060 道化師と神―SF論序説―

早川書房 83/12


【評】うな


●論理に欠ける評論を評論と呼べるのか?


 日本SFの総本山ともいうべき早川書房から刊行されたSF評論本。


 結論から云うと「中島梓にSF評論は無理」である。

 これは知識や作文能力の問題というよりは、人格の問題だ。

 この本は執筆された1981年当時のSF界について論じているのだが、その要旨を自分なりに簡潔にまとめると以下のようなる。


 SFとはセンス・オブ・ワンダーである。

 センス・オブ・ワンダーとは文字通り、異邦人感覚だ。「外」の人間の視点で「内」を語ることにより「内」を再発見すること。だが実際に「外」の人間が書いたものはSFにはならない。「内」の人間が、「外」の眼をもって「内」を語るのがSF意識であり、それをもってはじめてSF足りうる。

 センス・オブ・ワンダーによって書かれたものを読むことにより常識は崩壊し、内面的思考的自己改革が進む。個々人の自己改革が進めば、世界を変革させうる。もはや宗教も政治も世界を変革させられない。SFのみがその可能性を有している。

 だからみんなでSFを読み、書き、世界を変革させよう。


 前半のくだりはまだ良いとして、後半の論理の飛躍はなんなのであろうか。自分の要約の仕方が悪いと思われるかもしれないが、読んでいると実際にこれくらいに飛躍している。嘘だと思うなら各自読んで確かめてもらいたい。


 では、なぜこうも飛躍してしまっているのかといえば、彼女の論理は自分の願望によって恣意的に曲げられてしまっているからだ。これをもって、自分は中島梓は評論家として不適切である、と判断している。

 評論の世界というのは、論理が絶対だ。自分がいくらAだと思っていても、論理的思考の果てにBという結論が出たら従わなくてはいけない。その結果、だれがどんなに傷つこうとも、そこを曲げては評「論」ではない。そして論理的思考というものは、自分を切り刻む刃となる危険を、常に秘めている。自分が傷つくことを恐れるものは、評論などしてはいけないのだ。


 梓はまず「SFとは特別であるべき」と思ってしまっている。

 SF作品が読者として好きだった。だから真似をしてSFっぽい作品を書いた。

 SFっぽい作品を書いたから、自分はSFの人間だ。

 自分が属しているから、SFは特別に違いない。いや、特別でなくてはならない。


 彼女の根底にあるのは、結局それだ。自分の所属する場所を持ち上げるための論理、屁理屈にすぎない。彼女にとって神々であった存在、小松左京や筒井康隆と自分を同じSFという枠でくくることによって、自己をも神格化させようという、いやらしい自己撞着に過ぎない。自らの願望・邪心をまじえた思考は、決して論理にはなりえない。


 彼女が語ろうとするのは、常に彼女がその内にいるグループだけだ。

 自分が近々その内に入る予定だった文芸。

 入ったつもりのSF。

 自分がつくったんだから間違いなく入っているはずのやおい界。

 彼女は本当に、常に自分の所属(していると思っている)グループをしか語ろうとしない。なにせ評論のなかで、必ず自分の作品についても言及するのだから律儀なものだ。そして、自作を含めたそれらがどんなに特別なものであるかを熱弁する。

 結局は、自分がどんなに特別であるかをしか語ろうとしないのだ。


 そんな邪心のあるものが、評論となりえるものか。彼女のSF分類には、そのよこしまな心が如実に表れている。

 バロウズをSFと認め、コナン・サーガをSFと認め、なのにペリー・ローダンをSFには加えず、SF大賞を受賞した『吉里吉里人』を外部と呼ぶ。優れた漫画家のほとんどはSFを描いていると云い、手塚作品の九割はSFで、永井豪の作品はすべてSFとのたまい、あげく『ポーの一族』や『綿の国星』までもSFに分類させる。

 明らかに、梓が好きかどうかでのみ峻別している。好きなものと自分の作品を同じSFで一括りすることによって、彼らと自分を仲間にしたいのだ。


 余談ではあるが、SF漫画の例としてやたら『デビルマン』を語るのも頭が痛かったが、ラストシーンの解釈は本当に同じ漫画を見ているのかと眼を疑った。永井豪のテーマは「光と闇の結婚」であるとし、その例の一つとしてデビルマンのラストシーンを挙げ、こう書いている。


かぎりなく美しいラストシーン――光り輝く魔王・サタンがデビルマン不動明への愛を告白するシーンと、そこに満たされる光とを思い出して欲しい――



 率直に聞きたいのだが、梓はあの光がすべてを消滅させる神々の軍勢であると、サタンとデビルマンの戦いを無に帰すものだと、読み取れているのだろうか?


 とにかく、論理の前提に私心があるため、前提条件から狂っている。小松・筒井たちと自分を並べたいため、戦争体験を軸にもつSF第一世代と、戦争を知らない梓たち第二世代の間にある明確な溝を理解していない。というか最後の最後まで、梓は自分が典型的なオタク世代であること、創作物ばかりを見て育ち、現実と物語世界と同列に並べる夢見がちな世代の代表的存在であることを、まったく理解していなかったと見受けられる。

 彼女がこの本の前半でしきりと述べているSFインサイダーの特徴は、SFではなくオタク世代の特徴でしかない。


 好き嫌いでいうなら、自分は中島梓のエッセイは好きだ。放埒に言い放ち、好き嫌いや感情を隠そうともしない彼女の文章は革命的にすら思えた。

 しかし同じ方法で評論が成り立つわけもない。評論をしたければ、まず客観的なデータを揃え、それを読者にそれを提示し、巻末には参考資料をしっかりと載せて欲しい。参考資料が存在しないようなものを、評論と呼んではいけない。


 文章も無駄に一文を長くして、やたらと本のタイトルばかりを挙げて勢いで煙に巻き、カッコイイ比喩表現で説得力があるような素振りをしてはいけない。それは評論の文章じゃない。小説の文章だ。評論はまず第一に事実で、第二にそこから導かられる論理だ。

 カッコよくても面白くても読み物として優れていても、云わんとする内容が順序だてて並んでいなければ評論とは呼べないだろう


 考えてもみれば、結局、中島梓は華々しくデビューし、各所で様々な評論、解説を残しながら、文芸評論家としてはほとんど評価されることなく終わった。文庫版『文学の輪郭』の巻末において「自分は小説家としての準備として評論を書いたのであり、小説家となったいまは評論など書けない」という旨のことを書いていたが、評論家として評価されなかったことに対する言い訳としか思えない。しかもこの文章のあとにも『作家の肖像』や『夢見る頃を過ぎても』などの文芸時評本をものしている。


 皮肉にも、彼女が自らの特別性を証明するために語った分野から、彼女は常に拒絶を味わっている。文学界・SF界・ミステリー界・BL界、すべてが彼女を外なるものと認識した。そして排斥されると「私が書きたいのはそういうものではなくもっと特別なものだ」と云い、後ろ足で砂をかけるような態度で孤高を気取った。

 彼女がするべきことは、河岸を変え続けることではなく、どこかに足を落ち着け、なぜ売れているはずの自分がプロパーからは評価されないのか、じっくりと考え直すことだった。

 SF評論と名付けられた、この牽強付会と自己撞着にまみれた本からは、そういった彼女の内面ばかりが窺えてしまうのであった。


 それはそれとしてこの本の装丁、『バーナード嬢曰く』の神林が好きそうな黒さである。さすが早川。

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