004 真夜中の天使 上・下

79.09/文藝春秋

82.07~09/文春文庫


【評】うな


● 全てはここからはじまった(のか?)


 あやうい美少年である今西良が、そのマネージャー滝俊介に見出され、なかば強引に売り出されていく過程と、その間にある心理劇を描いた長編作品。

 絢爛で虚飾にまみれた芸能界と、その芸能界でこそ輝く今西良という美青年をじっくりと描き、その良をなかば力づくで操りながらも、焦燥感にかられ葛藤し暴走し、気がつけば操られるようになっていく滝の、二人のパワーゲームを丁寧に描いている。

 

 元祖JUNE小説、BL小説として名高い本作だが、実際に男×男のSEXシーンなどは、この単行本で二冊、文庫本で三冊にもなるクソ長い小説のほんの一部、それこそワンシーンしかない。が、滝の視点を中心に、力なき玩具であったはずの少年にすこしずつ翻弄されていく姿を描いた今作は、紛れもなく少年愛(といっても今西良はそんなに若くはない設定だが)の作品と云っていいだろう。


 今作と同じ『真夜中の天使』の名を冠する作品は、実は三作ある。いずれも後の項で語る『翼あるもの』と『真夜中の鎮魂歌』の原題がそれだ。主人公が同じ今西良であるだけでなく、この三作は作られる契機を同じくしている。栗本薫ファンには周知の事実であるが、その契機とは一九七五年にTBSで放送されたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』だ。

 『悪魔のようなあいつ』は一九六八年に起きたかの有名な三億円強奪事件を題材にしたドラマだ。三億円事件の犯人である主人公の青年と、その主人公をいたぶりながらかくまう元刑事を中心に、男女を問わずホイホイと誘惑する主人公の痴情のもつれとその果ての破滅を描いた、夜の十時に放送されていたとはとても信じられぬようなデカダンなドラマである。

 このドラマを観たうら若き栗本薫――というよりも本名・山田純代嬢はすっかりこのドラマと、主演の沢田研二および藤竜也にいかれてしまった。そしてビデオのないその時代に、なんとかこのドラマの空気を身の回りに留めておきたいと、自分の小説で再現したのが『真夜中の天使』『翼あるもの』『真夜中の鎮魂歌』の三作なのだ。

 三作は元々原題は同じ『真夜中の天使』だったのだが、はじめに『真夜中の天使』が出版されたため、同じタイトルで出版するわけにもいかず、後の二作は出版時に改めて現在のタイトルを与えられた、というわけだ。


 さて、いきなり出オチで申し訳ないが、こうした別の創作物の設定や実在の人物をもとに創作することをなんと呼ぶかというと、二次創作とかアニパロとかナマモノ同人という。

 今作がJUNEという雑誌の礎となった一作であり、BLの起源の一つであるのは間違いないだろう。そのオリジナル性を栗本薫は誇っていたものだが、しかし少年愛をテーマとした作品は、今作に先んじてすでに少女漫画界では確立されつつあった。

 云わずと知れた竹宮恵子の『風と木の詩』や萩尾望都の『トーマの心臓』『ポーの一族』などのいわゆる二十四年組による諸作品だ。これらの作品は早いものでは七二年から描きはじめられており、『真夜中の天使』が出版されたのが七九年であることを考えると、栗本薫は先駆者の一人ではあるが、決して起源とは云い得ない。

 だが、おそらく栗本薫自身にとっては不本意な定義において、まぎれもなく彼女は起源であったと云えるだろう。なんの? と云ってしまえば簡単だ。先にも云ったとおり、今作はストーリーこそオリジナルのものではあるが、そのキャラクターの設定や外見イメージは既存のドラマ『悪魔のようなあいつ』をベースにしたものであり、れっきとした二次創作、現代の同人誌即売会などのジャンルに則して云うところの、実在の人物を題材にしたホモ創作=ナマモノ同人というジャンルに他ならない。

 二次創作が、その中でもよりによって実在の人物が関わっているだけにもっとも扱いが難しいナマモノ同人が、あのお堅い文藝春秋社から、江戸川乱歩賞を受賞した作家から、一般小説として発売されてしまったのである。これはBLの浸透した現代でも、というか現代ではなおさら有り得ない、端境期におきた出版界の椿事にして珍事であると云って間違いない。

 奇しくも中島梓自身が数々のエッセイで語っているように、この時代の腐女子たちは、萌えネタを見つけるのに大変だった。二十四年組の諸作品こそあったが、それもまだ数は少なく、漫画であるという一点において軽んじられていた風潮もあった。そんな中で文学作品の中から三島由紀夫の『仮面の告白』をこそこそと読み、森茉莉の『枯葉の寝床』を見つけ出して歓喜した、そういう時代のことだ。

 その中で、こんな小説が出てきてしまったのだから、それはもう作品内容とは関係ない部分でエポックメイキングではあったろう。

 自分には好きな小説家はたくさんいるが、その中でも栗本薫と筒井康隆は別格の、それこそ神と呼んでもいいほどの尊敬(と憎愛)を捧げている。なぜこの二人なのかというとそれは「こんなものを書いてもいいんだ」という衝撃を受けたからにほかならない。特に栗本薫に関しては「こんな私的でみみっちくて自分勝手な己の感情や傷を主張していいのか」と、明確な言葉にして思ったわけではないが、そういった衝撃と感動を受けた。とは云えこのあたりのことは、今作において思ったことではないので、後の項に譲っておいおい書いていく。


 ともあれ、今作はそういう意味において衝撃だった。まあわけしり顔で書いていても、自分は今作が出版された当時、まさに生まれたばかりであって、リアルタイムでこのあたりの空気を感じたわけでもないし詳しい事情をしっているわけでもない。ただ、やはりその後の出版界・BL界をふり返っても、ナマモノ同人が一般小説として堂々と売り出されたという話は、寡聞にして聞いたことがない。

 また、漫画界においては花開きつつあった少年愛の文化は、文学界においては森茉莉が一人勝手に狂い咲きした(そして自身の本当のテーマである父と娘に収束していった)他は、今作の登場まで花開くはおろかつぼみしかなかったと云っていい。

 そこを栗本薫が「小説でもOK」という可能性を、よりによってナマモノ同人というかなりのキワモノで切り開いてしまったのだから、人跡未踏の地に手ぶらでわっさわっさと入りこんでいったようなものだ。「マジで? そこまでOKなの?」とびびりながらついていくしかないではないか。

 そして技術が必要な漫画とは違い、小説は誰にでも書ける。いや、これは大いなる誤解で小説を書くにもいろいろ技術は必要なのだが、素人目に見ている分には漫画よりもハードルが低そうに見える。なにせ日本語が書けてそこに紙とペンがあれば、とりあえずはそれっぽいものが書けるわけだから、うっかり書いてしまう可能性が高い。

 この後、栗本薫はJUNEという「危険な愛に目覚めて」な少年愛雑誌を牽引する大きな力となったわけだが、その代表的実作としてこの『真夜中の天使』の存在が、大いなる道標、人々を目覚めさせたモノリスとなったことは間違いない。

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