と再会するが……。

『翼あるもの 下巻 殺意』の森田透を主人公とした、直接的な続編となる作品。


 今作は栗本薫の目指した「そこにあってないが如き」文体の完成系と云える。それほどにこの小説の文体はかるく、しかしすみやかに頭と身体に染み渡っていく。

 自分がこの作品から受けた驚き、感動、影響というものは、筆舌に尽くしがたい。というのも、一番はじめに読んだ栗本作品が、この『朝日のあたる家』の一巻だったのだ。中学三年生の時だった。

 当時、兄が榊原姿保美の『青月記』にすっかり参っており、榊原作品を皮切りに、漫画小説ともにJUNE系の作品をたくさん買ったり借りてきたりしていた。そうした図書館から借りてきた作品の一つに、この『朝日のあたる家』があった。

 自分は家の中においてある本はとりあえずチェックする習性があったので、兄の部屋においてあったこの本もまた、なんとなくめくってみただけであった。当時は小説などほとんど読んでもおらず、兄や友達の薦めがある本以外は、積極的に読みきることもなかった。べつに薦められたわけでもないこの本も、ぺらぺらとめくってそれで終わりだろうと思っていた。

 だから、なにげなく開いたこの小説の文章が、情景が、呼吸をするように自分の中に入ってくることに、ひどく驚き、そして夢中になった。当時の自分には「小説とは難しいもの」という固定観念があった。読みにくくないと小説ではない、とすら思っていた。その中にあって、この作品の文章の読みやすさと、それでいて浮かび上がる情景のいままで想像もしなかったことばかりなのは、衝撃としかいいようがなかった。

 透のジゴロという生き方も、女への態度も、具体的にどうとは云えぬがなにか不幸な、しかしその不幸をくぐりぬけた先にある清澄としか云いようがない雰囲気も、いままでの人生では考えたこともないものだった。いったいこの森田透という男は何者で、どのような過去があったのか。そしてこの、戦いもなければ殺人事件も起きず、ギャグもなければ歴史小説でも時代小説でもなく女性とのロマンスもさしてないこの物語が、いったいどこへ向かおうとしているのか……前作『翼あるもの』を知らず、今作をJUNE小説と認識することもないままに読みはじめた自分には、すべてが不可解で、それゆえに引きつけられた。


 ちなみにJUNE小説を知らなかったわけではない。先にも書いた通り、兄は榊原作品に傾倒し、同時期に江森備の『私説三国志 天の華・地の風』なども借りてきて薦められ、男×男というそれまで知らなかった世界に「うっそーマジでーなにそれー?」と中学生らしく騒いで、学校に持っていって「すげーホモだよホモー」友達に見せたりまでもしていたからだ。いま思えばなにやってんだと思うが、中学生はそういう生き物なのだから仕方がない。

 

 そもそもこの小説、まぎれもなくJUNE小説ではあるのだが、じつは男×男のラブシーンというのは、少ない。むしろ冒頭では若い女優の卵との事後シーンからはじまるし、読み進めてすぐに今度は熟女との情事がはじまるのだから、男女のラブシーンの方が圧倒的に多いくらいだ。二巻までの時点でのJUNEらしいシーンと云えば、半ストーカー化した熟女を追い払うために、島津に頼んで一緒にベッドにいるところを見せつけるくだりくらいだ。

 とは云え、セリフの端々に男とも寝たことがあることは示唆されている。正直、中学生の浅はかさゆえ、同性愛者とは「オカマ」という別人種であり、バイセクシャルの存在、ましてや男相手には受けとなり女相手には普通にできる人間など考えたこともなかった。

 もっとも、透の場合はただバイなのではなく、求められればそれに応じる、ただそれだけだ。股のゆるいクソビッチか男娼と云ってしまえばそれだけだが、しかし不思議だったのは、それだけ散々あちこちでセックスし、それで金をもらって自堕落に過ごしているにも関わらず、透がなによりも清らかな――それこそ聖者ででもあるかのように、自分が感じていたことだ。

 森田透という存在は、中学生の自分には不可解すぎ、魅力的過ぎた。そしてまた悪態をつきながら透と共に暮らす島津の、なんと格好よく魅力的なことか。二人の関係の、その会話の一つ一つのなんと愛と情に満ちたことか。それは自分がいままで見てきた漫画映画小説の愛や恋とはまるでちがい、恋人とも家族とも師弟ともつかぬ、得体の知れない、しかしなによりも確かに見えた愛の姿だった。


 この小説は、二巻までの間にさしたる事件はない。ただ透が夜の街をふらふらとほっつき歩いているだけだとすら云っていい。そういう意味では、あるいはクオリティの低い、退屈な小説かもしれない。だがその姿、言葉、すべてが自分にとっては新鮮で格好よく、そしてなにを意味しているのかわからぬのにひどく切なく胸をしめつけるものだった。

 いまだもって、この小説の文体、そこから生み出される空気は、自分にとって理想の具現だ。それはただの刷り込みではあるのかもしれない。だが、この作品に出会わなければ自分は栗本薫の小説にはまることはなく、そうなれば他の小説もあまり読まなかったであろうし、小説を書きたいなどと思うこともなかっただろう。

 云ってしまえばこの作品のせいで人生の道を踏み外した、とも云える。良くも悪くもこの作品が、透との出会いが、自分にとっての人生のターニングポイントであり、いまもなお輝き続ける理想であり憧れであるのだ。

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