013 幽霊時代

80.11/講談社

85.03/講談社文庫


【評】うな


● 普通のSF短編集


 早川からSF単行本を出したかと思えば、それから半年も経たずに今度は講談社から出したSF短編集。デビューして二、三年で、この出版社をまたにかけたフットワークの軽さ。この尻軽さこそがベストセラー作家としての栗本薫の最大の武器だったのだろう。

 収録作は『幽霊時代』『時計台』『ケンタウロスの子守唄』『水の中の微笑』『エンゼルゴーホーム』の五編。


『幽霊時代』

 ある日突然、生きた心地がしなくなり、やがてだれにも認識されなくなりひっそりと消えてしまうという奇病、幽霊症候群はまたたく間に全国を蔓延していく。果たしてこの奇病の原因は?

 典型的なワンアイデア物。科学的論証などが一切がない観念的な説明はじつに栗本薫らしい。「存在感」などというものに焦点を当てるのは、ヒキコモリ系なのに自尊心虚栄心の強い栗本薫らしい題材の選び方で持ち味を活かしているし、事実ラストシーンもうまく決めてはいる。が、のちに何度も連発する「いつものアレ」と云えばそれで済んでしまうような手癖感抜群のリリカルエンドだし、その「いつものアレ」をもっとうまく決めた作品が何作かあるので、この作品自体の印象はうすい。奇しくも話の題材とおなじように薄くて、うっかりすると忘れてしまう。表題作なのに。


『時計台』

朽ちた時計台の夢見た、幽霊と幽霊の恋物語。

滅び去った無人の惑星に鳴り響く、聞くもののない鐘の音。

リリカルSFの秀作である。というかリリカル成分以外になにも存在しない。早くもSFというより乙女ポエムなんじゃないかという領域に突入してしまっているが、ごめんなさい、こういうの好きなんです。


『ケンタウロスの子守唄』

 筒井康隆が作詞し、山下洋輔が作曲、浅川マキがうたった同名曲に着想を得た作品。詞中の「赤い星」「白い星」「青い星」をモチーフに、三つシーンに分けてオムニバスが描かれている。


 シーン1はとある砂漠の星での地球人の生活を描いている。

 地球と異なる生態系を面白く描き、異種族間の愛情ともつかぬ関わりを描いている。砂漠の星を表現するために、文章も渇いたさっぱりとしたものになっているのが、文体で作品世界をつくる栗本薫らしいテクニック。渇いていながら乙女チックなポエジーを感じるところがさすが。


 シーン2はとある奇病の話。

 人体が石となり、際限なく質量を増していく奇病、ホルツ症候群。悲しみにくれる同僚がその奇病にかかったとき、英雄と呼ばれた女がとった行動は……という話で、病気の正体が強烈な自閉症であり、ブラックホールとはこの発病者のなれの果てであるのかもしれないというオチは、個人の内面を壮大にとらえる栗本薫らしさが出てて良い。


 シーン3は、永遠に生きる宿命を背負った不死身の女が、宇宙を渡る巨大なジェリー状の生物に遭遇する話。

 理由もわからぬままただ宇宙をさまよい続ける女と、他者という概念をもたぬ超巨大な生物。それぞれの異形の孤独が叙情的に描かれている、やはり栗本薫らしい好編。

 

 三つのシーンかそれぞれがまったく関係のないストーリーではあるが、作者の思うSF的情景を端的に描いたものがこのオムニバスなのだろう。いずれも新しさこそ感じないが、SF読者として熱心であり、SFの空気を大切にしていることがよくわかる三篇。

 しかしさすがにまったく三篇につながりがないのは、一作としてまとめる必要があったのだろうか?

 これが栗本薫のSF処女作であるので、テンパっていろいろ詰めこんでしまったのかもしれない。しかし発表が『SFマガジン』の昭和五三年十二月号というのだから、今岡清がどれだけ素早く栗本薫に接触していたのかわかろうというもの。まったく畑のちがう乱歩賞作家をこの早さで引っ張ってきたのだから、優秀ではあったのだろう。

 それにしても、なにを根拠にひっぱってきたんだろう……若いからSF書けると思ったのかな? 当時の新人にはみんな声かけてたのかな? 若い女だから原稿依頼を口実に声をかけただけなのかな? もはや邪推するしかないが、この作品がなければSFマガジンとのつながりはなく、ひいては『グイン・サーガ』もなかったかもしれないと考えると、結果的に今岡くんは優秀だったのだろう。

 また、一作目から尊敬している筒井康隆からタイトルをもらうなど、この遠慮のなさというかあけすけな好意の示し方がすごい。こういうところに可愛げがあったよね、昔の栗本せんせーは。普通、大好きでも頼めないもん、そんなの。このミーハーさは本当に武器だったなあ。

 作品内容とは関係がない、そんな事情にばかり思いを馳せてしまう『ケンタウロスの子守唄』でした。


『水の中の微笑』

 いままでも散々やってきといてなんですが、短編というのはどうも短くなればなるほどオチにかかる比重が強いので、どうもネタバレにならざるを得ないのか辛い。オチが大事な作品だと読む意味を無くすんじゃないか、という。

 でもまあ、いまさら栗本薫の短編でネタバレされたくないという人も少なかろうから、やはり気にしないでおく。

 で、今作もそんなオチだけの作品で、堕胎された子が世界最強クラスのエスパーだった、という話なんですが、ラストの残留思念だけとなった巨大な胎児が空に浮かんでいる映像がすべてです。それ自体はけっこう悪くない。

 しかしこの巨大な赤子というイメージ、栗本薫にとってはよっぽど象徴的なものなのか、いろんな作品でくりかえし使われている。先に述べた『Run with the Wolf』のモンスターベビーもそうだし、もっとも印象的なものでは『魔界水滸伝』において、クトゥルー神話最大の神アザトースもやはり宇宙に浮かぶ巨大な赤子として描かれていた。

 たしかに巨大な赤子というものはそれだけで怖いし不安になるが、あれはなんなのだろうか?


『エンゼル・ゴーホーム』

 ある日突然、各地に天使が現れておせっかいをはじめたものだから、街中がそりゃあもう大騒ぎさ。……みたいな感じの、フレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』のパロディ作品。

 パロディ作品らしく、よくも悪くもすべっている感じがたまらない。特にSF(サド・フェチ)マガジンの居間岡くんは愉快。最近は楽器じゃないとエロさを感じないとか、そのいじりっぷりに当時の二人がいかに仲が良かったかというのがうかがえる。

 話自体は、パロディとしてうまいとともに、善行を強要されることによってむしろ社会が混乱するという皮肉な仕組みはフレドリック・ブラウン作品にもつながる精神をもっているのも良い。

 この本のあとがきとして「『エンゼル・ゴーホーム』のためだけのあとがき」と称されたものが載っているのも面白いし、その内容が『火星人ゴーホーム』の説明と、その『火星人ゴーホーム』のあとがきに準じた内容になっているのもにやりとさせてくれる。

 あとがきまで含めて、パロディ作品としてよくできた短編と云えるだろう。もっとも、それだけに原作を知らないと楽しさがわからないのは否めない。現に自分がフレドリック・ブラウンを知らなかった初読時にはあまり面白さがわからなかった。


 総じて云うと、若いSFファンが書いたものらしい好篇ぞろい。ではあるが、いずれの作品もアイデアとしてはあまり新しくなく、物語としてもさほどのものではない。普通に読めるが、あまり心には残らない、ありきたりのSF短編集の域は抜けていないように思える。

 しかしこの短編集で一番面白く作者の個性が発揮されているのは巻末の解説だ。

 解説の著者名が旦那の今岡清であるだけでもちょっと笑えるのに、それを代筆しているのが妻の中島梓だというのだから、もうわけがわからない。

 それでもって「そのころから、私は彼女が世の中の人の見る目とは裏腹にたいへんシャイでナイーヴな一面をもっていることを知らされていたわけである。これ本人が書いていると思うすごいわね」などとぬけぬけと書いている。このようなライブ感楽屋感あふれる文章というものを初読時の自分はそれまでに読んだことがなく、こういう面にはなかなか衝撃をうけた。

 というのも自分にとって、文章というものは教科書に載っているような「立派」なものでなくてはならない、という固定観念が知らずのうちにあった。それを壊してくれたのが栗本薫のこうした文章と筒井康隆の実験性だった。好きな作家、尊敬する作家、嫉妬する作家は数あれど、自分が栗本薫と筒井康隆のただ二人を神と崇めている由縁である。

 ちなみにこの解説で栗本薫は「筒井康隆、小松左京、新井素子、池波正太郎、各氏の文体模写には自信あります」と書いているが、百歩譲って他のご三方はともかく、新井素子には謝れと云いたい。一番簡単にそれっぽくできるけど、他人がやると気持ち悪いだけなのが新井素子文体だし、栗本薫のにゃんにゃん文体はシャレんなんないキモさでしょうが!

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