一縷の望み

 藍は、通路の先にあった階下へと通じている階段を駆け下りていた。

 一か八かの奇襲作戦だったが、うまくいった。その策は、覆面の男の手にかけられた雅史が挙げていたもので、藍自身がそれを否定してとり下げられたわけだが、覆面の男は、藍が自殺を計ったものだとばかり考えて、まさか、自分で一度否定したその手段を講じるとは思ってもいなかったのだろう。覆面の男、が室内の状況に違和感を感じ、罠だと覚られるかもしれないという不安もあったが、そうなる前に、こちらから攻撃を加えることができた。

 ただ、その罠を仕掛ける際、床に零す血を得るために、折ったマイクスタンドで自らの腕を刺して出血させたせいで、階下への階段を駆け下りる中、貧血のためか、意識がぼうっとし始めていた。少し深く傷つけすぎてしまっただろうか。ハンカチで腕の傷口を縛ってはいるが、あくまで気休めでしかないため、そう長くは意識がもたないかもしれない。そうなる前に、どうにかしてこの建物から出て、あの覆面の男の手の届かないところまで離れ、助けを呼びに行かなければ。

 莉佳のことが心配ではあるが、今はその元に向かう余裕はない。自殺を仄めかす宣言をした後、覆面の男は、それ程時間をかけずに、藍を監禁している部屋へとやって来た。だとすると、まだ彼女に危害を及ぼしてはいないという可能性が高いが、その彼女を救うには、自分の力だけではどうしようもない。奇襲作戦は二度と通じないだろうし、とにかく今は、自分が助かることだけを最優先に考えるべきだ。この近くに助けを求めることができる民家などがあれば、覆面の男は、藍がそうするだろうと予期しているはずなので、莉佳を殺す前に、我が身の安全を優先して、すぐに逃亡を計ろうとするかもしれない。

 藍は、しだいに意識がぼやけていく中で、そんな風に考えながら階段を駆け下り、一階の、最初にこの建物へと連れて来られた際に入った、〈レインボウズ〉の皆が、拘束されながらも、まだ元気な姿でいた部屋へと辿り着いた。

 その彼らのことを思っている余裕はない。藍はすぐさまこの建物の外へと通じているはずの扉へと駆け寄った。

 だが、どれだけそのノブを回そうとしても、扉は頑として開こうとはしなかった。藍が危ぶんでいたように、その扉は施錠されているようだった。

 この部屋には、窓が一枚もない。この扉が開かないのであれば、藍が監禁されていた部屋の窓も外から頑丈に塞がれていたため、他の皆のいた部屋もそうだろうから、外へと出る手段はもう残されていないことになる。

 おそらくそうだろうとは考えながらも、一縷の望みを託しながらの奇襲攻撃を敢行して、覆面の男の手を逃れここへとやって来たわけだが、それも無駄なあがきで終わりそうだった。

 為す術をなくした藍が、窮しながら立ち往生していると、背後から、かつかつと革靴を踏み鳴らす音が届いてきた。

 はっと振り向いてしばらく、壁を四角くくり抜いたような、この部屋へと通じる長方形の穴から、黒いサマーセーターの肩口を赤い血で染めた覆面の男が姿を現した。

 無言のまま、その左手に握られた銃が、ゆっくりと藍へと向けられる。

 藍は、ここまでか――と観念し、その瞼をぎゅっと閉じた。

 怒号のように響き渡る銃声。

 同時に、藍の意識は、闇の中へと堕ちていった。

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