【Episode:01】 拉致
ある夏の日
八月も終わり間近となったある週末の土曜。
夕暮れの空には、綺麗な虹が架かっていた。
玉虫色に染まりゆく空を彩る、七色のアーチ。
そんな中、藍は、市立図書館での勉学を終え自宅への帰路に就いていた。
その黄昏の空に描き出されたある種幻想的とも言えるような美麗な光景を前に、「綺麗な虹だね」、「写メに撮っとこ」などと、楽しげに会話を交わしながらその様を眺める者達がちらほらと見受けられた。
だが、藍は、その虹へと目を向けることなく、ただ黙々と帰路を急いだ。
*
自宅に戻った藍は、愛犬のラグナを散歩させた後、そのラグナに餌を与えてから夕食の支度にとりかかった。
藍は、この実家で母親と共に二人暮らしをしながら、国立大学の院生として勉学に励んでいる。その大学院は、八月の中旬からしばらくの夏期休暇に入っており、母親は仕事の都合で海外へと渡っているため、家に一人でいるその間、家事はすべて自分で済まさなければならない。
そのため、今日も一人での夕食となったわけだが、特に寂しさはなかった。
藍の父親は、彼女が幼少時に事故で他界してしまい、その後は、母親が女手一つで彼女を育てることになったのだが、その母親は、それからすぐにアパレル関係の会社を立ち上げ、その会社が機運に乗じて大きくなるとともに、家にいられる時間も減っていき、一人で食事を摂る機会も多くなった。
そのため、幼い頃は、寂しさや孤独感で一杯になり、一人涙することもあった。
なので、母親に無理を言って犬を飼うことを許してもらい、一人でいる時間は、新しい家族として迎えることになった、その愛犬ラグナと一緒にすごすことで、寂しさを紛らわせていた。
だが、二十歳を目前に控えた今、そんな風に寂しさを感じることもない。
人は成長するに従い、自然と状況に慣れ適応していくものなのだ。それだけ大人になったということだろう。いつまでも子供のままではいられないということでもある。感情をコントロールする術を知らないままでいると、排他的な世間からつまはじきに遭うことにもなってしまう。
バラエティ番組で芸人達が戯ける様を、どこか冷めた目線で眺めながら、一人リビングで夕食を摂り、皿洗いを終えた藍は、一日の汗を流そうとシャワーを浴びることにした。
一旦二階にある自室へと戻り、着替えを用意して階下へと降りる。
そして、浴室の扉を開けようとした、その時――。
隣にあるトイレの扉が突然勢いよく開いたかと思うと、覆面をした黒ずくめの人物が躍り出てきて、驚きに目を剥く藍を羽交い締めにしながら、黒い革手袋を嵌めた手で、藍の口をきつく塞いだ。
すぐさま、首筋になにかひんやりとしたものがあてられる感触がしたと同時に、身体に激痛が走り、藍は助けを呼ぶ声を上げることもできないまま、そのまま廊下に頽れることになってしまった。
*
それからしばらくが経ち、藍は放心状態から抜け出した。
スタンガンで高電圧を与えられたことで、しばらくは身体が痺れていたが、その痺れももうほとんど感じられなくなっていた。
ただ目隠しをされ、後ろ手に手錠を嵌められ、口にはべっとりと粘着力の高いテープを貼られてしまっており、完全に自由を奪われた状態にさせられてしまっているため、身体を捩るくらいしかできない。
覆面の男が、そんな藍の身体を強引に引き摺り起こし、真っ黒な覆面に開いた二つの穴から覗くぎょろりとした双眸で見据えながら、右手に持った黒光りする銃の存在をちらつかせた。
藍はそのまま、底知れぬ恐怖に怯えさせられつつ、背中に硬い銃口を押しつけられながら廊下を進まされ、玄関口で靴を履かされると、邸外へと連れ出された。
目隠しされている状態であり、身体にまだ僅かだが痺れが残っている状態でもあったため、覚束ない足どりで庭の辺りを進まされていると、愛犬であるボーダーコリーのラグナが、主が危機的状況にあることを動物的な勘で察して目を覚ましたのか、大きく吠え立てた。
「吠えるな、クソ犬!」
覆面の男が、背後でそう怒鳴りつけるのが聞こえた。どこかで聞いた覚えのある声のような気がしたが、すぐに思い出せるわけではなかった。
思わずながら大声を出してしまったことで、近隣の住民に怪しまれたのではないかと焦ったのか、覆面の男は、急かすように藍の背中を手で押しながら、外の車道脇に停められていたらしい車の座席に押しこむようにして乗車させた。
普通の乗用車のシートとは形状が違っていることが、その感触から分かった。肘かけがついたシングルチェアのような造りをしているらしく、座面が高くとられているため、足は宙に浮かせたままだ。
その座席に座らされてシートベルトを嵌められたかと思うと、ヘッドフォンを頭に被せられたのか、耳が痛くなる程に歪んだギターが唸る大音量のロックミュージックが流れてきた。外界の音の一切が掻き消される。
覆面の男は焦っているはずだったが、車はすぐには発進しようとせず、そうされてから一分程が経ち、流されるロックミュージックがサビの部分にさしかかった頃、ようやくエンジンがかかる音がした。ラグナはその間もずっと必死の叫びを続けていたかもしれないが、近隣の住民に不信感を懐かせるには至らなかったようだ。その声を聞かれたとしても、あの普段大人しい犬が珍しく夜鳴きをしているな、くらいにしか思われなかったのかもしれない。
そして、助けがやって来ることもなく、藍はどこかへと連れ去られることになってしまった。
*
車で連れ去られる中、藍は、身体に感じる慣性力を頼りに、今車がどこを走っているのかを、カーナビゲーションがルートを示すように、脳裏に描いていた。この後、もし助けを呼べるような機会が巡って来た時のために、位置情報を把握しておくためだ。流されている大音量のロックミュージックのせいで、車外の音はまったく届いてはこないが、車の走る経路を思い描くことはできる。
そうしていると、藍を連れ去る車は、自宅を出てしばらくのところにあるコンビニの駐車場に停車したようだった。なにか買い物をするつもりなのだろうか。そこを出入りする客達などが車内に囚われている藍の姿を見れば、すぐに警察に通報してくれるだろうが、その対策がとられていないわけがない。車は中の様子が覗えないよう、ウインドウにスモークフィルムを貼るなどされているはずだ。
*
それから三分程が経ち、覆面の男は買い物を済ませて戻って来たのか、再び車は走り出した。
その後も藍は、車が走る経路を記憶にとどめようと努めていたが、住む街を抜けて郊外部へと進み、藍が記憶している地理の範囲外へと出てしまったため、その後の位置情報は分からなくなってしまった。
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