001 文学の輪郭


1978.09/講談社

1985.10/講談社文庫

1992.05/ちくま文庫

<電子書籍> 有 


【評】うな



● 若き俊才の鮮烈なるデビュー評論本



 文学評論集。

 中島梓名義での初単行本。栗本薫名義でのデビュー作『ぼくらの時代』と同日に刊行された。



 単行本発売こそ同日であるが、栗本薫/中島梓という二つの顔を持つ文章家は、評論家・中島梓として先に世に出ることになった。

 一九七六年に筒井康隆『パロディの起源と進化』が別冊新評『筒井康隆の世界』掲載され商業誌デビュー。

 続いて翌七七年 『都筑道夫の生活と推理』で第2回幻影城新人賞評論部門佳作を受賞。

 さらに同年『文学の輪郭』で第20回群像新人文学賞評論部門を受賞。以後、『群像』誌上において一年三ヶ月にわたり四編の評論を発表。それらを単行本にまとめたものが本書になる。

 単行本には三田誠広氏との対談が掲載されていたが、文庫版に際して削除。代わりにあとがきとして『《ロマン革命》序説』が追加されており、本レビューは文庫版に対するものとなっている。


『文学の輪郭』

「文学は、どこへ行くのだろう――」という一文から始まる本論は、埴谷雄高『死霊』と村上龍『限りなく透明に近いブルー』を「文学の北限と南限」であるとする解説を丹念にし、その上でつかこうへい『小説熱海殺人事件』を文学の外部からやってきたものとして、文学の輪郭を語ろうとする論。


『表現の変容』

 前論に引き続きつかこうへいの戯曲などを中心に、「ドラマを演じる」ことを意識せざるを得なくなった時代の表現の変容をやパロディの意味を『こまわりくん』などを例に挙げつつ論じている。


『個人的な問題』

 ふたたび村上龍を、同時代の作家である三田誠広と対比して「語り終えられたのちに語りはじめられる文学のかたち」についての論。


『文学の時代』

 大江健三郎の諸作品や島尾敏雄『死の棘』を語り、やがて西村寿行にまで行き着く、本書の総論とも云える文学論。



 本書を読むのは、ファンとなった中学生時代、ネット上に栗本薫作品のレビューを残そうと思った約十年前、そしていい歳こいたおっさんとなってしまった現在で、三度目となる。

 三回に通じる率直な感想は。

「かっちょええ~~~でも意味わかんねえ~~~」である。

 最初の著作の時点でわえんねえとか云ってる奴が作家のなにを論じるのかという意見も上がりそうなものだが、いや、だってわかんないんだもん! 梓、わざとわかりにくく書いてるんだもん! 一文を必要以上に長くして主語と述語を離してあいだにやたらと代名詞を入れて、混乱させてくるんだもん! わかるか! こんなもん!


 いやまあ、一応おっさんになるにつれて理解度は上がってはいるんだけどさ……でもこれは「まだ中島梓の文章ではない」よ。

 栗本薫/中島梓という作家は、文体模倣の人だ。膨大な読書量からそのジャンルに合わせた文体を学び、マスターし、必要に応じてそれを使い分けることのできる、紙上役者のような人なのだ。無論、多くの作家はそうしてジャンルや書く場所によってある程度は書き口を変容させていくものだが、彼女の場合は文体に依存する度合いが極めて高い稀有な作家なのだ。要するに、「そのジャンルのプロパーに過大評価されそうな文体で書くのがやたら上手い」のである。そして中身をじっくり検分させてもらおうと本腰入れて取り掛かると外見に比べてありきたりなのでマニアに見向きされなくなる、というのが彼女の作品が辿っていく道なわけだが、それはまた後の話。

 ともあれ、この傾向は若いときほど顕著であるため、初単行本となる本書ではもう全開で文体により装飾されており、ことに受賞作である『文学の輪郭』はやりすぎの感に満ち満ちている。

 多種多様な作品と、その一文を当意即妙に例に挙げる博覧強記ぶりと、「ではそれはどのような意味をもつのか? 何一つないのだ」という痺れる言葉の強さ。小説家としての才覚を存分に発揮した多彩な比喩表現による物事の強調。いずれもが力強く、またうまい具合に煙に巻き、「馬鹿だからよくわからないけどきっと正しいことを云っているのだろう」と納得してしまうものがある。二十代前半の女性がこれを書いたのだと思うと、この俊才がどこまで伸びるのか見てみたくなるに決まっており、受賞は必然であったと云える。

 

 だが、これは『ぼくらの時代』が小説家としてデビューするために書かれたものであるというのと同じ意味で、評論家として評価されるために書かれたものだったのではなかろうか。

 大胆に云ってしまえば、これは文学評論というよりは「文芸評論家を紙上で演じた小説」のように、自分の目には映る。もちろん、題に挙げられている作品をあまり読んでいない自分の無知や浅学もあれば、そもそもこの時代にまだ生まれていないがゆえの時代感覚の欠如もある。それに読んでいてなるほどと唸らされる部分だっていくつもあった。だが根底には、評論家ぶろうとする若き女史の、肩肘を張った必死な姿が見える。

 それは発表より八年後に書かれた文庫本書き下ろしのあとがき『《ロマン革命》序論』の、本文において存在していた堅苦しさが消え、ずっと闊達な、しかし鋭さの衰えていない中島梓として完成された文章と読み比べることによってより明確となる。


 そもそもこの『《ロマン革命》序論』において、本書が小説家として世に出る前の準備として読者の目線で文学を語ったものであり、物語作家となったいまでは文学評論家では有り得ない、と自身を語っている。実際、この文庫版の出た八五年の後、巻末解説や雑誌掲載での小さな論がまとめられたことはあれど、本書のような長い文学評論はものされていない。

 そしてドラマツルギーの重要性、物語欲とでも呼ぶべき人の本能について触れているこの『《ロマン革命》序論』こそが中島梓/栗本薫の語るべき本来のことであり、それは後にロマン革命本論である『わが心のフラッシュマン ―ロマン革命PART 1―』という本によって一つの完成を見ている。

 この『文学の輪郭』という本は、何者でもない少女であった彼女がロマン革命を語るにいたるための肉体・精神双方の準備を整えるのに必要な準備であり、四十年が経とうとするいま読むべきは本書ではなく『わが心のフラッシュマン ―ロマン革命PART 1―』であると、自分は思っている。


 しかし、二〇一六年現在入手しやすいのはデビュー作ということで比較的語られることが多く、電子書籍化もされている本書であり、その題材と中島梓らしすぎる語り口により特撮マニアに蛇蝎のごとく嫌われている『わが心のフラッシュマン ―ロマン革命PART 1―』は電子書籍化もされておらず、なぜかトンデモ本のカテゴリで語られがちなのが遺憾である。が、この件に関しての詳細は後の項に譲ることにする。

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