088 息子に夢中
1985.12/角川書店
1989.06/角川文庫
<電子書籍> 無
【評】うな
● 今岡家のごはん日記~育児エッセイを添えて~
『月刊カドカワ』に掲載・連載されていた『息子よ』『息子に夢中』に書き下ろしエッセイ『再び息子へ、そしてすべての子供たちへ』と書き下ろし小説『ウルムチ行き』を加えたエッセイ集。
『息子よ』
ほとんど「子供産みました」報告にも等しい、息子大好きだよエッセイ。子供が生まれて間もない母親として至極普通の浮かれっぷりと自己陶酔に満ちたエッセイであり、梓らしいといえば梓らしいが、わりと普通の育児エッセイである。
『息子に夢中』
こちらは連載されていたものをまとめたもので、基本的にただの日記である。
どれくらいただの日記であるかというと、育児エッセイにみせかけて同じくらいの文量をメシの話に割いているくらいである。あれを食べた、これを作った、という話の合間に息子の話と今日は原稿何枚書いたかの報告が多く、いったいなんのエッセイなのかと時々疑問が湧き上がる。育児エッセイだろうが闘病日記だろうが末期のエッセイだろうがひたすらご飯のことを書き続ける梓のご飯への愛は感心するものがある。
育児部分の内容自体は、「息子は美少年で足が長い」などの梓らしい、当の子供にとってはたまったものではなさそうな自慢がほとんどを占めており、育児エッセイとして正しいと云えば正しい。
しかし、掲載誌がいわゆるタレントの余技を集めたような『月刊カドカワ』であるためか、どうも中島梓/栗本薫という作家のことをある程度知っていること前提で書かれているため、育児エッセイだからと手に取った人に対してあまりにも不親切に過ぎるような書き方が若干気にかかる。
これは後のエッセイにも多々見られ、かつ年々悪化していく傾向で、この態度の太さを個人的に好ましく思う一方で、エッセイストとして二流にとどまってしまった原因でもあるな、と思ってしまった。やっぱり少なくとも最初は新規に優しくしてあげないとダメだよな~。
ともあれ、日記であるため、良くも悪くも平坦な内容で、「産んだ日に13キロ痩せた」とかさすがにそれはねえだろとツッコみたくなるような記述もありはするが、やはり本来雑誌でさらっと読むのが正解なのだろう。通して読むと代わり映えのしない内容にけっこう飽き飽きしてくる。近年激戦区と化した育児エッセイ漫画に比べると、赤子あるあるネタにしろうちの赤ちゃんとんでもないんですネタにしろ、あまり面白いとは云い難く、中島梓のファンでないとそんなに楽しめないのではなかろうか。
一方で薫ファンとしてはその異常な執筆速度が克明にメモされているため、やっぱりこの人おかしいんだな、と思える資料価値がある。手書きで三時間原稿用紙50枚とか、純粋にびびるわ。内容が完全にできあがっていても無理だろ、それ。
しかし冷静に見ると、無茶なスケジュールで書いたものはやはり枚数のわりに内容が薄いものが目立ち、やはり乱造されたものは粗製になってしまうんだな、という当たり前のことを実感してしまう。
『再び息子へ、そしてすべての子供たちへ』
書き下ろしとなるエッセイ。
梓はなぜかエッセイの終盤で小説のような謎の盛り上がりを見せる奇癖があり、今作ではここで発揮されている。『息子に夢中』の項でもたびたび触れられていた「息子のおかげで私は他人の気持ちがわかるようになった」「息子を生んでよかった」ということを、幾分ドラマチックに悦に入った感じで書いている。この臭みこそが中島梓のエッセイの強みであり、苦手な人がとことん苦手な部分だろう。
正直、いまの自分にはいささか鼻白む部分がないでもないが、梓のこのナルシズムに満ちたエッセイの書き方は好きだし自分の文章にも影響受けまくっているのが丸見えなので否定することはできない。
ちなみに息子のために童話を書くつもりだということが書かれているが、これは後に実際に書かれ、没後に『いつかかえるになる日まで』のタイトルで四編がまとめられ出版されている。発刊時に「そんなもの書いてたんだ」と思ったが、このエッセイに存在が示唆されているとは今回再読するまで気づかなかった。となると、このエッセイ中で書くつもりだといっている『プロレス殺人事件』の原稿が存在する可能性が?(いや、そのためにはじめてプロレス観戦してみたとかいういい加減な姿勢だから、別に読みたいとは思わないけど……)
それにしても梓は本当によく生まれ変わった気持ちになっているな……読者からしてみると文章がどんどんひどくなって以外は、死ぬまでなにも変わっていなかったようにも見えるんだがな……。
『ウルムチ行き』
こちらは小説。しかし名前こそ変えているが状況は完全に今岡純代さんのそれで、いわば私小説である。自らのことを語ったものとしては栗本薫の唯一の私小説ではなかろうか。企画で書いた私小説『五来さんのこと』というものもあるが、あれはあまり自分については語っていなかった。
内容は結婚前から出産までの気持ちをまとめたもので、できることを誇らずできていないことを悔しがる劣等感の塊であったことや、面倒見たがりの父母の「家」に大人になっても囚われていたこと、そんな自分が人の親になるということへの感慨が書かれ、結婚直前にいった中国旅行(『シルクロードのシ』で書かれた中国旅行のこと)で出会った、地の塩というべき中国の人々の生の素朴な確かさに思いを馳せ、自分もそうしたありふれた人間の一人になることを受け止める気持ちを書いた話である。
栗本薫としてはかなり珍しく、フィクションという窓ガラスを通さずに自分自身の内心を吐露した作品として、なかなか面白いし、感動的だ。この文体で、晩年の等身大の気持ちを書いて欲しかった。
しかし作品の善し悪しとは別に、読むだにやはり旦那の前妻可哀想だし、妻の妊娠・出産前後に不倫してそれが原因で離婚する旦那は人としてどうなのか、別れるにしろ最悪なのではないか、という気持ちが湧き上がってくる。そして電話の途中で前妻が「ちょっと失礼。子供が泣いている」といっただけで「あれは優越感に満ちていた!」と云うこの主人公の不倫女は盗っ人猛々しい嫌なメスだな、と思わざるを得ない。
総じて、育児エッセイとしては微妙だが、梓エッセイとしては楽しめる普通の出来である。
しかし、すでに亡くなった作家の、子供が生まれたばかりのころのエッセイ、というものに、良いとか悪いとかいうのもなんか気が引けるというか、すでにその存在がちょっと切ないものになっているので、なんとも言い難いですね……。書かれている当の息子の大介くんにしてからがこの当時の梓よりももう年上だもんなあ……。その浮かれも思い上がりも若さも、すべていまとなっては良い思い出的になってしまいますよ、これは……。
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