024 翼あるもの 上・下
81.09/文藝春秋
85.05/文春文庫
【評】∈(゚◎゚)∋うなぎ∈(゚◎゚)∋
● 栗本薫の到達点――森田透
この作品は上・下巻になっているが、下巻が上巻の続きになっているわけではなく、それぞれが『生きながらブルースに葬られ』『殺意』という別々の話になっている。
上巻『生きながらブルースに葬られ』は、売れっ子グループサウンド、ザ・レックスのボーカリスト今西良をめぐり、作曲家の風間俊介と俳優の巽竜二が恋のさやあてをし、その果てに人死にが出るという、ありがちといえばありがちな恋の三角関係が話の軸になっている。
先の『真夜中の天使』の項でも述べたとおり、今作は栗本薫――というより若き山田純代嬢が、久世光彦演出のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』にはげしい衝撃を受けて描かれた『真夜中の天使三部作』の一つである。より厳密に云うと、この『翼あるもの』の上巻のみが三部作の一つだ。
執筆順に云うと『真夜中の鎮魂歌』『翼あるもの 上巻』『真夜中の天使』『翼あるもの 下巻』ということになる。平たく云ってしまえば下巻は後付けのつけたし、ということだ。
が、この作品の価値は、ほとんど下巻にある。というか、上巻の部分は『真夜中の天使』と似たり寄ったりのくりかえし(執筆順に云うと、この上巻の話をより緻密に描きなおした完成形が『真夜中の天使』ということになる)に過ぎない。平たく云うととてつもなく素晴らしいジョニーをみんなで奪い合う姿が書きたかっただけだ。
しかし下巻『殺意』――これこそが栗本薫がついにたどりついた唯一のオリジナルであり、JUNEとしての到達点の一つ、大げさに云ってしまえば彼女の生み出した一つの奇跡だ。
だって、こんなに泣ける小説が他にあるか?
下巻は上巻とほぼ同じ時間軸の話を、視点を変えて語られることになる。
かつて今西良とともにザ・レックスのツインボーカルをつとめ、のちにトラブルを起こして芸能界から消えた森田透を主人公に、下巻は語られる。
芸能界から姿を消した透は、新宿で男娼まがいのことをして酒に溺れて日々を過ごしていた。その透を俳優の巽竜二が拾うようにして抱くところから、この物語ははじまる。
透の言動は、常に自暴自棄で投げやりで自業自得で支離滅裂だ。一方的に良をライバル視し、自分勝手に場を乱し、勝手に落ちぶれ、セックスを生業にし抱かれることでみずからを傷つけつづけている、救いようのない男でしかない。
だが、その男の悲痛な魂の彷徨を、「こうしたのはお前らだ」という身勝手な叫びを、こうまでも切実に描いた作品は、他にない。
出演しているあらゆる作品で、良は特別な存在、選ばれし者として描かれている。逆説的に云えば、栗本薫の描く現代小説において、選ばれし特別な者は今西良になる、とも云える。
対して、森田透は違う。森田透は作中においてもとびぬけた美貌を持った存在として描かれている。今西良よりも、だ。しかし、にもかかわらず透は選ばれていない存在として、良と対比する敗者として徹底的に描かれているのだ。そして、敗者であるがゆえ、その美貌は醜貌よりもなお残酷な烙印として、透を追いつめるのだ。
男でありながら、幼い頃からその特殊な容貌をもって人々の欲望にさらされ、汚され犯される側、狩られる側の生物として生き方を強要され、自らをそうした特別な存在と定義させられておきながら、透は本当の本物である今西良に出会ってしまう。
「透の方が顔は整っている」と人々は云い、だが次には「でも良の方が魅力的だ」と云う。良と出会った瞬間から、自分がまがいものであると気づき、勝てるはずがないとわかりきった無謀な戦いを挑みつづけ、そして友人もファンも仕事もすべて失い、新宿の夜に棲む男娼まがいの存在に落ちていった、それが森田透という人物である。
傷つき自暴自棄にはしり、自分の肉体を安売りして酒とSEX漬けの毎日を送る透に最後に残った執着は、ただそこにいるだけで透を追いつめ自滅させた今西良だけだ。巽の部屋に住みついた透は、日がな一日、ただ良の出ている番組だけを見つづける。
その、己の傷をつねにえぐりつづける透の姿の、なんと悲しく切なく、共感と呼ぶことすら生ぬるく感じるほど読者の胸を揺さぶることか。あまりにも傷ついた心は、傷を確かめることでしか己の存在を感じられぬとでも云うように、透はブラウン管の向こうでだれよりも輝く良を追いつづける。その姿は心に敗者を持つものすべての胸を締めつけかき乱さずにはいられない。
精神的な自傷をつづける透をなんとかしてやりたいと、巽は不器用な献身をつづけ、いつしか透は巽を愛しはじめるのだが、その愛する巽に良との共演をそそのかし、良を愛するように仕向ける透の姿は、どこまでも疑い深く悲しい。
裏切られ捨てられることを前提でしか人を愛せぬ透と、その透をなによりも大切に思いながらも、気がつけば透の思うとおりに良を愛してしまっていた巽の姿の、なんとままならず苦しいことか。
安らぎを求めてひたすらに己を傷つけ、さしのべられる安らぎをみずからの手でふいにして、自滅をしつづける。その姿は理屈に叶わず、道理立てて説明することはできないが、しかし自分にとってはあまりにも自然な心の動きとしてうつった。
あんたたちには永久にわかるまい。おれはいつだって、ポケットに、ジャックナイフ、なぜだかは、わかるまい。狩られ、買われる側にしかなれなかった。これ以上、堕ちるべき深みさえないはぐれ猫が、どうして、さしのべられる手に牙を立てるか、わかるまい。
この透の独白ほど、いまも自分の胸をしめつける言葉はない。さしのべられた手に牙をたてずにいられぬ、悲しいほどのちんけなプライド。あんたたちにはわかるまいという一方的な心の閉鎖。それはいつだって、自分の心の真ん中、もっとも弱い部分に息づいている核にほかならないからだ。
客観的に云うなら、透という人物は、決して不幸な身の上ではない。人より優れ容姿をもって生まれ、それなりの音楽の才能を持ち、金銭的にもさしては困窮せず育ち、GSグループのボーカルとして多数の女性ファンを熱狂させた。
しかし、透が得たいと思っていた無償の愛だけが、良に奪われた。ただそれだけが、透を敗北者へと変えた。そのたった一つのものが手に入らない欠落を、その欠落からくる身の崩壊を今作は全力で叫んでいる。
こんな作品は、知らなかった。
不幸なんてものは、下には下がいる。自分より醜いものも貧しいものも、いくらでもいる。その人たちのことを思え、と人は云う。自分は満たされているほうだ、と理性は告げる。だが、それではこの欠落は、この不幸とはとうてい呼べぬ欠落感は、ただのわがままに過ぎないのか? きっとそうなのだろう。そう思って過ごしていた。
その、生きるのには支障がない欠落を、栗本薫は、森田透は叫んでくれた。
それは子供じみた共感かもしれない。とてつもなくわがままで、みみっちくて、立派な人たちには鼻で笑われるようなものかもしれない。だが、それでもそこに欠落はあり、自分は満たされていないのだと、透を通して、はじめて自分は気づいた。
人の心の空白も不幸も、人それぞれのものでしかない。他人と比べて物質や条件が満たされているからといって、不幸と思っていけないわけではない。それはひどく個人的な、身勝手な心の解放だった。
だが同時にそれは、他人が物質的に満たされているように見えても、他人の悲しみを自分の尺度ではかってはいけない、ということをも教えてくれていた。そう理解した時、はじめて自分は、他人も自分のような傷つく心をもったみみっちい存在であるということに、ようやく気がついたのだ。自分が人間で、まわりの大人も学校にいる同級生達も、みな人間なんだと、はじめて気がついたのだ。
だから自分は、栗本薫の手によって、森田透に出会って、はじめて本当の意味でこの世界に生まれたんだと、そう思っている。それは思春期がもたらした大いなる思いこみと勘違いであるのかもしれないが、それでもやはり、栗本薫は大恩ある私の神だと思いたい。
物語の後半、透は敏腕テレビディレクター島津のもとで、玩具のようにして飼われ、いいように弄ばれて過ごす。そしてその生活の中、もはや憎しみなのか愛なのかすらわからないほどに良への執着だけが残った透が、ナイフを握りしめて良のいるテレビ局へと向かい、二人が再会したところでこの物語は幕を閉じる。
その再会は、あまりにも容赦のない空漠を透に投げつけるのだが、不思議とそれで透の心は、そして読者の心は晴れわたる。いまだに、なぜこのような結末となったのか、なぜ虚しい一人相撲という現実を突きつけられるこの結末がこんなにも晴れやかなのか、うまく説明することができない。ただこの道理も脈絡も起承転結のセオリーもないこの結末が、自分にとって一つの理想の具現であるのだけは、間違いない。
今作を、若者特有の自意識過剰と被害妄想に凝り固まった、己を哀れんだだけの典型的な若書きであると一蹴することは容易い。こんなにも子供じみた作品はない。けれども、この弱さを、身勝手さを、寄る辺なさを、自分は生涯忘れないだろう。
この作品は、すべての敗者へ送られた祝福と奇跡だと、そう思いたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます