稲妻の化身

望まぬ来訪

「ぁ………つっ……ッ」


 立浪一騎が自分をハッキリと自覚した時、鋭い痛みが全身に走った。


 まるで、遊戯のコーヒーカップに入っている気分だ。視界が擦れ、意識は歪む。頭はぐるぐると振り回され、身体全体が熱く痛んだ。胸は誰かに押されているように詰まり、あまりの息苦しさに耐えきれず咳き込む。


 ――なにが起きた?


 前向きも前触れもない。唐突に“何か”が起きると、想像も出来ない衝撃が襲い掛かり、為す術無く吹き飛ばされた。

 鈍痛が響く頭を抑え、何とか起き上がろうと地面に手を付き、顔を真上に上げる。息が苦しい。詰まった胸の性か身体が空気を求める。


「ッはぁ゛あ゛ぁ―――ッ」


 無理矢理に息を吸った。

 擦れていた視界が段々と戻り、目の前に綺麗な満点の星空が広がる。何とか荒い呼吸を必死に整えながら、周りを見渡した。

 其処に広がっていたのは、深紅に燃え上がる炎の景色・・・・


「ハァ――――ハァ―ハァ――……は……?」


 火。火。火。

 辺り一面、全てが燃え盛っていた。

 何だ此れは。黒煙が立ち上り、瓦礫が飛び散っている。無意識に後ろを振り返ると其処には高さ二十メートルはあろうかと言う薄桃色の半透明な壁が聳え立っていた。

 混乱する頭が必死に自分が覚えている景色を探すが何一つ見付からない。そもそも、自分が座っている場所は地面だ。慣れ親しんだコンクリートも。アパートの通り慣れた鉄の通路も。

 何もない。


「ハァ……ハァ……ッ」


 唖然と見渡し、其処で気付く。


「ぁ……っ………お袋はッ!?」


 痛む身体に鞭を打ち、壁に寄り掛かりながら身を起こす。手に濡れた血がべっとりと壁に着くのを気にせず視界を回した。

 この有様。何かしらの爆発が起きたとみて間違いない。アパートを出て直ぐに巻き込まれた自分が、血塗れになっているのだ。近くに居た母が無事で居る筈が無い。

 アパートは。自分が住んでいるアパートは何処に。





『コォルルル―――』




 ゾクリと身体が震えた。

 鉄と鉄を擦り合わせたようなナニカ・・・の鳴き声。辺りに広がった黒煙に隠れ、良く見えないが、その黒煙の向こうには確かにナニカ・・・が蠢いた。

 息を飲む。

 意識しなくても感じてしまう。身体を震わせる威圧感と鋭利な刃を突き付けられているような殺意の塊。


「ぁっ……」


 想わず声が漏れる。黒煙の向こうで蠢くナニカから目が背けられない。


 アレは何だ? 


 体長は優に四メートル。横幅二メートル弱。白い皮膚に、巨大で鋭利な大爪。熊のような顎に竜の牙。額から美しき白銀の一本角を生やし、身体に雷を纏う異形の化け物。

 破裂しそうな程に膨張した筋肉は化け物が如何に恐ろしい存在かを簡単に教える。


『コォルルル―――』


 ゆっくり。ただゆっくりと。闇夜に煌めく獣の獰猛な眼光は立ち竦み、唖然と化け物を見つめる一騎獲物を捕らえる。

 見開く瞳孔。唸りを上げる咽。鉄すらも噛み砕かんとする牙から涎を地面に垂らし、獣は静かに姿勢を下げた。

 

『コォルルル―――』

 

 マズい。マズいマズいマズいマズい。

 逃げる暇など無い。獣は完全に此方を睨んでいる。


 どうする。どうする。どうする――


『コォルルル―――ルゥオォオォオォォオオオォォォオオッ!!』


 ――行動するのが遅過ぎた。

 獣は雷を一本角に纏わせるとその大木のような脚で地面を砕き抜き、角の先を突き出したまま、一騎目掛けて飛び込む。

 殺す気だ。獣は本気で自分を殺す気なのだ。其処に慈悲は無く、一切の躊躇も無い。まるで雷のような速さで駆ける獣はその鋭利な一本角を一騎の胸へと突き出し――


「―――っ」


 瞬間。地面が弾けた。

 一騎が蹴り飛ばした地面はバラバラに砕ける。たった一回の踏み込みで獣の懐へと潜り込み。長年の鍛錬と実践で染み付いた動きが腰を捻させる。


『ルゥガぁッ……』

 

 続く甲高い快音。理想的と言える構えから放った右リバーブローは、獣の脇腹を的確に突き刺し、メキメキと骨が砕ける音を鳴らしながらめり込む。肩を前に押し込み、拳を振り抜き、ゴムボールさながらに吹き飛んだ獣は二回、三回と身体を地面に打ち付けて転がり落ちる。


「っ………ふ、っ……」


 拳を突き出したまま固まった。

 額に球の汗が流れ落ち、振り抜いた拳は震える。地面を踏み締めた右脚は痛みからか笑っている。


 無意識。正に無意識だった。

 獣が本物であろうが偽物だろうが。獣は殺してやると、喰らってやると言う殺意に溢れていた。その殺意が一騎の鍛えてきた身体を無意識に動かしてしまったのだ。


「ッ……ぁっ……」


 だが。だが、だ。


 何故、あんなに吹き飛んだ?


 確かに現役時代、破拳などとメディアに取り上げられ、大それた名前に嫌気が差していたが、右拳だけで何メートルも吹き飛ばすなんて漫画の世界だけだ。生き物あんなに簡単に吹き飛ばない。

 茫然と呆けていると。


「…………痛、っ……ぎ…ぃ…ッ!?」


 刹那、腹にズキリと重い痛みが走った。

 壊れた玩具のように脚の震えが止まらず、ふわりと身体の力が抜け落ちて地面に膝を付いた。鈍痛を訴えてくる腹を抑えると掌に生温い液体の感触が広がった。

 

 あぁ。血だ。


 腹だけでは無い。頭から流れている液体は汗だけでは無く血液が混じっている。意識が霞んでいるのも、視界がぼやけるのも、思考が定まらないのも。全て状況が生んだ混乱だけでは無い。 

 出血だ。

 自身の命を危うくさせる程の多量出血。


「ぁッ……へっ……へへっ……こ、れ……ヤベぇな……」


 マズい。想わず笑ってしまったが笑っている余裕など微塵も無い。また無理矢理に身体を起こし、背中をべったりと壁に着けて身体の力を抜くが、まるで重りを着けているように脚が重く、動いてくれない。思考は鈍り、ふらふらと揺れて夢の中にいるよう。


「気ぃ抜い、てんだ、よッ……クソ、がッ」


 為すがまま弱気になる心を気合いで殴り飛ばし、拒む身体に鞭を打って息を深く吸い込む。

 此処で身を任せ、気持ちのまま倒れたら本気で死ぬだろう。そんなのは駄目だ。許されない。自分にはまだ終えてない約束がある。何時もの喫茶店で、自分を待ってる女がいるのだ。こんな見知らぬ場所で。


「死んでたまるかよッ……」


 落ち着けと頭に言い聞かせる。どんな試合だって、相手より冷静な方が勝つモノ。そして自分は常に冷静に勝ってきた。此処で取り乱しても何の意味も無い。


『コォルルル……』


 視線を咄嗟に上げた。


「クソッタレ……」


 更に状況は悪化していく。

 ドサリと巨体を軽々持ち上げた獣は、まるで変わらぬ眼光を一騎に向けてくる。当然か。あの化け物が人に殴られたくらいで死ぬ筈が無い。

 逃げなければ。

 身体はふらつき。視界が霞み。出血も大量だが、何としても逃げなければならない。絶対に。


「諦めるかよ……ッ……アイツが待ってんだ……ッ……誰が、諦めるかッ!!」


 壁から背中を離し、獣を睨み返す。

 自分が行かなければ、あの女は何時までも喫茶店で待っている女だ。

 絶対に泣かせないと誓った女だ。

 絶対に護ってやると誓った女だ。

 絶対に悲しませないと誓った女なんだ。

 

「来やがれ、化け物……ッ」


 生き延びてやる。ただそれだけの想いで身体を動かす。


『コォルルル―――』


 バチバチと唸る雷は、まるで、獣の怒りを表しているようだった。

 獣にとって、目の前に居るのは死にかけた餌だ。喰らうのは当たり前で。自分が勝つのは当たり前。その獲物が、生意気にも歯向かっている。まるで、自分に勝てると言わんばかりに瞳を光らせて。

 巫山戯るなと忿怒する。舐めるなと憤怒する。

 絶対的な強者である自分と、弱者である餌。喰らってやると、食欲を尖らせ、獣は牙を開く。


『――コォルルル』


 ソレはまるで、殺してやると言っているような唸りだった。

 



「――何時だって貴方達は傲慢に唸るだけの獣ですね」



 ――透き通る声が響く。

 誰も居ない地獄のような場所には不釣り合いの綺麗な響き。獣の鼻が瞬時にひくつき、顔を上げると声の主を探す。


「は……?」


 ソレは一騎も同じだった。誰も居る筈が無い地獄のような場所に響いたのは、耳に残る透き通った女性の綺麗な声。不自然も良いところ。こんな場所に誰かが居る筈が無い。

 だが、その一騎の考えを良い意味で裏切り、突如として場に突風が吹き荒れた。


「うぉっ!?」


 想わず顔を覆う。

 黒煙が突風に撒き散らされ、地響きのようなエンジン音が辺りに鳴り響く。続いて、目映い人工の光が一騎を真上から照らし、ソレ・・は夜空から舞い降りてきた。


『――此方、狩り人HUNTEROF女神達ALLY。民間人を発見!! 繰り返す、民間人を発見!! 中型級ナルド魔獣ガルドに襲われている模様、至急、救助に移ります!!』


 飛行機、ではなく。ヘリコプターでもない。さながら、SF映画に出て来るような箱の形をした空を飛ぶ機械。スピーカーのような音声器から響く人の声に続き、その飛行物体から白き彼女・・・・・が、一騎の隣へと落ちてきた。


「全く、騒がしい夜ですね……」


 飛行物体の巻き起こす風に靡く、艶やかな銀色の短髪。翡翠色の羽織を肩に掛け、身体に張り付く袖の無いアンダーシャツのような服を身に纏っている。白くきめ細やかな肌を無表情で晒す彼女は、何十メートルと言う高さから飛び降りてきたのにも関わらず、平然と一騎の前に立ち、視線だけを向けてくる。


「ア、ンタ……は……?」

「……色々と聞きたいでしょうが、少しお待ちを。アレを片付けなければゆっくりと話も出来ません」

「アレって、あの化け物を……痛ッ……」


 ズキリまた痛みを訴えた腹に耐えられず、足を崩した一騎を彼女はふわりと優しく抱き止める。

 

「静かに。出血が酷い状態です、無闇に動いてはなりません……怪我を見せなさい」

「い、痛ェのには慣れ、てるつも、り、なんすけど……ッ」


 酷い鈍痛だ。腹の感覚が無くなっており、さっきよりも数倍は痛みが酷くなっている。

 一騎を片腕で抱き止める彼女は、一騎の手を退かし、軽く覗き見ると小さな溜め息を溢して、傷口を一騎の手で押さえつけさせた。


「内臓が見えてます。ソレで動けるなら、対したモノですよ。貴方の言う通り、痛みには慣れてるのでしょうね……寧ろ、意識がある方が不思議ですが」


 呆れた表情。確かに触っている感触が妙に気持ち悪いと想っていたが。

 あまり見たくない傷口から目を背け、一騎は口を開く。


「マジかよ……」

「……マジ・・? 貴方、今…」

『――コォルルル』


 二人の会話を遮り、獣が鳴く。

 だが様子が先程と違っていた。一騎を狙っていた獰猛さを無くしてはいないが、獣はまるで目の前に居る彼女を警戒しているように身を低めている。

 彼女を怖がっているのか?

 獣の様子はそうとしか言えない。まるで彼女が自分の天敵のような警戒の仕方だ。自分でも怖がらなかった獣が、何故、自分より小柄な彼女を怖がっているのだろうか。

 

「行きなさい」


 彼女は静かに獣へ呟く。


『――コォルルル』


 獣は唯、静かに唸る。


「貴方を相手にしていると、この子は死んでしまうでしょう……私としても、それは不本意です」

『――コォルルル』


 睨み合う一匹と一人。

 この化け物に言葉は通じない。しかし言っている意味は理解しているのだろう。獣は彼女を警戒したまま僅かに後退る。


『コォルルル……』


 身体に雷を纏わせ甲高い音を唸らせると、さながら雷鳴のように空へと飛び上がり黒煙の向こうへ、あっと言う間に姿を消した。

 残ったのは静寂と消えかかった火の粉に黒煙。それに蒸し暑さを感じさせる熱風の微風と美しき白の彼女。去って行った脅威に依然として訳が分からない現状に口を開こうとして。


「……っ……ぎッ…」


 またズキリと腹部が痛む。今度は意識を霞ませる程に強烈な痛みだ。たまらず自分を支える彼女に倒れ込んでしまう。


「っ……大丈夫ですか?」

「ぁっ……ッ!」


 大丈夫と言い返したつもりだが口が上手く開かない。あぁ、自分でもハッキリと分かる。


「……これは」


 これは死ぬ。

 彼女は耳に付けていた小型の通信機に指を添え、空を浮遊する飛行物体に此処は安全だと手信号で伝える。


「アイシス、急いで此方に―――」


 段々と意識が擦れてきた。もう、彼女が何を言ってるかすら分からない。

 あぁ。この感覚は似ている。

 あの時。自分の人生を百八十度変えた試合の時。自分は彼に右ストレートを一発だけ貰い、リングに沈んだ、あの瞬間。

 このまま眠れば気持ち良く寝れると誘う身体に。ソレを拒む心。寝れば全てが終わってしまうのに。寝ては駄目だと叫んでも聞いてくれない身体。


 結局。



 自分はまた、この眠りに抗えない。




◆◆◆◆




 夢を見ている。


『君は何でボクシングなんか始めたんだい?』


 これは何時だっただろうか。

 確か、自分がボクシングを始めてから四年目くらいだったか。順調に成績を伸ばして、雑誌に初めて取り上げられたのを、優花に伝えた時だ。何時もの喫茶店。一番奥の二人席で向かい合って、同じコーヒーを飲む。それが二人の何時もの決まり。


『なんでって……覚えてねぇの?』

『ふむ……その口振りからすると、理由は僕か。いやはや。君は僕のこと好きすぎるねぇ。ベタ惚れと言っても良い。僕の為に武術を習い出すとは…』

『いや、ボクシング始めた理由は美鶴だけどな』

『………ふぅん』


 自慢気な顔から一転し、実に不満気な顔で眉を顰めた彼女に苦笑した。優花は基本的に妹の美鶴を優先させる姉だったが、中には妹に譲りたくないモノを少なからず持っている。その少ない一つが、立浪一騎。

 産まれた病院が同じ。誕生日も同じ。家も隣。小、中、高と同じ学校に進み。奇跡的にクラスも同じ。神様が巡り逢わせたと考えなければ、誰かが意図的に合わせたとしか考えられないほど、優花とは同じ道を歩んできた。


『まぁ、良いけどね。何時まで続けるつもりだい?』

『まぁ、やれる所まで』

『意外だね。ハマったのかい?』

『ボクシングに? ……そうだな。ハマったのかも知れねぇな。何だかんだ四年間はやってっからな。誰かに勝つのって、結構、気持ちいいんだぜ』

『それは人間だれしも勝つことには喜びを感じる物さ。それが勉学でアレ、なんであれ……他人より自分が上だと知らしめる単純な方法は勝利を獲ることだ』


 コーヒーを啜る彼女はそう言いつつも、何処か不満気な表情が抜けず。まるで一騎がボクシングを続けるのが気に食わない様だった。


『嫌いか?』

『暴力は嫌いさ』


 ボクシングが暴力。確かに見方によっては暴力か。如何にスポーツと言えど血を流して相手を殴り気絶させるのがボクシング。スポーツシップや、正々堂々と謡っても人を殴る事に変わりは無い。

 でも、ボクシングは好きだ。

 自分が強くなる実感と試行錯誤し日々積み重ねた鍛錬で相手に打ち勝ち。賞賛を身に浴びて力を自覚する。男として産まれた以上、ソレは本能と言っても過言じゃない。

 あぁ、だが。


『んじゃ、辞めるわ』


 優花にそんな顔をさせるくらいなら続けたくは無い。


『……君は僕にベタ惚れだねぇ』

『お前が一人称を僕じゃなくて私にしたら、もっと惚れてやるよ……前々から言ってるけどな。良い加減、女として治せよ』  

『人前ではと名乗ってるよ』

『……俺は』

『君は僕の中で特別さ。家族であり、他人であり、友であり。そして……』


 優花は其処で言葉を止め、コーヒーを飲む。砂糖とガムシロップをこれでもかと入れた、最高に身体に悪そうなコーヒー。見た目に反して苦いのが大嫌いでも、自分以外の前では頑なにブラックコーヒーを飲む。


『そして?』


 聞き返した言葉に、優花は頬を僅かに赤くして言った。


『僕の一番――――さ』


 その時、優花は―――


 

 夢は其処で終わる。




 目を開けると、其処は慣れ親しんだ我が家でも無ければ泊まり慣れた優花の自宅でも無い。見慣れない純白の天井。それに見慣れない機器が自分を囲み、腕には三本の管が繫がっていた。


「……此処は」


 病院。

 と言うにはどうも違う。左側の棚には幾つもの薬品が並べられ中にはホルマリンで着けられた何かの生き物。まるで優花が通っていた実験室のような場所。


「……」


 自分は一体、どうなったのか。

 あの獣は。自分を助けてくれた彼女は。此処は、何処で。


「ちゅ、注射、ブッスーー」

「痛ああぁあぁあぁあァアァッッ!?」

「うひぃ!?」


 突然、右腕に鋭い痛みが走り、想わず跳び上がって腕を押さえる。右腕には太い針が光り輝く注射機がこれまた見事に突き刺さっていた。

 涙目である。割と洒落にならないレベルで痛いのだ。今すぐにでも抜こうとするとその手を遮るように真横から手が伸び注射器を抑えてきた。


「あ、ま、ご、ごめんね!? お、起きてると想わなくて!? ご、ごめんね……っ」

「い、痛ッ………は?」


 恐らく、ベッドの真横に座る彼女は自分に注射器を刺した本人だろう。ソレは分かる。純白の白衣を着ている上、看護兵長と良く分からない役職が書かれたネームプレートも胸に着けているのだ。

 薄紫のウェーブが掛かった長髪をポニーテールに纏め何処かオドオドした垂れ目が彼女の人の良さを表しているようで。端整な顔立ちには自然と目が牽かれる。

 だが、一騎が目を牽かれたのは彼女の格好でも綺麗な顔立ちでもない。

 その頭から生える、“二つの角”

 まるで、龍の角のようなソレ・・は、確かに頭から後ろに向かって生えていた。質感も存在感も角が決して偽物では無いと語る。


「う、うん……? あ、あぁっ! 角? 角なの? お、お姉ちゃん、龍人だから角あるの。ご、ごめんね?」


 彼女の角に目が奪われていると視線に気付いたのか、彼女は一騎に角が見えるように頭を動かし、オドオドと瞳を惑わせる。


「……り、龍、人……すか?」

「あ、亜人だよ。偽物じゃないよ? あ、亜人だよ? 尻尾もあるよ? ……いや? もしかして、嫌い? お姉ちゃん、嫌い……?」


 龍人。

 龍人だから角がある? 彼女は確かにそう言った。

 正直に言おう。


 意味が分からない。


「龍人……すか……」


 自らに言い聞かせるように呟いた。何度、瞬きをしようが彼女の頭から生える角は変わらない。どれだけ見つめても、角は角。


「……触る?」


 あまりに見つめ過ぎたのか。なにを勘違いしたか、彼女は一騎の目前に角を持って行き小さく首を傾げた。


「………良いすか」

「い、良いよ? で、でも、その変わり。ちゅ、注射器抜かせて。ね? 血管に刺さると、あ、危ないからね? ね?」

「う、うっす……じゃあ、失礼して……」


 好意に預かり、空いた左手で角にそっと触れてみる。角は確りと硬く、だが血が通っているのか、僅かに脈動していた。

 角、だ。間違いなく角だ。彼女の頭から人にある筈が無い角が生えている。

 死にかけていた時とは違った混乱が一騎を襲う。訳が分からない。人に角などある筈が無いのに。


「……ん?」


 ふと、何かが彼女の後ろを横切る。目線を落とすと其処には龍のような尻尾。これまた確かに彼女の腰辺りから生えている。ぶらぶらと揺れている。


「ぉ……お、ぉ……ぉ……ッ」


 意味が分からず、無意識に感動した。

 何故かは自分でも分からない。混乱し過ぎて考えが定まらない性なのか。


「はい、とれた! 右手の奴も、と、取っちゃうね?」

「……うっす」


 為すがまま、彼女に右手を取られ、繫がっていた管の針を簡単に抜かれる。恐らく点滴のような物だろう。

 いや、それより。


「あの……」

「う、うん! 色々ね、気になるよね? わ、分かる。起きたら知らない場所だもんね。怖いよね……うん。だから、一個づつ片付けよう? 先ずはね、お姉ちゃんと自己紹介、しない?」

「あ、えっと……」


 現状、分からないことだらけだ。それでも、目の前に居るき彼女は、きっと自分の質問に全て真髄に答えてくれるだろう。意識しなくても、そう想わせてくれる優しい雰囲気が彼女にあった。それに彼女がなんであれ、誰でアレ。自分を瀕死の危機から救ってくれた人に間違いない。


「……立浪たつなみ立浪たつなみ一騎いっきっす」


 名乗らないのはあまりに失礼だ。

 軽く頭を下げる一騎に彼女は嬉しそうに微笑みを返す。


「うんっ。お姉ちゃんはね、アイシス・ユーナナ・ナルミナンって言うのっ。呼びにくいなら、お姉ちゃんって呼んで、良いよ?」


 外人の名前。あまり聞いた事が無い名字だが生憎と外国の名前に詳しい訳でもない。一騎はあっさりと受け入れるが。


「……あ、アイシスさん?」


 流石に、初対面の彼女をお姉ちゃんと呼べるほど図太くは無い。


「っ………」


 そして何故か泣きそうになるアイシス。


「お、お姉ちゃんッ!! お姉ちゃんって呼んで良いっすかッ!?」


 たまらず弁解した。

 駄目なのだ。立浪一騎は母親の教育の性か、あまり女性にかかわらなかった性か、女性に対して自覚する程に弱い。特に泣きそうになる女性は駄目だ。こっちが悪くなくても罪悪感に殺される。

 

「う、うんっ。良いよっ」


 嬉しそうに頷くアイシスに、疲れた溜め息を吐いて力を抜く。


「それで、あの……」

「うんっ。色々、聞きたいよね? だからね。先ずは、イッキちゃんがどう言う怪我をしてたか教える、ね? 大丈夫、だよ。ちゃんとイッキちゃんが聞きたい事は教えてあげるから、ね?」

「怪我っすか……」

「大怪我だったんだもん。イッキちゃんも知らなきゃ駄目、だよ?」

「……そう、すね。はい。教えてくれるっすか?」

「うんっ、勿論! じゃあ、前の画面を見ててね? 今から映像と合わせて分かりやすく説明するからっ」


 アイシスは隣の棚に置かれていたリモコンを手に取ると、一騎の向かい側にあるモニターのような物に向けてボタンを押す。

 映されたのは、成人男性の骨格を表したレントゲンのような映像。一騎の身体だろう。所々、赤い英語のような字が注釈されていた。


「んとねっ? イッキちゃんの大っきな怪我はね。お腹。爆発の性だと想うんだけど、右脇腹から溝に掛けて深い裂傷があったの。これが結構深くて、もうちょっとで内臓が飛び出すとこだったよ?」

「え、えぇ……」


 聞きたくなかった気がする。想像もしたくない。かなりの痛みがあったのは覚えているが、まさか其処まで深い傷だったとは。


「全身に打撲してたし、肋骨は……んーとね。分かりやすく言うなら真ん中と一番下の骨が折れて肺に刺さってたの。あと、背骨には罅が入ってて、頭部は瓦礫が刺さってた」

「おぉぅ……」

「ユキヒメちゃんが言ってたけど、イッキちゃんは立ってたし意識も合ったんだってねっ! す、スッゴいねっ! ふ、普通の人なら痛みでショック死だよっ!」


 ふんすと鼻息を荒くし褒めるアイシスに無言を返した。なんて返事をすれば良いのか分からないからだ。

 まさか、此処まで酷い怪我だとは想いもしてなかった。


「……あ? でも、今はそんなに痛くねぇっすよ? ……もしかして、結構眠ったままでした?」

「み、三日くらいかなっ? お姉ちゃんの予想では一週間は眠ったまま目覚めない筈だったんだけど……」

「……み、三日間……」

「ど、どうしたの、イッキちゃん? お腹痛い? だ、大丈夫?」


 三日間。

 その日日に項垂れると、アイシスが慌てた様子で戸惑う。生きていただけで僥倖と考えるべきか。爆発に巻き込まれて生きているのだから、考えるべきだろう。


「……大丈夫っす……あの、それで、続きは?」

「つ、疲れたなら言ってね? 死にそうになってたんだから、お、お姉ちゃんに頼って良いんだよっ?」

「い、いや、本当に大丈夫っすから!」

「本当……? んー……分かった。治療方法とかは後でちゃーんと教えてあげるから置いといて……イッキちゃんに聞きたいことがあるのっ」


 アイシスはリモコンを棚に置き、一騎の目を真っ直ぐと見返して言う。


「俺に?」

「うんっ。言いにくかったり、嫌だったら断っても良いからねっ? お姉ちゃん、イッキちゃんが嫌ならなんにも聞かないからっ」

「い、いや、大丈夫っすよ。聞きたい事って?」

「うん……」


 何処か言い辛そうなアイシスは、頬を指で軽く搔いて、一騎を上目で覗き見る。口を開いては閉じ、また開き欠け。余程、言い辛いのか。アイシスは戸惑いながらも、やっと口を開く。


「……イッキちゃん、何処から来たの・・・・・?」


 その言葉に籠められた意味は、想像に難くなかった。


「何処、から?」

「お、落ち着いて聞いてね? 言いたくないなら後でゆっくりでも良いの。繰り返すようだけど、イッキちゃんは病み上がりだから、ね?」

「……あの」

「……前提として。私達、“狩り人”はイッキちゃんを逮捕や監禁つもりがない。イッキちゃんが望むなら法的保護制度も使って良いの。それは知っておいてね? ね?」


 アイシスはゆっくりと一騎を落ち着かせるように言い聞かせ、一騎の手を両手で優しく包む。


「あのね。イッキちゃんを助けた後、本当は民間の病院に搬送したの。其処で、お姉ちゃんが治療して一命を取り留めた後、イッキちゃんの身元が分からないから、遺伝子生体認証を使ってイッキちゃんの生誕から今までの経歴を調べさせて貰ったの」

「生体、認証?」

「イッキちゃんの遺伝子から身元を調べるシステム、かな? それでね。イッキちゃんの入国履歴とか、何処でなにを買ったとかの買い物履歴とか。学歴、住んでる場所。産まれた病院。全部、勝手に調べたの。ごめんね……大怪我をしたイッキちゃんの家族に知らせないとって思って……でも」


 アイシスは息を浅く吐き、言葉を続けた。

 

「……なにも、分からなかったの」


 その言葉は一騎に重くのし掛かる。

 立浪一騎は確かに素行不良で勉学も他人に誇れる物ではない。だが、馬鹿ではないのだ。優花と言う天才と呼ばれていた幼馴染みのお陰か、他人より馬鹿げた話には体制がある。しかし。これはあまりにも、馬鹿げている。


「イッキちゃんの家族も、住んでる場所も。挙げ句の果てにはイッキちゃんは産まれてから一度も買い物をしたり、学校に通ってたりした経歴が無かったの……こんなの有り得ない。誰かにイッキちゃんの存在を消されたとしか想えないほど、イッキちゃんに関わる物がなにも見付からなかった」

「俺の……」

「あ、あのね? 言いたくないなら、お姉ちゃんは聞かないっ。でも……言えるなら教えて? イッキちゃん、何処から来たの?

家族はいるの? もし居るんだったら良いの。お姉ちゃん、詳しく聞かないから……イッキちゃん、一人ぼっちじゃないよね?」


 アイシスの声に隠った自分を心配する想い。それが分かっていても一騎は返事を返すことが出来なかった。

 立浪一騎はリアリストではない。UFOを見ただとか、ふと気付くと何万キロも離れた土地に立っていただとか。俄に信じがたい話も嫌いじゃない。ロマンがあって良いと感じる。

 しかし、これは。あまりにも。


「あの、アイシスさん……日本って分かります?」

「……其処が、イッキちゃんの住んでた場所? 国?」

「……国、っすけど」

「う、うーん……ご、ごめんねぇっ……お姉ちゃん、ニホンって知らないのっ……! で、でも、調べるよっ! ちゃんと、調べて、イッキちゃんの家族に連絡とるからっ! あっ、れ、連絡しても、良い? ……調べてもイッキちゃんは嫌じゃない……?」


 期待していた答えと違い、帰ってきたのは予想していた答え。

 そもそも、アイシス自身が一騎の認識とのズレなのだ。亜人だとか、龍人だとか、決してアイシスが悪い訳では無いが彼女自身が一騎の知る世界とかけ離れた存在であり証である。

 亜人と言う存在は当たり前のように存在しない筈なのに。アイシスは自らを隠そうともしていない。角を触らせ、本物だと分からせても尚、自分が不思議な存在だと微塵も想っていない。

 これが意味する答えは一つ。

 だが、本当に導き出した答えが合っていると? こんな事、荒唐無稽の馬鹿話。信じる方がおかしい。

 しかし。

 あぁ、しかし。


「い、イッキちゃんっ……あのねっ。ちょっと、気分変えようかっ!!」


 沈黙を保っていた一騎を察したのか、アイシスは胸の前で手を合わせ立ち上がると直ぐ近くのカーテンを徐に開ける。射し込む眩しい日の光に目を細め、釣られるように外を見た。


「今ね、渡り時だから、ダスクリアの空にいっぱい翼竜・・・・が飛んでるんだよっ!」


 目に飛び込んだのは二つの太陽と空を気持ち良さそうに飛び回る龍の群れ。そして見た事も無い近代的なビルと宙を自在に駆ける飛行機のような機体。


「へっ……マジかよ……」


 その光景は笑うしかなかった。

 それはどう見ても、自分が知る地球の光景では無い。アイシスの存在。外の景色に映る数々の存在。それら全てが。 


「――異世界だってのかよ……ッ」


 此処が地球ではないと一騎に知らしめた。




「い、イッキちゃん……あ、あのねっ。あのねっ!」


 アイシスはまるで泣きそうな程に表情を歪ませる一騎の気を変えようと辺りに視線を巡らせた。優しい人だ。自分の落ち込みを見て励まそうと必死なのだろう。しかし、今は何を言われても真面な反応を返せそうにない。

 顔を右手で覆いどうして良いのか分からない感情を溜めていると、


「――アイシス。貴女が幾ら頑張っても、彼には混乱しか残りませんよ」


 透き通る声が響く。

 聞き覚えがある声だった。自分にとっては昨日のようで、実際は三日前に聞いたハスキーボイス。

 部屋の入り口に寄り掛かって立っている一人の女性。艶やかな銀色の短髪。翡翠色の羽織を肩に掛け、身体に張り付く袖の無いアンダーシャツのような服を身に纏っている姿。

 見間違いで無ければ、彼女は自分が死にかけていた時、助けに来てくれた張本人。


「ゆ、ユキヒメちゃんっ? 事件の捜査中じゃ…」

「犯人を手早く捕まえられたので、予定より速い解散になりました……三人を殺害した殺人犯は、貴女の予想通り、彼等と男女関係にあった女性でしたよ」

「あ、や、やっぱり……じゃなくて、ねっ? あのねっ、あのねっ!」

「分かってます。とりあえず、貴女は外でコーヒーでも飲んでなさい。今の貴女は彼より取り乱してますよ……少しは落ち着きなさい」


 白き彼女はそう言い、手に持っていたマグカップをアイシスに手渡すと、促すように道を開けた。


「で、でも。イッキちゃんはっ」

「良いから。此処は任せなさい」

「……イッキちゃんを虐めない?」

「……貴女は私を何だと想ってるのですか」

「泣かせないっ? も、もし泣いちゃったら、ちゃんと撫でてあげられる?」

「……アイシス。貴女、彼に母性を発揮し過ぎじゃありませんか? なにが貴女を其処まで駆り立ててるのか不思議で仕方ないのですが……」

「だ、だってイッキちゃん、一人なんだよ?  ひ、一人は恐いよ?」


 自分が泣きそうになりながら言うアイシスに彼女は開き欠けた口を紡ぎ、仕方が無さそうに苦笑を溢す。


「……安心しなさい。虐めないし、泣かせもしません。何かあったら貴女を呼びますから。少し外で落ち着いてきなさい。貴女が泣いて如何するのですか」

「……う、うん。ちょっと、落ち着いてくる」

「そうなさい」


 アイシスはマグカップを両手で握り、成り行きを唖然と見ていた一騎を横目で見つめると口を開く。


「イッキちゃん、また後でね? 直ぐ戻るからね? 心配しないでね?」

「……え、あ、う、うっす」

「何かあったら呼んでね? 大丈夫? お腹空いてない? あ、喉渇いてない? お、お姉ちゃんだけコーヒー飲んでたら駄目だよね? これ飲んで良いからね? あと…」

「良いからさっさと行きなさい」

「あぅ……でも、でもぉ……っ……直ぐ戻るからねぇっ……!」


 まだ心配が抜けないのか、後ろ髪を引かれる思いでアイシスはちらちらと一騎を見ながら、不安げに尻尾を揺らし、外へと出て行く。その背を二人で見送った後、彼女はドアをゆっくり閉める。


「全くあの子は……すいません、人一倍心配性でしてね。特に、貴方のような人は特に放っておけないんですよ……自分を重ねてしまうのでしょうね」

「あ、えっと……」

「失礼。自己紹介がまだでしたね」


 白き彼女は静かな歩みで一騎の側に近付くと、アイシスが座っていた席に座り、長い脚を組む。紅い瞳で一騎を見つめ。


「ユキヒメ・リーユキリナル」


 そう名乗る。


「ユキヒメ、さん?」

「まぁ、好きに呼んで下さい。それで、御気分は?」

「あ、えっと……はい。特に、問題ないっす」

「それは何より。三回も心肺停止していた割には無事なようで」

「え゛っ……」

「ふふっ……アイシスには感謝しなさい。貴方を死の淵から救ったのは彼女です。彼女以外には助けることが出来ない有様でしたから。他の国だったら死んでましたね」


 想わず腹を見つめる。赤い血が僅かに滲んだ包帯でぐるぐる巻きにされていて見えないが、包帯の裏は悲惨な怪我が隠れているのだろう。アイシスはゆっくりと語っていたが、彼女が羅列した怪我は確かに死んでいてもおかしくない。

 そもそも、改めて考えれば、内臓が見えかかる程の裂傷や背骨の罅が三日で治るのも不思議な話だ。一騎が知る現代の医学は其処まで優れていなかった筈だ。


「あの……アイシスさんって、もしかして凄い人なんすか?」

「もしかしなくても凄いですよ。国が定めた重要医学者の一人ですから、医学の専門書にも名前が載ってるくらいです」

「……あ、あの人が……」


 オドオドとした自信なさげな彼女からは想像も出来ない。


「まぁ、自分に自信がない娘ですから初対面の人は皆、貴方のような反応をしますね」


 目上で有り、命の恩人でしかも凄い人物に失礼をしたかと戸惑う一騎を、ユキヒメは笑い、肩を竦めて軽いフォローを入れる。


「後で、ちゃんと頭下げねぇと……」

「そうなさい……コーヒーは飲めますか?」

「あ、うっす」

「珍しいですね。ダスクリアの名物ですが、他国の方が飲むと皆が顔を顰める飲み物なんですけど……どうぞ。熱いから気を付けなさい」


 ダスクリアの名物? 言葉が引っ掛かるが、ユキヒメから手渡されたコーヒーを素直に受け取り、一口飲む。


「父が造った発明品の割には、中々イケるでしょう。物理魔学者が造る物ではありませんが」

「……造った?」

「えぇ……あぁ、そうですね。貴方に言っても上手く伝わらないのでしたか……いやはや、父が居ればもっと速く話が進み、貴方も安心出来るのでしょうに……」


 要領を得ない言い方で、ユキヒメは頬に手を付いて目を閉じる。なにを言うべきか悩んでいるようだ。

 彼女は、外で飛び回る翼竜の景色を流し目で見た後、意を決したように息を吐き、言葉を続ける。


「一つ。貴方に聞きたいことがあります」

「はぁ……聞きたい事、っすか? 正直、あんまり期待に添えた答えは返せそうにないっすけど」


 自分がどうなっているのか定まらない現状だ。恩人であるユキヒメが知りたいと言うなら答えたいが、彼女が期待する答えは返せないだろう。ユキヒメは、顎に手を添え、瞳を閉じると、静かに吐息を漏らして口を開いた。

  

「――貴方、“地球”を知っていますか」


 その言葉は、一騎の現状を正に現す言葉だった。目を見開き、驚愕を露わにする一騎に、ユキヒメはやはりと言いたげな顔で腕を組む。

 地球。確かに彼女はそう言った。


「ち、地球って……し、知ってんすかッ!? つうかその言い方じゃ、やっぱり、此処って異世界なのかよ。アニメや漫画じゃねぇんだからッ……て、てことは、もしかして、ユキヒメさんも…ッ」

「落ち着きなさい。傷が開きます」


 顔を寄せ捲し立てる一騎に、ユキヒメは無表情のまま一騎の額に向かって指を弾く。所謂、デコピンだ。デコピンなのだが。


「痛あぁあぁあぁあぁァッ!?」


 それが、人を全力で殴り飛ばしたような爆音と衝撃がなければ、デコピンと呼べたのかも知れない。


「大袈裟な。唯のデコピンでしょう」

「ぉぉッ……で、デコピンってレベルじゃねぇッ……!?」


 額を抑えのたうち回る一騎を、ユキヒメは微笑で見下ろし、軽く額を叩いて気を引く。


「前提として言っておきますが、私は貴方が知る“地球”とやらが何なのか知りません」

「……は、はぁ? じゃあ、なんで地球って…」

「私の父が地球出身なんですよ」


 背もたれに寄り掛かり、コーヒーを飲みながら脚を組み直すとユキヒメは言う。

 父。つまり、ユキヒメの親父か。どう言った意味かまるで分からない一騎は、口を閉じてユキヒメの言葉に耳を傾ける。


「地図にも載ってない国の名前なので、ハタハタ怪しいとは感じていたのですがね……貴方、私と初めて会ったとき、マジ・・って言いましたよね?」


 初めて会ったとき。今がそうでないとするならば、それは、あの雷を纏う化け物に襲われた時だ。

 確かに言った。

 ユキヒメに傷を見せ、内臓が見えていると言う言葉に「マジかよ」と返したのを覚えている。


「い、言ったっすけど……」

「ソレ。私の父の口癖なんです。確か……本気とか本当の意味でしたよね? 地球のニホンとか言う村特有の方言だとか父が言ってました」

「む、村って……」

「その辺りは間違っていても知りませんよ。私も父の故郷にあまり詳しくありませんから……さて、話を戻しましょうか。貴方も、落ち着いてコーヒーを飲みなさい。取り乱してたら聞ける話も聞けません」


 言い聞かせるようにユキヒメは、一騎の手を取り、コーヒーを口元へ誘う。視線をユキヒメとコーヒーに何回か惑わせた後、一騎はゆっくりとコーヒーを飲んだ。

 正直、ユキヒメが言う通り、頭がこんがらがっていて、話が真面に入ってこない。

 訳が分からないのだ。


「さて、イッキ。父は自分と同じ出身の者が居れば、逢いたいと……」

「………」

「……イッキ?」


 此処が異世界だったり。はたまた地球を知っている人が居たり。なにがなんだが。頭がどうにかなりそうだ。

 コーヒーを飲んでいても、味が分からない。飲んでも飲んでも喉が渇く。自分が何処に立っているのかさえ分からない。ぐらぐらと揺れる足場に立っているようで。


「――イッキ。貴方、家に来なさい」

「……は、はい?」


 徐にユキヒメが言う。


「恐らく、父は貴方の現状を唯一知る人でしょう。私にもアイシスにも、貴方がどうなっているのか、本当の意味で分かりません……恐らく、父以外が貴方の話を聞いたところで、本当の意味の理解は出来ないのでしょう。貴方は、私の父と逢うべきです」

「……ユキヒメさんの、親父さんと……?」

「自分でも何が何だか分からないのでしょう? すいません。私も病み上がりの貴方に色々と言い過ぎました。今の貴方に必要なのは、ゆっくりと休み、冷静になる時間ですね」


 静かに微笑むユキヒメは、一騎を落ち着かせる透き通った声で優しく言う。

 冷静になる時間が必要。そうだ。今は、現実を飲み込む時間が欲しい。此処が異世界だとまだ認められてない心では、なにを聞いたって受け止めることなど出来ない。


「……あ、いや。でも、俺、金とか……」

「身元が分からず、故郷への帰り方も場所も分からない貴方から金銭を求めるほど私は冷酷じゃありません。アイシスと言い、私を何だと想ってるのですか……全く」

「でも……」

「行く当てがないなら素直に頷きなさい。今の貴方に出来ることはありますか?」


 出来ること。

 自分が何処にいるか分からず、金もない。外は見知らぬ光景で満ち溢れ、やるべき事も目指すべき事も。全てが分からない。正に孤独だ。

 もし此処で、ユキヒメの好意を撥ね除けた先、自分はどうする。


「………」


 答えは、なにも出来ない、だ。


「――大人を頼りなさい」


 見惚れる微笑でそう言った。

 ユキヒメはそれが分かっている。今の一騎に出来ることは、何らかの手掛かりを知っているユキヒメの父に会う以外、残されていない。


「……お願い、します」

「よろしい。素直に甘えなさい、男の子」


 深々と頭を下げた一騎の後頭部をユキヒメは軽く叩き、優しく微笑む。その表情を見て、無意識に涙が溢れそうになった。不安や、見えぬ先の想いに対してでは無い。いや、それもあるのだが。


 立浪一騎を泣かせそうになったのは、居場所さえ分からぬ場所でも、こう言った人物は必ず居ると言う優しい現実だった。




 

 

 


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