妖艶纏う鬼姫と亜人


 浅い霧がかった人が目覚めぬ早朝。薄暗い明るさを保った空は肌を突き刺す寒気を増長させる。鶏が鳴くような田舎ではない変わりに、電柱に止まった鳥が鳴いていた。

 その鳥が二メートル近い大きさでなければ、昨日の事が夢だったと笑えるのに。


「まぁ、夢なわきゃねぇよなァ……っと!」


 現実は何時だって優しくはない。

 地球から迷い込んだ青年――立浪一騎は、そんな早朝に一人でスクワットをしていた。

 場所はユキヒメの家である“民宿 白雪”の敷地内の庭。透き通った池と苔生した岩が置いてある庭はそれなりの広さがあり、軽い運動には最適だ。


「ちょっとはっ。身体を動かさねぇとっ。落ち着かねぇっと! ふぅ………さっきからマジの運動してんだけどなぁっ……」


 身体を軽く解し、首を回す。空がまだ暗闇で、夜空に三つの月が光っていた時間からスクワットをやっている。恐らくは一時間くらいだろうか。だと言うのに


「全ッッッ然、疲れねぇ」


 脚を伸ばし、手首を回す。

 おかしい。不思議なんて話じゃない。大凡、疲れて脚が重くなる程の運動をした筈なのに、疲労感がまるでない。普段なら息を荒く見出して水をかぶのみしている頃合だ。


「……やっぱ身体能力が上がってんのかね……異世界に来たからってんな不思議発見みてぇなの本当に起こんのかよ……試してみるか? ちょっと怖ぇんだけどな……」


 手を解し――息を浅く吐く。

 身体を真っ直ぐと起こし、一騎は身体を揺らした。それはリズムを刻み。小さく。段々と大きく。脚を軽く開き。身体を曲げて。

 拳は顔の前。リズムを変える。脚のステップを辞め、上半身を左右に揺らすリズムを刻む。

 一、二。

 一、二。

 一、二。

  鍛錬を積み重ねた動きは自然と空想の敵を作り出し、その敵の懐に潜り込むように身体は動く。


「――シッ」


 身体を捻り、右拳を引く。素早く、そして丁寧に。

 先ずは腹。

 描く己のイメージは溝を真っ直ぐと貫く拳。肩を回し、腰を捻り、脚は大地を踏み抜き――


「なに踊っているんですか?」

「っと!?」


 聞こえてきた透き通るハスキーボイスに拳を無理矢理止めた。

 それがいけなかった。

 

「あら?」

「と、とっととっ!? おっ、おぉッ!?」


 振り抜きそうになった右リバーの勢いが想像より強かったのか。自身の体勢が見事に崩れつんのめる一騎は、まるでケンケンのように片足で前に進み、目の前にあった見事に冷たそうな池へと、


「あらぁあぁあぁー!?」


 どこぞの大泥棒のような悲鳴を上げ、身体を突っ込ませた。

 水飛沫と眠気を一発で覚ます冷水が頭から被った一騎は、唖然と声を掛けてきた美しき女性――ユキヒメを見つめ返す。


「………」

「……へ、へへっ?」


 彼女は呆れた顔で腕を組み、此方を見下ろしていた。そんな空気を誤魔化すように笑い、


「……ちょっと朝風呂気分なんすけど……」


 そう言い返す。


「……入ってきなさい。直ぐに朝食にしますよ」


 彼女の表情は、やはり呆れた微笑だった。


 朝風呂を手早く済ませた一騎に待っていたのは、ユキヒメお手製の朝食。

 トーストに卵焼きとソーセージ。

 見事に慣れ親しんだ普通の異世界料理を食べ終わった一騎は牛乳を飲みながらユキヒメ達と会話をしていた。


「あ? ユキヒメさん達、仕事してるんすか」

「してるに決まってるでしょう……これでも軍属の魔術師ですよ、私は」

「ユキヒメさんって軍人なんすね。まぁ、あの力なら納得しますけど……」

「私もユキちゃんと同じ軍人なんだよ?」

「アイシスさんもッ!? ウソだろッ!?」

「ウソじゃないよっ? 本当に本当に軍属の魔術師なんだからねっ。まぁ、昔と違って、医療班に勤めてるから闘いとは無縁だけど……」

「軍人、と一概に言っても、私達は独立した特殊部隊である“狩り人”ですから。正式に軍人と言うのも違いますけどね」


 “狩り人”。

 この二日間で何回か聞いた単語だ。ユキヒメの口振りからすると、魔術師の特殊部隊。所謂、軍人の名称だとは想うが、実態は分からない。

 そもそも、一騎が知るアニメや漫画では魔術師はギルドなどに所属する傭兵的立ち位置が一般的だが。近未来の異世界だと、魔術師も国家に管理される立場なのだろうか。

 まぁ、どちらにしろ一騎にはあまり関係はない。残ったトーストを卵焼きと同時に頬張り、牛乳で流し込むと口を開く。


「留守番してるだけってのも悪いっすから、雑用でもやって待ってるっすよ。なんかやる事あります?」

「そうですね……では買い物を幾つか頼んでも良いですか?」

「うっす。そんくらいは任せて下さいっす。通貨とかも昨日教えて貰いやしたし、大丈夫っす」


 異世界の通貨は勿論、地球とは違う。一騎の換算で考えると、日本円の約百二十円程度が此方の百円。円ではなく、ミノと言う単位だ。


「では後でメモに書いて置いておきます。お金も少し多めに渡しますから、それで昼食も食べてきなさい」

「い、いやいや。昼食くらい抜いても平気っすよ。世話なりっぱなしなのに余分な金なんて…」

「良いから受け取りなさい。父が帰ってくるまで一週間もあるのですから、一日中、自宅に引き籠もってるのもつまらないでしょう」

「でも……」

「じゃ、じゃあ、お姉ちゃんもお小遣いあげるよっ! あげちゃうよっ! 序でに観光とかしてみると良いよ? ダスクリア王国は技術大国だから、珍しい物も沢山あるし、ね?」

「いや、だから。マジで大丈夫っすよ!? 家に泊めて貰って、更に金まで貰うなんて…」


 これ以上、世話になる訳にはいかない。

 彼女達は自分の命の恩人で、しかも寝床や食事、衣服まで面倒を見て貰っている立場。頭が上がらないなんて話じゃない自分として、小遣いなど貰う訳にはいかない。



 だが、結局。

 首を振り、必死に断る一騎だったが、年上の姐さん達の説得に敵うことは絶対になかった。



◆◆◆



「あぁ、クソ……あの人達にどうやって恩返しすりゃ良いんだよ。我ながら情けねぇな……」


 人が賑やかに行き交い、市場や露店がざわめき立ち人々の笑顔が溢れる晴天の昼時。

 翡翠の羽織を着込んだ一騎は、黒財布を片手に一人項垂れながら道を歩いていた。半場、押し付けられる形で余分にお金を渡された一騎は、街を見てこいとユキヒメに家を追い出されていた。

 しかも、一騎の考えを見透かしたように、金を使い切るまで家には入れないと注意されて、だ。


「えぇっと、一ミノが約百円だろ。十七ミノで、一ガルだったから……一ガル、千七百円。渡されたのが十ガル……一万七千っ!? マジかよ……本当に申し訳ねぇくらい渡されたな……」


 買い物事態には、此処、ダスクリア王国の物価が高くないお陰でニガルもあれば事足りる。つまり、残りは八ガル。約一万四千円だ。

 贅沢をしても一日で使うには多すぎる。そもそも、今の自分に贅沢をする権利などありはしないのに。


「……ユキヒメさん達に恩返しのプレゼントを買うか? いやでも、元はユキヒメさん達の金だしなァ……これでプレゼント買うのも変だろ……ハァ。マジでどうすっかねぇ」


 金を使い切らないと、あの人達は納得しない。アイシスの性格を考えると、更にお小遣いと称して渡される事も有り得る。かと言って、自分の為にこの金を好きに使うのは、自分が許せない。

 何か上手い使い方は無い物か。頭を悩ませながら市場を見渡すが、思い付く案はない。


「お母さん、お菓子買ってっ!」

「あ?」


 ふと聞こえてきた声に目を向けると、其処には御菓子等を販売する露店の前で駄々をこねる子供が居た。タダの子供ではない。

 亜人・・だ。

 背中には黒い鳥の翼を生やしている。言ってしまえば、それだけなのだが。


「これが良いの? 今日は、一個しか買っちゃダメなんだよ?」

「これが良いっ! あの赤い奴っ!」

「そう? じゃあ、良いわ。ごめんなさい、お嬢さん。それ、一個幾らかしら?」


 別段、気になった訳では無いが、その姿をただ見つめていると、露店を開いていた店の主人に目が牽かれた。


「――ええよ、タダで」


 肩までの艶やかな黒髪。一騎に並ぶほど、女性には珍しい高身長ながら、着込む着物のような民族衣装が妙な色っぽさを醸し出す。容姿から醸し出される妖艶な雰囲気を打ち壊すような人懐っこい笑み。大人染みた端整な顔立ちに、額から生える二本の黒赤い角。目元や口に塗られた赤化粧。


「(鬼……? 鳥とか犬とかの獣じゃなくて、ああ言う亜人もいんのか。はぁん……)」


 犬耳や狸尻尾、はたまた二足歩行の猫などちらほらと見掛けたが、あの娘のように鬼といったり抽象的、妖怪などに分類される亜人は初めて見た。亜人の中でも珍しい人種なのだろう。


「タダ? そんな、払いますよ? 手の込んだ御菓子ですし……」

「ええのええの! 構へんよ。元々、趣味で作ったモンを売ってるだけやし、宿代も稼いでるからなぁ。まぁ、在庫整理みたいなモンやわぁ。ほれ、あげるわ」


 鬼の彼女は甘い匂いを漂わせる赤く丸い野球ボールサイズの御菓子を長く綺麗な指で掴むと、子供に差し出す。


「良いの!?」


 差し出された亜人の子供は嬉しそうに笑う。そんな子に、彼女は優しく微笑みを返した。


「ええよぉ。そんかわり、ちゃんと食べてぇな?」

「うんっ!」

「ならええ、持っていきっ!」

「やった!! ありがとう、お姉ちゃんっ!」


 微笑ましい光景を覗き見てた一騎も、子供の笑顔に釣られた小さな笑みをこぼす。子供は両手に御菓子を抱えたまま、何故か走り出し、辺りを駆け回った。


「こら、走らないのっ! ……ごめんなさいね、お嬢さん。お金、やっぱり払うわよ?」

「ええの、ええの。お金の変わりと言ったらアレなんやけど、一個聞きたい事があってなぁ、ちょいと聞かせてくれん?」

「聞きたい事…?」


 其処で目線を逸らした。何時までも観ているのは流石に悪いだろう。

 喜びをそのまま表すように駆け回る子供を横目に、一騎は肌寒さを誤魔化す様にポケットへ手を突っ込むと当てもない歩みを再開する。


「(俺にも菓子貰って笑ってる時期があったかね……ねぇな。菓子より金貰って笑うクソガキだったか)」


 自分の過去を美化しても、菓子で喜ぶ子供ではなかった。それに、記憶に残る一騎の母親も菓子より小遣いを渡して好きに買えと放任する母親だった。

 

「うわっ!?」

「痛っ……」


 先程の子供の声が再び聞こえる。今度は笑っている声ではない、同時に倒れる音も聞こえた。また釣られるように目を向けると、其処には一人の男性と、御菓子を地面に落として尻餅を付く亜人の子供。状況から察するに子供が男性にぶつかったのか。


「あ……ご、ごめんなさい……」

「いやいや、気にしな……あ? なんだ、浸食者イロウシェンのガキかよ……」


 男性に子供ながら頭を下げる亜人の子。

 それに対し、人間の大人である男性の様子が少しおかしかった。思わず脚を止め、再び子供に目を向ける。


「ショウヤっ!? あぁ、すいません! うちの子がっ……」


 子供の母親が慌てて駆け付け、尻餅を付いている子供を庇うように立つと、必死に頭を下げる。どうにも、様子が変だ。確かにぶつかったことに謝るのは普通なのだが。


「――チッ」


 母親の必要以上に怯えた表情。男性の親子を見る目。周りの野次馬たちの反応。

 まるで異物を見るような、人間ではない化け物を区別する、どす黒い感情が隠った深い瞳。それは人に向ける物ではない。

 アレは。自分が試合のたびに相手から受けていた視線。


「……テメェのガキくらい見れねぇのかよ、浸食者ってのはッ!!」


 殺意の意思・・・・・・


 何事かとざわめき出す人混み。


浸食者イロウシェンか……だからあんなの…」

「また彼奴らだよ。いい加減、国から追い出し…」


 その人混みの中でも、子供を心配する声と、子供を侮辱する声が混ざっていた。


 なんだこれは?


 小さな子供に向ける瞳でも、子供に言う言葉でもない。態々聞こえるように馬鹿にして、消えろだの、男性を庇う声すら聞こえてくる。


「す、すいません。私の不注意で…」

「テメェのガキに服が汚されてんだよ、あぁ? どうすんだよ、なぁ?」

「弁償致しますので、あの…」 

「弁償ですまねぇんだよ――化け物がッ!!」


 ついに、その一言を男性は怒鳴る。

 このままでは殴られても不思議ではない様子だ。だと言うのに、誰も動こうとしない。皆が静観の立場だ。関わりたくないと目を背け、暴力を振るわれそうになっている女性と子供を見捨てる者ばかりだ。


「……あ?」


 ぞわりと発した怒気は自分の周りにいた野次馬たちを遠ざける。

 ふつふつと沸き立つ胸に渦巻く怒りをそのままに、無意識に握り締めた拳がまるで乾いた縄を締めるような音が響く。

 誰一人として動こうとしない現状に、脚が動く。

 声を荒げようとした、その瞬間。


「子に向かって化け物はあらへんやろ。お前さん、常識ちゅうのがかけとるんやない?」

「あぁっ!?」


 彼女が先に動く。

 何時の間にか露店から出て来た鬼の彼女は、まるで鬼のような形相の男性の前に何の躊躇もなく出ると、妖艶さを感じさせる笑みを浮かべる。


「喧嘩したいんやったら、余所でやりなはれや。大の大人が子供相手にみっともない……」

「んだと……ッ」

「正論じゃけぇ。露店市場で客逃げるような事する己がどれだけ非常識か分かっとるんか? ハッキリ言ったろうか。お前さん、邪魔や。いね。打ち転がすぞ」


 手を振るい、どっか行けと堂々とした態度で言う。


「テメェッ……ッ!」


 だが、アレでは火に油を注ぐような物。唯でさえ冷静でない男性が、あの様に言われれば手が上がるのも当たり前。相対するのは成人男性と高身長といえど女性。

 握られた拳がゆっくりと上がり――


「喧嘩すんなら俺とやろうぜ」 


 ――立浪一騎はその腕を掴んだ。


「は? なんだ、テ……ひっ…」

「喧嘩してぇんだろ。良いじゃねぇか。俺も混ぜろよ。最近、色々有り過ぎてこちとらイライラしてんだよ……なぁ? 殴って良いからよ、殴らせろよ」


 振り向いた男性が瞬間的に怒りから恐怖へと表情を染めた。

 当然か。

 彼の腕を掴み、見下ろすのは身長百九十近く、筋肉質の大男。それに加え、鋭い吊り目に、顔には深い傷跡。誰が見ても鍛えていると丸わかりな男。それに加え、ユキヒメ達の反応で鈍っていたが。


「あ……あ、の……」

「あ? 女ぁ殴るより俺を殴る方が楽だろ」


 この青年、致命的なまでに悪人面で恐ろしく怖い。

 

「い……いや、あの……喧嘩は、その……」

「やんのか? やらねぇのか?」

「えっと……うわっ!?」


 腕を引っ張り、男の額に顔を近付けて笑みを吊り上げた。自身が誇る、最高に良い笑顔で、


「――ハッキリしろや」


 言い放った。


「す、すいませんでしたァッ!!」


 男は一騎の手を振り払うと、ゴミ箱にぶつかりながら世話しなく走り逃げていく。その情け無い男の背中を横目で睨んだまま、舌打ちをした。


「チッ……何処の世界だろうと、ああ言うつまらねぇ奴はいんだな……一発くれぇぶん殴れやぁ良かったか」


 吐き捨て、ざわめき立つ野次馬の連中を一睨み。荒事に関わりたくない者達はその瞳を怯えたのか、蜘蛛の子を散らすように早々と逃げていく。


「あ、あの……」

「あ?」


 後ろからかけられた声に振り向くと、騒動に巻き込まれていた母親が戸惑った顔で立っていた。向こうからすればさらに厄介そうな男が出てきたものだ。


「お、そうだそうだ。大丈夫っすか、姉さん? なんか偉い絡まれてたっすけど」


 安心させるように笑みで表情を変え、言う。

 そんな自分に安心したのか、母親は少し落ち着いた表情で頭を下げだす。


「は、はいっ。すいません、助けて貰ってしまって…」

「良いっすよ、別に。大したことしてねぇっすし……ぶっちゃけ一発殴りてぇのは本音だし……まぁ、いいや。ガキンチョも大丈夫か?」


 まだ尻餅を付いている子供に目線を合わせしゃがみ込むと、一騎はさっきとは打って変わって人懐っこい笑みを浮かべて言う。

 

「う、うん……」

「なら良かったな。ほれ、何時までも座ってると汚れんぞ」

「わっ!」


 子供の脇を抱え立たせると、頭を軽く撫で立ち上がる。近付いて分かったが、まだ膝下にも及ばない幼さだ。この子に強気で怒鳴り散らしていたなど。過ぎたことといえ、ぶん殴れば良かったと内心で愚痴る。


「……ん?」


 子供を撫でていて気付く。自分の足下に赤い御菓子が落ちて崩れていることに。

 お菓子か。自分からすれば、お菓子程度と想うが、子供にしてみれば一時の宝だ。それが数百円といえど、その時ばかりは輝く宝石と同じようなもの。


「……よし。なぁ、鬼の嬢ちゃん」

「ん。うち?」

「これ、金な」

「は?」


 徐に黒財布から金を取ると、鬼の彼女に握らせる。呆ける彼女をそのままに、一騎はまた子供に目線を合わせると、口を開いた。


「なぁ、兄ちゃんな。お菓子喰いてぇんだ」

「兄ちゃんが? 大人なのに?」


 不思議そうな顔で首を傾げる子供に頷き返す。


「大人だって喰いてぇ時があんだよ。菓子って甘くて美味いだろ?」

「う、うん……」

「でも兄ちゃん。美味いお菓子知らねぇんだ。お前が選んでくれねぇか? 同じ奴買ってやるからよ」

「え……本当!?」


 何の疑問も抱かず、嬉しそうに笑う子供に笑みを返す。


「おう。嘘じゃねぇ。ほらっ」

「わっ!!」


 片手で子供を軽々と抱き上げると、屋台の前まで向かう。色々取り取りのお菓子に、甘い匂い。デザートに興味がない一騎でも確かに美味そうだと感じるお菓子だ。どれも見たことがないのは当たり前か。ここは地球ではない。


「あ、あの。そんな、悪いですよ!?」


 そんな一騎の行動に予想が付いたのか、母親が慌てて一騎を止める。


「良いっすよ。ほら、坊主。何が美味いんだ?」

「あの赤い奴。マメルってチョコなんだよっ!」 

「ハッ、チョコか。そうだな、チョコは美味いよな。じゃあこれだ。選んでくれた礼に二つやるよ」

「本当にっ!? やったっ!!」


 たった数百円にこれだけ嬉しそうに笑ってくれるなら、良い金の使い方だろう。赤い御菓子を手に取り、子供に手渡す。子供は一騎の腕からいきなり飛び降りると、笑顔のまま母親の元に走って行く。


「お母さん、兄ちゃんが菓子買ってくれたよっ!」

「ショウヤ……あの、お金を」

「いらねぇっすよ。それよか、速く此処離れた方が良いっすよ。また彼奴が戻ってくるかも知れねぇし」


 財布を取り出しお金を払おうとする母親を手で制して止める。金が欲しくてやった訳じゃ無い。鬱憤晴らし八割と、男が気に食わなかったのが二割だ。

 ぶっきらぼうに言う一騎にどうあっても礼は受け取らないと分かったのか、母親は申し訳なさそうに財布をしまい、頭を下げる。


「……いえ。あの、本当にありがとうございます。助けて貰って、何のお礼も出来ずに……」

「兄ちゃん、ありがとうございますっ!」

「おう。次は落とすなよ」

「本当にありがとうございました……ショウヤ、行くわよ」

「うんっ! またね、兄ちゃん!」


 何度も頭を下げながら去って行く母親と、笑顔で手を振る子供に軽く手を上げ返す。数秒もすると、二人の背が人混みに隠れ見えなくなった。市場は先程の荒事が無かったように活気が戻る。都会ならではの切り替えは地球も異世界も変わらないのか。


「……さてと、何処行くかねぇ」


 後頭部を搔き、手に持った赤い御菓子を一口で食べるとまた宛てもない歩みを始めて、


「――ちょい待ち、兄さん」

「うおぉっ!?」


 袖首を捕まれる。

 引っ張られるように、首を小さな手に回され視線を無理矢理下げさせられると、其処に立っていたのは鬼の彼女。

 口に入ったチョコを飲み込み、戸惑った視線を向けた。


「……な、なんすか?」

「なんすか、じゃ、あらへんやろ。お・か・ね。お金や、お金。なに満足げに帰ろうとしてはるん」


 仕方なさそうな苦笑と共に大人びた雰囲気を持つ少女は、袖首をゆっくりと離して一騎が渡したお金を差し出してくる。


「足りねぇの?」

「逆や、逆。多すぎじゃけ。うちの作った菓子を高級やと勘違いしとるんか? 十ガル札ってな……兄さんが食べたお菓子は一ミノやぞ。何十倍多く払ってんねん」

「別に足りてんなら良いだろ」

「ぜんっぜん良くなぁぁぁい」

「……あれだ、臨時ボーナス。やったぁっ!」

「やったぁ、臨時ボーナスやぁっ!! ってアホかっ!!」

「一応は乗るんだな……」

「ええから、ゴタゴタ言わずに受け取りぃ。元々、菓子代は貰うつもりないんや。金はいらん」


 ぐっと押し出してくるお札を一目見て、一騎は押し返す。しかし、払った手前がある上、その金は自分の為に使うつもりが無かった物。自分より、彼女が持っていた方が使い道がある。


「いらん。俺が使うには相応しくねぇ金なんだよ」

「……強盗ならうちと出頭しよか」

「誰が強盗なんかするかっ!?」

「じゃあ、自分が使えんで人にあげられる金ってなんや。寧ろ聞きたいくらいや」


 確かに、大金とは呼べないが人に無償であげる金額でもないお金を渡されれば、不審がるのも仕方が無いのか。

 

「……色々事情があんだよ」

「……闇金?」

「危ねぇ金じゃねぇよッ!! ……じゃあ、アレだ。金やる変わりに教えて欲しいことがあんだけどよ。それでチャラにしようぜ」

「教えて欲しいこと?」


 無償が駄目なら打開策。苦し紛れだが、無いよりは良いだろう。

 一騎は首で辺りを示すと口を開いた。


「この辺、観光名所とかねぇ? 夜まで暇潰ししなきゃいけねぇんだけど、国のこと全然知らねぇからよ」

「観光名所? ダスクリアなら仰山あるやろ。国を覆ってるバリア、天使の翼エンドゥルとか。魔力が結晶化した魔雪石とか……まぁ、一番をあげるなら、アレやろな」


 彼女が指を指したのは真横。露店ではなく、その真上。雲を突き抜けるように遙か向こうで聳え立つ四角型の巨大な建造物。


アレ・・?」

「ダスクリア王国、魔術師特種軍・総本部。“WILD DOG番犬”。狩り人の育成機関もある、訓練校兼軍基地や」

「……軍基地だ? なんだそれ」

「なんだそれって……常識やろ。各国から魔術師を目指すエリートが集められる場所や。知らん訳ない。子供ですら知っとるよ」


 魔術師学園。と簡単な話でもない。

 良く見れば、彼処は自分が最初に目覚めた病棟があった場所だ。ユキヒメもアイシスも、彼処で軍人として働いている。


「(どこぞの機関車で行く魔法学園、て訳じゃねぇよな。話を合わせるに軍学校だよな……軍人を育てる環境に合わせて、普通の軍人も働く基地みたいなモンか?)」


 鼻を鳴らして興味無さ気に返事を返し、一騎は彼女に手を上げて踵を返す。


「まぁ、良いか。ありがとよ」

「だから、待て言うとるやろ」

「ぐふっ……」


 そして、再び袖首を捕まれる。


「こんな説明で十ガルも貰えんなら誰でもやっとるわ」

「確かに」

「納得すんのかいっ!!」


 道案内で一万も貰えるなら自分だってやる。しかし。


「えぇ……もう、良いじゃねぇか。ラッキーくらいに想って受け取れよ……」

「なんで兄さんが面倒臭がるんや……逆やろ、普通……はぁ……あい分かった。ちょい店の片付け手伝ってぇな」

「あ? なんで」


 彼女は金を自分のポケットに仕舞い込むと、指抜きのレースから数珠らしき物を取り出して腕に巻く。


「これでも、“狩り人”を目指してる魔術師の端くれや。不条理なモンは納得出来ん。せやから、街を案内したるわぁ」

「案内だ? 別に店閉めてまで…」

「ええ。もう決めた。兄さんに何言われようが付き合わせるからなぁ……兄さん、名前は?」


 妖艶に微笑む彼女は、着物の袖から煙管を取り出し、口に咥える。

 どことなく一騎の母親に性格が似ている。こう言った女性は、一度決めたら、もはや梃子でも動きそうにないのを経験から良く知っている。こんなつもりではなかったのに。やはり、押しの強い女性はやはり苦手だ。

 仕方なく頭を搔き、


「立浪……立浪たつなみ一騎いっき


 名乗る。


「偽名名乗るのはいかんよ」

「偽名じゃねぇよッ!!」


 至極真面な顔で咎める彼女に真顔で見つめ返すと、彼女は煙管の煙を吹かしながらジッと一騎の顔を見つめる。 まるで次の言葉を待っているかのようだが、生憎と話すことは一騎にない。彼女は真顔から一転。


「…………………………は? ほんまに?」


 不思議そうな顔で呟く。


「……ふ、普通だろ、別に?」

「…………そ、そやな。うん。別にぶっ飛んだ名前やない……ぶっ飛んだ名前やないけど………ん、んー……ほんまに偽名やないの……?」


 戸惑いながら頷き返す。

 彼女は頬を軽く搔き、瞳を惑わせると、途端に柔和な笑みを浮かべる。優しく一騎の首を摩ってきた。


「そっかぁ。うん。うちはツバキ。ツバキ・ナミヤナ。見ての通り、鬼の亜人。まぁ、亜人ゆうても角くらいしか変わりは無いけどなぁ。まっ、ツバキと呼んでぇな」

「待って。なにその笑顔。変じゃないよなッ!? 俺の名前って普通だよなっ!?」

「大事なのは個人やとうちは想う」

「答えになってねぇっ!? 変なの!? 俺の名前変なの!?」

「可愛い名前や。うちはそう想う」

「なにそれっ!? なんでちょっと片言なんだよっ!? ねぇっ!?」


 新たに発覚した自分の問題。

 考えてみれば当たり前だ。漢字が存在しない異世界で、自分の名前は普通な訳が無い。でもどこか認められず、鬼の彼女――ツバキに詰める一騎だったが。


 結局、ツバキは優しい笑みで受け流すだけだった。



◆◆◆

 

 

「いやマジで、普通の名前だから。地元じゃ確かに珍しい苗字だったけど、マジで普通の名前だから」

「うん、うん。そやな。普通の名前や。イッ君は普通の名前や」

「本当? 本当にそう想う?」

「想わない」

「ッ!?」

「やっぱり、冷静に考えてもイッ君の名前、相当にへんや。変わってるとかやない。魔物でも、もうちょい真面な名前やわぁ」


 露店を畳んだ鬼の彼女、ツバキの荷物を肩に背負う一騎は、彼女に慰められながら道を歩いていた。大通りから外れ、人混みや住宅が薄れてきた変わりに多くなってくるのはトラックや車。脇を歩く人は数えるほどしか居ない。


「魔物の方が真面な名前かよ……流石にへこむぞ……」

「まぁ、一度聞いたら忘れられん名前やねぇ。ある意味、ええ名前って言えるんやないの? うちもなんか愛嬌を感じてきたわぁ」

「名前に愛嬌感じられてもな……つうか、これ何処に向かってんだ? 大分、人が薄れてっけどよ」

「そら、勿論。観光名所や。ちゅうか自分が観光名所いうたんやろ……まぁ、あまり観光名所ってほど、人が多い場所やないけど……アレや。もう目に見えるやろ」


 前を指す煙管に釣られ、目を向ける。

 前方の何もない空中。良く目を懲らして見てみると。


「……おっ。うっすい靄……あれ、バリアかっ!?」


 視界に捕らえたのは薄い桃色に光るドーム型の強大な壁。大国と言える此処、ダスクリア王国をすっぽりと覆おうソレは、神秘的な雰囲気すら感じさせる。ツバキは歩みを止めず、手に持った煙管でバリアを指すと口を開く。


天使の翼エンドゥル。外界に跋扈する魔物から国を護る魔力式の外壁や。他国でも見れるモンやけど、ダスクリアのは技術大国だけあって特別厚いからなぁ。他国と違って目に見えるんや」

「はぁん……あれ、魔力で造られてるんだよな?」

「んー。ちょいと違う……んやけど、まぁ、そうやねぇ、考え方は概ねあっとる」


 複雑な仕組みがあるのだろうが、魔力に関して無知蒙昧の一騎が聞いても全ては理解出来ないだろう。曖昧に頷いて返事を返す。


「そういや、ツバキも魔術師なんだよな?」

「まぁ、不甲斐ない身ではあるけども、魔術師や。魔術師いうても才能ないんやけどなぁ」

「そうなのか?」

「攻撃に関してはダメダメ。子供の方が上手いくらいや……うちは、護るしか才が無い・・・・・

「でも火とか起こせるんだろ」

「ザっっクリやなぁー……まぁ、火くらいなら起こせるけども……ちゅうか、ウチは風系統の方が得意やから」

「見せて」

「子供か」


 呆れた瞳で苦笑する。

 いや、しかし。冷静に考えてみてだ。アニメや漫画でしか存在しなえない空想上のエネルギーである魔力が実在して。更に更に、これまた空想上でしか存在しなえない魔術師なる存在が目の前に居る。しかも、その魔術師は、これまたこれまた空想上でしか存在しなえない魔術を扱えるときた。


 見てみたいのだ。物凄く。


「………そんな期待されても、大袈裟なモンは見せられんよ? あまり強い魔力を使うと、国の魔力検知に引っ掛かって逮捕されるんやから」


 期待が隠った一騎の目に負けたのか、ツバキは仕方なさそうに笑みをこぼし、着物の袖に手を突っ込む。静かに取り出したのは、精密な機械で造られた小さな両刃の短剣。

 法具に似ているが、形は機械的。ボルトなども隙間から見えていた。

 これはあれだ。


「魔術師の杖かッ」

「そないに迫真で言われても……普通の魔装具まそうぐやで」

「ま……なに?」

「なにって、魔装具まそうぐや。魔装具………」

「…………」


 魔装具、と当たり前に言われても、それが何か分からない一騎は疑問の表情をただ返す。


「………はァっ!? 知らんのっ!?」

「うおっ。なにっ? え、なに?」


 瞬間、ツバキの表情が驚愕に変わった。


「イッ君、ほんま何処に住んどったんや……? 魔装具知らんモンなんか初めてやぞ……」

「そんなに有名なモンなのか? その、魔装具って奴」

「当たり前やろ。許可がないと所持は許されんけど、テレビでも普通に見るやろ?」

「うち、テレビねぇしな。あぁいや、ユキヒメさん家にはあったけど、勝手に見るのも気が引けたし……常識なのか? 魔装具って奴?」


 誤魔化すように聞いた。苦笑いで頭を搔き、問う一騎にツバキは顎に手を添えて目線を逸らす。気まずい逸らし方ではない、何かを考えているようだった。

 彼女は横目で一騎を頭から脚までなめ回すように見つめ、少しの沈黙を保つ。


「……あい分かった。一から説明したる。うちに任せぇな」


 打って変わり、ツバキは笑みをこぼして言う。その沈黙で何を思ったか分からないが、彼女なりの答えを出したのだろう。弁解も出来ないレベルで何も知らない身だ。教えてくれるなら、素直に従う。


「面倒なら良いぜ?」

「心配いらん。うちが教えるのは魔術師の存在っちゅうだけ。ええな?」

「よろしくお願いします、ツバキ先生」

「ツバキお姉ちゃんと呼びなはれ」

「なぜ此処の人は皆、姉と呼ばれたがる……」

「先ずは、魔術や。イッ君は魔術ってどうやって使うと想うん?」


 得意気なツバキの問いに少し考える。

 魔術。杖を振ったら人が豚に。詠唱を唱えたら雷が落ちてくる。なんて簡単な話じゃないだろう。


「……こう、空気中の魔力を手に集めて放つみたいな。今のはメラみたいな……」

「はいざんねーん。なんやメラって。そもそも、其処から考え方が違う。人は魔力を操る事なぞ出来ん。まぁ厳密に言えば使える亜人もおるんやけど……」

「はぁ? じゃあ、どうやって魔力を操って魔術を使うんだよ?」


 人が魔力を操れない。だとすれば、魔術なんて使える訳が無い。誰でも想い付くような当たり前の答えにツバキは一騎に、短剣を見せ付けた。


「人は何時だって道具魔術師の杖を使う」

「……魔装具、だったか?」

「そう。人の力で魔力は扱えん。しかして、道具を使えば人は魔力を扱える。“魔装具まそうぐ”は人が魔力を扱う為に使う武器や」


 ツバキは持っている短剣を器用にクルリと回す。

 刹那。


「――炎魔えんま装填そうてん


 覇音が轟く。

 それはまるで銃撃音。弾が火薬で破裂したような劈く爆音に耳を塞いだ。


「う、うっさっ!? な、なに? 撃ったのか!?」

「撃ったで。魔力が籠められた弾丸を、魔装具でな。これがその弾丸」


 ツバキは魔装具の短剣から細長いマガジン弾倉を引き抜き、一発の青白い弾丸を一騎の手に落とす。


「弾丸って……」


 形は至って普通の弾丸。細長い筒型の円形。但し。


「先端が青く光ってる……?」


 靄のような、霧のような。実体がないゼリー状の青白い光が弾丸の先端で輝いていた。


「それが魔力や」

「これが? ……綺麗なモンだな……」

「各属性の魔弾を魔装具で撃ち、身体に魔力を取り込む事によって人は魔力を力として操れるようになる。此処まではええ?」

「あぁ、着いて行けてる。大丈夫だ」

「じゃあ、次は実際に魔術を扱う。さっきも言うたけど、攻撃に関しては才能が無いから大袈裟なモンは見せられんけど……よっ」


 ツバキが掌を突き出すと、弾丸でも見られた青白い光が薄く集まり、そして。

 

 炎が噴く。

 

 ゆらゆらと揺れる野球ボールサイズの火の玉が、ツバキの掌に浮かんでいた。種も仕掛けもないと、本能が理解する。それは確かに、人知を越えた力が働き、炎を造っていた。


「お……おぉぉぉっ……」


 手を近付けてみると火傷しそうな程に熱い。だが、一番近いツバキは全く熱さを感じていなかった。

 感服の溜め息を吐く。


「これが魔術。ちなみに」


 炎は直ぐに消えた。合わさるように青白い光もツバキの身体からは消えている。その光景を見ながら、ツバキは短剣を着物の袖に仕舞い込み、煙管を咥えた。


「魔弾から獲た魔力が無くなると魔術も消える。継続して使うなら、常に魔装具で魔力を補充しなきゃならん」

「……つまり、魔弾と魔装具。二つが揃ってないとツバキは唯の女って事か」

「唯の可愛い女の子、な。魔装具を持たない魔術師なんぞ、ただの人間」


 漫画のように「魔力が無いから魔術が使えない」ではなく、「残弾がないから魔術が使えない」となる。つまり。魔力による個人差がないのだ。誰もが同じ魔力の容量で、誰もが同じ魔術を扱える。良くある異世界を舞台とした小説には魔力の容量が強さの定義として捉えられていたが、此処ではその定義が当てはまらない。


「……するってぇと。もしかして、魔装具があれば、俺でも魔術が使えるのか?」


 ふと思いついた事を言ってみる。誰でも魔装具を扱えるならば、それは誰でも魔術を扱えるということになる筈だ。しかし、期待した答えとは裏腹にツバキは短剣を裾に仕舞い込みながら首を真横に振った。


「そりゃ、才能次第やなぁ。魔術の才能がないモンは、そもそも魔力を身体に取り込めん」

「其処はシビアなのな……誰でも使えるって訳じゃねぇのか」

「誰でも魔力が扱えたら、世界はもっと世紀末な世界になっとるやろ。それにこないな女一人が魔装具なんて危険物を持ち歩ける訳ない。今の魔術師でさえ、生物兵器扱いされとるしなぁ。魔術師による犯罪やテロも増えてきとるし……」


 世界はアニメのように優しくはない、か。

 善人がいれば、悪人も居るのが当たり前。やはり、魔術師の犯罪者も存在しているから、“狩り人”と呼ばれる魔術師の軍人が存在しているのだろう。


「まっ、人間。皆が善人ちゅう訳やあらへん。魔物って天敵もおるけど、最近じゃ殺人の方が魔物より死人をだしとるしなぁ。魔装具やて、許可証がないと所持法で逮捕やし、街中で中規模の魔術なんて扱ったらあっちゅうまに"狩り人”が出動して逮捕や」

「はぁん……怖いのは何時だって人間か」

「さて、辛気臭い話は捨てて観光と行こうやないか。道路から下に降りると、綺麗に天使の翼エンドゥルが見える場所があるんや」


 四車線の車道脇、下へと降りる階段に進むツバキの背を追って続く。

 道路の真下に広がっていたのは自然豊かな草木の公園。排気ガスが舞う道路の下にわざわざ造るのはどうかと想うが、森林公園には意外にも人が多かった。平日ともあり若者は少ないが、散歩中の老人や子供を連れた家族連れ。多種多様な人が憩いの場として活用してる。


「この公園、外壁の近くなのに随分ゆったりしてんな。壁の向こうは魔物がうじゃうじゃといるんだろ?」

「おる訳ないやろ」

「あ? いねぇの?」

「おらん。ちゅうか、居たらもっと大騒ぎになっとるし、警報がわんさかなっとるわ。まぁ、警報も数百年なっとらんけど」


 予想外だ。てっきり、バリアの外側は魔物が蔓延り、外に出た瞬間、襲われる物だと想っていたが。


「んん? 魔物がいねぇなら、バリアの意味あんのか?」

「魔物がいないのは、“狩り人”が常に魔物を狩って魔物の縄張りを狭めてるからや。少しでも気ぃ抜けば、魔物に囲まれて国はお陀仏」

「……ま、んな甘くないか」


 三日前の夜を再び想い出す。

 自分が異世界へと迷い込んだ瞬間に自らを喰らおうとした巨大な魔物はまだ脳裏から離れてくれない。バリアが無ければ、あの一角の魔物―雷鳳は街へと侵入し、自分だけではなく、市民や、あの子供すら喰らっていたのだろう。


天使の翼エンドゥルは言わば、国家の最終防衛ライン。容易く抜かれる造りじゃ安心は獲られんよ。事実、完成から一度も壊されたことはあらへんしな」

「だよな……あの化け物を抑える壁だ。安心して油断出来るくらいの造りじゃなきゃ駄目か」

「そゆこと。ほら、あの壁沿いが穴場。天使の翼エンドゥルが一番見える場所や」


 言われるがまま目を向ける。

 約二十メートル程の外壁から更に空へと登る半透明の巨大な壁。円形に国を囲んでいるのだろう、人間の目線では全貌はとても分からない。目の前。公園の端は山形に土が盛られており、小さな丘になっている。上に登れば外壁が良く見えそうだった。


「登るか? 此処からでも充分見えるぜ」

「折角来たんやから、登らんと。うちは見飽きてるけど、イッ君はちゃうんやろ?」

「……そだな、登って見てみるか」


 歩みを止めず、二人はフェンスを越え、芝生を踏み越えて丘を登る。急な坂道になっている丘を一歩一歩進みながら、一騎はまた半透明の壁、通称、天使の翼エンドゥルを覗き見た。

 何かが妙に引っ掛かる。


「……あ? ちょっと待てよ。一度も壁は壊されたことがねぇって言ったか?」

「そやで。完成されてから数百年、何回か改良は施されとるけど、破壊された事はない。なんや、変な顔して?」


 それは有り得ない。

 一度も壊されたことはない。



 いや、この外壁は一度、破壊されている・・・・・・

 その無残に散った外壁を、一騎はこの目で見ている。忘れることもない悪夢のような時を。


「(……隠蔽してる? どう言うこった? ユキヒメさんがんなことする人には見えねぇけど……隠さなきゃならねぇ理由があったのか?)」


 ツバキの問いに答えず、頭で言葉を呟いた。

 もし理由があって、ユキヒメ達が外壁の破壊を市民に伝えていないのなら、自分が簡単に喋って良い話では無くなる。引っ掛かる問いは頭で木霊するが、それを答えてくれるユキヒメやアイシスは此処にいない。


「イッ君?」

「……なんでもねぇ。ちょっと腹減ってな」

「お腹? なら丘の上でお菓子でも食べよか。空腹を紛らわすくらいにはなるやろ」


 簡単に誤魔化し、首を振る。

 三日前の話は胸に秘めた方が良いだろう。自分のせいで迷惑をかけている以上、ユキヒメ達にさらに迷惑を掛ける訳にはいかない。どちらにしろ、知ったところで自分には関係ない上、どうにもできない問題だ。気分を変えるように、少し駆け足で丘を登る。頬を撫でる爽やかな微風が翡翠色の羽織を靡かせて通る。最後の一歩を踏み締め、


「よっ――」


 丘を登り切った。


「―――うん?」

「―――おっ」


 其処に居たのは、二人の男女。

 バラバラな場所に立っているのを見るに、他人同士だろう。

 一人は青年。金髪の短髪に、整った顔立ち。中肉中背、金髪以外には特に目立った特徴が見当たらない、普通の青年だ。此方に目を向け、何故かほっとした表情を浮かべていた。

 

 一人は女性。

 女性の美しさを例えるに華や景色を文として扱うのは一般的だ。立浪一騎が、この異世界アルマで出会った女性達は、不思議なことに、薔薇や雪景色と例えるに相応しい女性ばかり。

 だが、一騎にとって彼女を例える華や景色は全く思い浮かばなかった。

 深紅の優雅さを持つカーネーションも、山を神秘的に照らす眩しい夕焼けも、彼女を例えるには役不足。微風が撫でる黒髪は宝石のように輝いて。比喩する言葉が思い付かない程に整った理想と呼べる顔立ちに憂いを残す。自分に近いほど、女性にしては珍しい高身長。

 黒いローブは魔女の妖艶を引き立て、手に持つ機械的な杖は彼女の為に存在しているように。


 彼女は確かに美しい。

 だが、立浪一騎を引き寄せるのは彼女の美しさだけではない。他の者は彼女を美人だと言うだろうが、彼女を絶世の美人だと呼ぶのは立浪一騎だけだろう。

 何故なら――


「――優花?」


 彼女の雰囲気は、立浪一騎が唯一、愛する女性に似過ぎていた。

 顔は似ている。他人だと分かるが、彼女の佇まいや、口元。人を睨んでいるような吊り目。高い身長。どれをとっても。何処を見ても。


 幼馴染みの“桜井優花が重なる”


「なに呆けとるん?」


 真横から聞こえてきた声にハッと身体を震わせる。目を向ければ、ツバキが呆然としていた自分を不思議そうに見つめていた。


「……いや、なんでも……」

「なんでもって事はあらへんやろ……ん? ………はーん」


 ツバキは一端、視線を外して一騎が見ていた彼女に目を向けると、途端に口元を三日月に歪めた。


「……なんだよ、いきなりニヤニヤしやがって」

「隣にこないなかわええ女が居るのに、他に見惚れるのはいただけんなぁ?」


 からかうように笑うツバキに苦笑を返す。


「ハッ……悪かった。確かにいただけねぇな」

「分かればよろしい。まぁ、魔術師ってのは総じて、なりええのが多いからなぁ。好みなら仕方ないって許したる」

「そりゃありがとよ……」

「それよか、どうや? 間近で見る莫大な魔力の象徴、天使の翼エンドゥルは? 無骨な形にしては綺麗なモンやろ」

「ん、綺麗なァ……」


 言われるがまま、天使の翼エンドゥルを見上げた。

 青く澄み渡った晴天に混じる薄桃色の靄。一面に広がる壁は、確かに見ようによっては綺麗なのだが。


「微妙だな……綺麗でもねぇし、特別に物珍しい訳でもねぇ」

「くひひっ。そうやねぇ。うちもハッキリ言えば綺麗とは想わんなぁ。国が壁の重要性を保持する為に、宝石の壁なんてご大層に謡ってるだけで……実際見てみれば、良く分からん靄が渦巻いとるだけ」

「なんで宝石なんだよ……全然、宝石の要素ねぇだろ、これ」

「税金で稼働しとるから、実用性だけだととやかく言う連中がおるんよ。この壁に自分の命を預けているって分からん馬鹿は山ほどおる」


 税金か。異世界においても、国と市民のいざこざは消えない物だと示す証だ。地球も異世界も、本質はあまり変わらないのかも知れない。

 何をする訳でもなく、壁を見つめる。

 やはり、三日前に見た壁はコレだ。自分の側で無残に破壊されていた城壁のように聳え立っていた壁。あの化け物は、コレを破壊して国に侵入してきた。

 その余波で生死の境を彷徨ったのだ、見間違える筈も無い。


「……つうと、俺が異世界に来た原因はコイツなのか……?」

「なんや? なんか分からないことでもあったん?」

「ん……いや。なんでもねぇ……」


 言葉を濁して誤魔化す。異世界から来たなどいきなり言っても、頭がおかしいと想われる馬鹿話だ。軽く頭を振り、思考を頭の奥底に押し込める。


「そう? んなら、お菓子でも食べよか」

「菓子?」

「お腹空いたんやろ?」

「あぁ……そうだな。もう昼飯の時間帯か」

「街に行ってちゃんとご飯食べるのは勿論として、先ずはお菓子で腹を誤魔化しとくのがええやろ」


 そう言ってツバキは背負っていた大きめのリュックを地面に下ろし、中身を漁り出す。ソレを横目に、一騎はまた半透明の壁を見つめる。


 別になんてことはない。不思議なことも、変なところもない。


 だと言うのに、首の辺りがチリチリと焼けるような感覚が消えない。胸を騒がす焦燥感が消えてくれない。まるで、試合前に控え室で待機している気分だった。

 

「……」


 ふと横を見ると、ツバキ以外の二人も一騎と同じ様に壁をただ見ていた。

 彼女は無意味に杖を指で弄りながら、ただジッと。

 青年は不安な表情を浮かべたまま、ただジッと。

 自分だけではない。彼等も何かが引っ掛かっている。喉元に骨が残るような言い難い違和感。


「どないしたん。さっきから黙って壁ばっかり見つめて」


 ただ無言で壁を見る一騎を流石に怪しんだのか、ツバキはリュックを漁る手を止め、苦笑交じりに煙管を咥えて言う。


「……いや、な…」

「なんでもない訳あらへんやろ。さっきからなんでもないしか言ってへんよ……なにぃ? うちに言うてみぃな」


 同じ言葉を無意識に呟いていたのか、流石のツバキも怪しんでいた。だが、言ってみろと言われても悩む。この感覚は実に言葉にし辛い。何を言おうかと頭を捻り、壁から目を背けた。


 瞬間。



『――コォルルル』



 ソレ・・・はハッキリと聞こえた。聞こえてしまった。


 生涯忘れることがないであろう。鉄と鉄を擦り合わせたような地面にまで響く音色。身体は本能から鳥肌を立たせる。凍り付く背筋と血の気が引く。


「――聞こえたな」


 直ぐ近くで壁を睨んでいた彼女が、唐突に呟く。ハッと顔を向ければ、彼女は苦虫をかみつぶしたように表情を歪めていた。この音を聞いたのは自分だけじゃない。彼女も、そしてツバキも冷静な表情で壁を見上げている。


「……今の音、壁の向こうから聞こえはったなぁ。イッ君も聞こえたやろ?」

「……聞き間違い。じゃねぇよな……」


 聞き間違いで合ってくれと願いを込めて聞き返すが、ツバキは無情にも首を振ってキッパリと否定する。


「うちとイッ君が聞こえてて、聞き間違いって事はあらへんやろ。しっかし、なんの音や? イッ君、分かるんか?」

「……分かるっつうかよ…」


 ツバキの問い掛けに、冷や汗を搔きながら無理矢理に笑みを吊り上げた。

 忘れるモノか。

 この音は、もはや立浪一騎にとってトラウマと呼べる音。無意識に身体が竦み、傷が癒えた筈の腹がズキリと痛む。

 この音は。

 この鳴き声は。


「―雷鳳らいほうッスね」

「―雷鳳らいほうだね」


 両隣から声が通る。

 ツバキとそれぞれ反対に向くと、一騎の直ぐ横には、杖を持っていた黒ローブの彼女が立っており。ツバキの横には、金髪の青年が引き攣った表情のまま立ち竦んでいた。


「雷鳳って……あの“稲妻の化身”って呼ばれとる、あの雷鳳じゃけ?」

「その雷鳳だよ、おに

「誰が鬼っ娘じゃ!!」

「気にするな。僕の耳が正しいなら。いや、僕の美しい耳は確実に正しいのだけれど。これは間違いなく雷鳳の威嚇行動だよ」


 彼女は何故か自信満々なドヤ顔で三人に言う。


「俺っちもそう想うッス。前に資料読んでた時に聞いた事あるんスよ。歯車みたいな音を出すって…」

「歯車ァ?」

「あ、いや……その、いきなりすんません!? ただ、さっきから此処でこの音が聞こえるから、さ……」


 彼女とは反対に立っていた金髪の青年も彼女と同じ答えを怖ず怖ずと言った。

 歯車。言いたい事は分かるが少し違う。この鳴き声はなんとも例えづらい音色なのだ。


「雷鳳は喉に火打ち石のような部位を持っているのさ。それを擦った音だよ。高電圧の雷が喉でバチバチと鳴って、その音が声帯を通り抜けて牙に反響するとこんな鳴き声になる」


 黒髪の彼女が全員の疑問を答えるように自分の喉を指差しながら三人に言う。まるで見た事があるような口振りに、ツバキは煙管を咥えたまま口を開く。


「なんや姉さん。外界の魔物に詳しいなぁ?」

「ふっ……」


 ツバキの問いに、彼女は自分の美しい黒髪を払い、自信満々な顔で鼻を鳴らし、


「これでも“狩り人”を目指している天っ才美少女だからねっ!!」


 これまた自信満々なドヤ顔で聞いてもいないことを言い放った。


「イッ君。うち、この姉さん好きになれそう」

「此処までナルシストって一発で分かる奴、そう居ねぇぞ……」

「確かに美人だとは想うけど……いや、でも……」

「おい、なんだその目は。僕は自他共に認める超絶美少女だろう。寧ろ僕をみて美少女だと想わない奴は総じてブス好きと断定するぞ」


 ツバキやアイシスも大概に濃い性格をしているが、彼女はその中でもずば抜けている。三人から冷たい目を向けられても、彼女は全く堪えた様子が無く、此方を指してきた。


「つうかよ、グダグダ喋ってる場合じゃねぇだろ。鳴き声が聞こえるっつう事は、近くにあの化け物がいんだろ。ヤベぇだろ」

「まぁ、ヤクザ面の言う通りだね……外壁の直ぐ外側に居るなら、何時、警報が鳴っていてもおかしくない」

「顔は言うなよ、顔は……てか、なんで警報が鳴らねぇんだ? 魔物が近くに来ると鳴るようになってるんだろ?」


 聞いた話では、国に侵入されなくとも近くに魔物が来れば国中に警報が鳴り響く筈。聞きたくもない鳴き声が近くに聞こえるのだ。魔物がすぐ近くにいると言っているような状況ゆえに警報が何時、鳴り響いても不思議ではないのだが。


「其処ッスよね。俺っちも、十分前くらいから此処に居るんだけど、ずっと聞こえてるんスよ。だけど……」

「警報が鳴らんちゅう訳か。確かに変な話やなぁ。警報器が壊れとるんか?」

天使の翼エンドゥルに導入されてるのは魔力探知式の魔術さ。どんなに隠蔽能力を持った魔物でもダスクリア製の探知を逃れられる化け物はいないだろう。仮にいたとしても雷鳳は何度も検地されている魔物だ。今回に限って検地されないはないだろうね」

「俺っちの予想じゃあ、遠吠えって…」


 一騎を置いて、三人は初対面にも関わらず相談を始めた。魔物をろくに知らない一騎ですら不味いと思う状況だ。魔物をろくに知らない自分が話に混ざるよりは彼らに任せた方が良いだろう。

 ソレを余所に、一騎は唯一人で壁を睨む。

 ずっとだ。ずっと頭の片隅で何かが引っ掛かっている。


「(……そもそもだ。雷鳳は壁をぶっ壊して国に侵入してきたんだよな……?)」


 それは間違いない。

 しかし。


「……じゃあ、警報は鳴ったのか?」


 三日前の夜。一騎の目の前に雷鳳は現れ、このダスクリア王国に間違いなく侵入していた。ならば、国中に魔物の侵入を知らせる警報が鳴った筈だ。

 鳴った、筈だ。


――『まぁ、警報も数百年はなってへんけど』


 不意に脳裏を過ぎったのはツバキの発言だった。


「……そうだ。俺が死にかけてた夜も、警報なんざ鳴ってなかったじゃねぇか……でも、雷鳳は確かに……だから、あァ……ッ」


 想い出したくもない夜の事を、もう一度想い出そうと頭を抑える。

 あの夜、自分は気絶から目覚めた後、どうした?


「……身体がふらついて、壁に寄り掛かったよな……壁?」


 待て。

 もし、雷鳳が壁を破壊してダスクリア王国に侵入したとして、その侵入口に倒れていた自分が、どうして壁に寄り掛かれる?

 そうだ。三日前の夜、自分が見上げた外壁は、今と変わらぬ何十メートルと言う高さを保っていた。自分は、この外壁に寄り掛かったのだ。


 つまり。


「……壁は壊されてねぇのか・・・・・・・・・

 

 立浪一騎は、根本から間違えている。

 三日前の夜、壁は壊されてなど居なかった。ツバキが言っていた通り、天使の翼エンドゥルは何百年と国を護り続けていたとすれば。


「ッ……」


 雷鳳は、壁を壊さず・・・・・にダスクリア王国へ侵入したのだ。

 壁を壊さず、尚且つ壁にも触れず国に侵入する経路は二つしかない。

 焦る心を堪えながら空を見上げると、遙か上空には薄桃色の靄が広がっていた。この天使の翼エンドゥルは半球状のバリアだとユキヒメが言っていたのを覚えている。


 半球状の向きが上側ならば。


 ゆっくりと視線を下ろし、しゃがみ込んで地面に手を付いた。


「イッ君? なにしとるんや?」


 突拍子もない一騎の行動に、三人の視線が集まる。声を掛けようとしてくるツバキを手で止め、手の感触と耳に集中した。この感が合っているなら、今の自分達は悠長に喋っている余裕等ない。非常にマズイ。いや、マズイなんて話ではない。

 もう、間に合わない可能性すらある。


「………」


 ゆっくりと瞳を閉じ、息を吐く。長く、浅く。肺から空気が無くなったと同時に息を止め、耳を地面にべったりと着けた。

 耳に届くのは芝生が揺れる穏やかな自然の音色。

 一秒。

 二秒。

 静寂しか聞こえない土にほっと息を吐き、耳を離そうとした瞬間。


『コォルルル――』

「ッ――」


 ハッキリと耳に聞こえた。


「イッ君、ほんまに…どっ!? っと、と!?」

「のわっ!? 痛ぁっ!?」

「おわっ!?」


 刹那、地響きが起きる。

 小柄なツバキが僅かに浮かび上がり、前のめりに倒れ込みそうになる程の大きな揺れだ。地面にしゃがんでいた一騎以外は、皆がバランスを崩して尻を打つ。


「ぼ、僕の美肌に傷が……っ!? じ、地震か?」

「姉さんは常に自分を褒めんと気がすまんのか……地震、やないな……」

「向こうの車は普通に動いてるッスよ……この、公園だけ揺れたんじゃないんスか?」


 揺れたのは公園だけ。その証拠として公園の上に並ぶ道路では普通に車が走っていた。


「ツバキッ!! 地面にバリアってあんのか!?」

「は、は? 薮から棒になんや?」

「良いから、地面にバリアはッ!?」


 素早く身を起こし、ツバキに手を貸しながら一騎は焦りを隠さずに叫ぶ。唖然と瞳を惑わせるツバキは、一騎の手を取りながら戸惑い気に口を開いた。


「じ、地面に天使の翼エンドゥルはあらへんよ? そもそも、地面を護る必要なんかないしなぁ……それがどないしたん?」

「だったら急いで逃げんぞッ! おい、其処の黒髪も金髪も速く立てッ!! あァ。つうか公園にいる奴等も非難させないとなれねェぞッ!!」

「だれが黒髪だ、ヤクザ面。何をそんなに焦って―どわっ!?」


 黒髪の彼女が言葉を続けようとした時、再び 大きな地響きが起きる。

 一回、二回。段々と間隔が短くなる揺れに比例して、一騎達の目の前の地面が僅かに陥没する。

 

 それは、前触れであり。


『コォルルル――』


 雷の呼び声だった。


 バチリと覇音が鳴り、電灯が弾け飛ぶ。自動販売機は悲鳴を上げ爆発し、公衆電話は破裂する。電気を使用している機械類は全て予兆だけで破壊されていく。当たり前だ。この魔物の名はイカヅチを現す。


 バチリ、バチリと、雷が弾ける。

 バチリ、バチリと、機械が壊れていく。


「嘘だろ。冗談キツいぜ……ッ」


 大地を砕き、姿を見せる白き一角。人を軽々と切り裂く大爪で身体を引っ張り出し、龍の顔を覗かせる化け物は、ゆっくりと姿を現す。

 

 “稲妻の化身”は、天使の翼エンドゥルを破壊して国に侵入したのではない。


 この化け物は、知能を使った。

 絶対に壊せない壁が、大量の人間エサを護っている。人間エサを欲した化け物は壁を壊せないと知り、壁を壊さずに人間エサの群れが居る場所への行き方を求め。


『コォルルル――』


 地面を潜り・・・・・、壁を超えた。


 地中から姿を見せた化け物を前に四人は言葉を失った。立ち竦み、狭苦しい場所から開放されたと言わんばかりに悠々と新鮮な空気を吸い込み、欲望のまま涎を垂らす化け物をただ呆然と見つめる。


 そして、化け物―雷鳳らいほうは獣の眼光を巡らせ、その瞳に一騎を捕らえた。


『コォルルル……』


 立浪一騎と雷鳳。

 互いに忘れられぬ怨敵だった。自分を殺しかけた化け物に、エサを取り逃した化け物。雷鳳は一際、威圧感が隠る唸りを上げ、その瞳に一騎だけを映すと、五本の大爪を地面に突き刺して大口を開く。


 瞬間。


 バチリと轟音を轟かせ、雷鳳の口に雷が収束する。

 エネルギーの塊としか例えられない。青白い魔力と目映い雷の光が混ざり合い、小さな球体は雷鳳の口中で段々と大きさを、凶悪さを増していく。

 尋常ではない。それが直ぐに分かったのは、黒髪の彼女だった。


「雷の砲弾だッ!! ここら辺りが吹っ飛ぶ威力があるぞッ!!」

「……ッ! ツバキィッ!!」

「い、イッ君っ!?」


 黒髪の彼女の叫びを聞いた一騎は、無我夢中で側に居たツバキを抱え、全力で地面を蹴り飛ばす。

 だが、遅過ぎた。


『コォルルル――ルォオオォォオォオォォオオオオォォオォオォォオオオオォォオォオォォオオオオォォオォオッ!!』


 雷鳳の口から放たれた雷の砲弾は真っ直ぐと四人へ。


「ヤベぇ――ッ!?」


 雷の嵐は四人を無慈悲に飲み込み、一騎の視界を一瞬で純白に染め上げた――

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