005 グイン・サーガ1 豹頭の仮面 


1979.09/ハヤカワ文庫

<電子書籍> 有

【評】 うなぎ(゚◎゚)



● 国産ファンタジーの金字塔、開幕

 新興国モンゴールの侵略により、中原最古の王国パロは一夜にして滅び去った。だが、パロの世継ぎたる双児は辺境ルードの森へと転移していた。追手により窮地に追いやられる聖双生児の前にあらわれたのは、豹頭の超戦士であった――。

 栗本薫の代表作にしてライフワークの大長編ファンタジー、開幕。


 いよいよグイン・サーガ本編の再読&レビューに踏み切ろうかと思う。

 何度か書いているが、自分にとって、グイン・サーガは栗本薫作品の中でさして特別な作品ではない。おそらく、ファミコン・ラノベ世代の自分にとってファンタジーは手垢のついた存在であり、国産ファンタジーの夜明けを告げたグイン・サーガに対する衝撃が、リアルタイムで出会った人たちとずいぶんと違うからだろう。自分にとって『朝日のあたる家』や『小説道場』は替えの効かない存在だが、グインサーガはあくまでも「国産ファンタジー最良の一作」でしかない。

 が、近年、いろいろと栗本作品を読み直すことにより、多少その評価も変わってきた。

 極論してしまうと、グイン・サーガはファンタジーではないと思う。

 かといってSFだとかヤオイだとか、そう主張したいわけでもない。

 グイン・サーガに似ているものを挙げるとするなら、それは国産ファンタジーほとんどの原型となった金字塔『指輪物語』ではなく、『ナルニア国物語』でもない。『ゲド戦記』や『エルリック・サーガ』は多少似通う部分もあるが、やはり違う。もっとも近い作品は『スター・ウォーズ』、そして『非現実の王国で』だ。


『スター・ウォーズ』に関しては、説明するまでもないだろう。ジョージ・ルーカス監督の手による世界でもっとも有名なスペースオペラ映画であり、監督の手を離れたいまもなお新作が作られ続けている大作だ。

 この作品はSFに分類されているが、厳密に言うとSFではない……というか、ルーカスとしてはSFでなくても良かったのではないか、と自分は考えている。『スター・ウォーズ』にこめられているのは、彼の愛のすべてだ、と自分は思う。生きてきて、先人の創作物に感じた愛、沸き起こった様々な感情、そういったものをすべて放り込むことのできる自由な環境として、遠未来の宇宙というなんでもありな状況が選ばれたのだと、自分は思う。

 だからSFなのに黒澤明の時代劇に影響も色濃いし、銃器があるのにサムライじみた騎士が世界を守っている。好きなものは全部入れたルーカス鍋。彼の抱いた様々な愛をよりひとつの形に凝らせたもの。それが『スター・ウォーズ』なのだ。

 ファンが求めているものが旧三部作の類似品だということがわかっていて、新三部作を別のテイストの作品へと変えたのも、それゆえだろう。旧三部作はすでに完成された一つの愛の形であり、新三部作は彼の別の愛の形なのだ。ルーカスにはルーカスの愛を形にすることしか、興味がない。そこにはSFらしさとか、SFかくあるべきという姿勢の入り込む余地もない。彼が生涯をかけてかき集めた愛を6つの形により合わせたものが、あの大作の本質なのだ。


 グイン・サーガが『スター・ウォーズ』の類似であるというのは、つまりこの面においてだ。栗本薫はファンタジーを書こうとしていたというよりも、彼女の抱いた愛すべてを表現するためのベースとして、なんでもありなヒロイック・ファンタジーの世界を選んだのだ。だからこそ、おなじファンタジーでも緻密な設定を強固に作り上げた『指輪物語』ではなく、別世界の歴史を叙事詩として作り上げた『ナルニア国物語』でももなく、無限の怪異が広がる『冒険王コナン』にこそ栗本薫は魅入られた。

 習作である『トワイライト・サーガ』はまだ、ほとんどコナンのキャラに美少年を加えた同工異曲でしかなかった。たが、彼女の愛はヒロイック・ファンタジーのみでは足りなかった。コナンも三国志も水滸伝も、『クォ・ヴァディス』も『エジプト人』も『モンテ・クリスト伯』も『大地』も『枯れ葉の寝床』も全部入れたかった。彼女の愛したもののおよそ可能な限りすべてを、一つの世界にしてしまいたかった。

 それは敬愛する神の子を自らのうちに孕んで産み直すことによって、自らもまた神となろうとする行為でもある。彼女が桑田佳祐とつかこうへいのパロディの手法に共感を覚えたのも、グイン・サーガの元ネタとなる作品や神話を隠すこともなくあらかさまにしていたのも、すべて根はおなじことだ。

 彼女にとって大事なのはファンタジーという形式などではなく、彼女の愛を一つの形にして世に産み直すことだったのだ。


 だが、グイン・サーガは『スター・ウォーズ』のように究極の形を数時間に凝縮したものではなく、量でもって表現することにした。この結果として、いつしか『非現実の王国で』の領域に踏みこんでしまった。

『非現実の王国で』はアウトサイダー文学の有名なものだが、知らない人も多いかもしれない。なぜならこの作品全文が刊行されたことはないからだ。ヘンリー・ダーガーという著者の手によって綴られたこの物語は、15000ページ以上にもわたる大作だ。さらに続編も存在し、こちらも8500ページにも及ぶ。

 60年にわたる執筆活動によって作られたこの超大作は、おどろくべきことに出版はおろか、誰の目に触れさせる予定もない、まったく自分自身のために書かれた物語だった。ヘンリーは老人ホームに入居する際、家主に部屋のものをどうするか訊ねられ「捨ててくれ」と答えた。そこで家主がヘンリーの死後に部屋を訪れ発見したのがこの『非現実の王国で』という物語だったのだ。おどろいた家主はこの幻の超大作を世に発表した。

 そう――生涯をかけて綴っていた黒歴史ノートが、生前に処分しなかったために死んでから世に晒されてしまったのである。

 ヘンリー・ダーガーについて語るとあまりの面白さと凄さにキリがないので、興味ある人は自分で調べてほしい。『非実在の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』というタイトルで映画化もされている。

 ともあれ、七人の少女が悪い大人たちから王国を守るために戦う姿を描いた架空の王国の物語を、誰に見せるつもりもなく生涯書き続けたその姿を、栗本薫とだぶらせるのは容易であろう。少女たちになぜかチンコがついていることを「女の裸を見たことがないから知らなかったんじゃないか」とすら云われる世界最強クラスの非モテなのもまた深い。

 掃除夫として黙々と働き会話した人間もほとんどおらず、『ふしぎの国のアリス』や『オズの魔法使い』などを愛読していた(と死後の部屋の状態から推測される)彼の生涯は、狭い偏愛と自己の内宇宙にのみ興味が向けられていた。そしてそれを文章にし続けた。誰に見せるわけでもないのに。

 そこに晩年の栗本薫をだぶらせてしまうのは、自分だけだろうか。


 そう、グイン・サーガとは先人への愛を形にした『スター・ウォーズ』が、己の安らぐ内宇宙をのみ求めた『非実在の王国で』へと、徐々に変質していった物語であると、いまの自分は考えている。

 グイン・サーガを途中で脱落した人間と、最後まで面白いと思った人間との差は、ここにあるのではなかろうか。

 自分も含む、途中で内容が劣化していると感じた人間は、「栗本薫の愛」を愛していたのだ。だが最後までついていった人間は「栗本薫」を愛していた。あるいは「山田純代少女の愛」に名をつけたものが「栗本薫」だと云ってもいい。ゆえに後期の彼女を栗本薫と呼ぶことすら厭って蔑称で呼んでいたのかもしれない。

 

 話がずいぶんとずれたが、ともあれ、こうしたわけで、このレビューをはじめるにあたり、自分は今作をファンタジーとは見做さない。ジャンルは「彼女の愛」であるという姿勢で読んでいこうと思う。



 さて、そんなわけで、第一巻である。

 ストーリー的には辺境の森に逃げ延びた亡国の王子王女が、記憶喪失の戦士に出会い助けられるも敵国の追手に捕らえられ城にとじこめられるが、蛮族の襲撃によって混沌とする城から逃げ出す、というもの。

 亡国の双生児リンダとレムス、豹頭の超戦士グイン、一癖ありそうな傭兵のイシュトヴァーンと、王道の人物配置である。この巻の悪役となる黒伯爵ヴァーノンも、肌を空気にさらすと死病が蔓延するとして部下にも恐れられているという設定が面白く、このヴァーノンの末路をもって一巻目の終わりとしているなど、構成もオーソドックスである。逆を云えば、四十年近く前の作品だと考慮しても、その構成にも人物造形にも設定にも、瞠目すべき斬新さがあるとは思えない。

 だが、なぜだかやはり、この一巻は面白い。


 読むのは20年ぶりで、多分三度目だが、あまり懐かしいという感じはしない。なにせ近年、漫画版だのアニメ版だので、初期の話は目にしているからだ。

 しかし、改めて読み直すと、それらと比べても、やはり原作は抜群に面白い。むしろ中学生だった初読時より面白く感じられる。

 別に漫画版やアニメ版がダメだったとは思わない。むしろよく作っていると思う。それらに比べると、原作の展開は冗長であるとも思う。

 だが、この原作にはなんとも云えない吸引力がある。

 おそらくは、描写の巧みさのためだろう。なにげなく出てくる植物の一つ一つや動物の一匹一匹に「ここではない世界」を感じられる。それらが図鑑的に紹介されるのではなく、敵としてあらわれるのでもなく、ただ「そこに在る」。そのひとつひとつが、別に独創的だとは思わない。自然なのだ。異国の人間の日常を紹介されるように、この中原の世界が自然にそこにあるように感じられるか書き方なのだ。

 すごいのは、それでいて、読みづらさとか、入り込みづらさとかをまったく感じないことだ。グイン・サーガと同じほどかそれ以上に強固に世界観が構築されていてる作品はいくらもあるだろう。『指輪物語』などは代表的な存在だ。だが、それらの強固な世界観をもった作品のほとんどは、その強固さ故に入り込むのにこちらにも精神力を要求する。だがこの物語は、あまりにも速やかに異世界に入らせてくる。異人の目で世界を眺めさせてくる。


 大人になったいまの目で見ると、子供のころに思っていたよりは文章は重くなく、むしろ軽い。雑な部分も見受けられる。後に何度も突っ込まれるように設定もガバガバゆるゆるだ。グインの豹頭の下に素顔があるっぽい描写の数々はもちろんのこと、二時間をあらわす単位「ザン」が、この時点では一分をあらわす意味で使われているなど、改めて見ると本当にガバガバである。そもそもこの巻の中ですら前半はパロスだったのが後半からパロになっていたりと、曖昧すぎる。なぜ改訂版ですら直そうとしないのか薫の素考えることはいまいちわからんとも思う。


 だが、そういう瑕疵の数々をもってすら問題にならぬほど、この作品は魅力的だ。この世界をもっと知りたいと思ってしまう。それが未完に終わるとわかっていてもだ。

 正直、一巻目にして「これレビューするの無理でしょ……」と思ってしまった。客観的に云って、別に設定も文章もキャラクターも、べた褒めするほどすごいとは思えないからだ。むしろその気になればいくらでもけなせる、隙の多い作品だと思う。

 それでも魅力的なのはなぜか、と問われると、結局、この作品が「彼女の愛そのもの」だからだ、というスピリチュアルな言葉しか出てこない。他の人の手によるグイン作品が、それぞれ技術にせよ手間にせよ十分に尽くされているのに原作と根本的に違って見えるのは、そこなのだろう。


 グイン・サーガは、古臭く、陳腐で、設定もガバガバで、展開もありきたりで――それでもやっぱり最高なのだ。

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