エピソード4【シンデレラは恋をする】⑫



「あ、あの」


俺は、自分の中の記憶の限界を感じ、その女性に尋ねた。


「どこかで以前……お会いしましたか?」

「はい……」


女性はコクリと頷いた。

だが、その仕種が、さらに俺を惑わす結果となる。


分からない。

いくら考えても、何も分からない。

すると、グラスを握りしめたまま、何も言わない俺を見兼ねてか、


「部長……」


女性は、顔を下に向けたまま、続けて喋り始めた。



「私は……近藤です」

「え?」

「近藤恵子です……」

「え……?」



近藤……恵子……?



俺は再び、一瞬呼吸が止まり、自分の耳を疑った。

そして、呆然と少し口を開いたまま、何を言っているのか、やはり全く理解できなかった。

この中年女性は、自分のことを近藤恵子と言っている。

もちろん、それが全ての理由だった。


で、でも、ちょっと待ってくれ。

俺の知っている近藤恵子は、もっと若い女性だ。

もしかしたら、ただの同性同名か?

常識的に考えて、真っ先にそう思った。


だが、1つ気になることがある。

それは、癖が一緒ということ。

俺が知っている近藤恵子は、恥ずかしい事があると、うつむき黙りこむ癖がある。

その姿が、この中年女性と、とてもよく似ている。

不思議なことに、今の彼女は、全く同じ仕草をしているのだ。


すると、そんな俺の心を察知したかのように、遠巻きに様子を伺っていたマスターが、


「実は……」


と喋りながら、俺に近づいてきた。


「その方は……あなたがよくご存知の近藤恵子さんですよ」

「え……?」

「彼女は、あなたと同じように、偶然、1週間ほど前にここに来られたんです。その時、好きな人がいるという話を聞きました」


でも、とマスターは言った。


「会社の上司と部下の関係……親子以上の年の差……どうしても諦めなくてはいけない恋だと聞かされました」


そこで、とマスターは言った。


「私は、1つ魔法を提案しました。その薬によって彼女は、今の姿になったのです。彼女は……」


マスターは言った。


「あなたとの年の差を、どうしても埋めたかったのです」

「な、何だって……」


それは、俺にとって衝撃的な言葉だった。

目の前にいる中年女性が、あの近藤恵子。

どうやら、ファミレスに行ったあの晩、俺がこの『ラブ&ホープ』に来る前に、近藤恵子は、この店に来ていたらしい。


そういえば、あの日、

『いま、客は俺だけですか?』

と聞いた時、

『先程までお1人いましたが、つい今帰られた所です』

と、マスターはこんなことを言っていた。


そうか……そういうことか……

どうやら、俺が来る前に、彼女がここに来ていたのは間違いないようだ。


そしてマスターは、偶然この店にやって来た彼女の、恋のお手伝いをしたと言っている。

でも、それだよ。

それが、おかしいんだ。

どう考えてもおかしいんだ。


「あの!」


俺は少し身を乗り出し、慌ててマスターに尋ねた。


「で、でも、どうやってこの姿に……? シンデレラなら若返るはずじゃ……」

「いいえ……」


マスターは、静かに首を横に振った。


「彼女に提供したのは、シンデレラじゃありませんよ」

「え?」

「前にも、少しお話したと思いますが……私は、他にも薬を作っているんですよ」

「あっ……そ、そういえば……」


俺は、あの時の会話をもう1つ思い返した。

ここに初めて来た時、マスターは確かに、他にも薬の研究はしていると言っていた。

だが、その薬は、俺にはあまり必要がなく、提供してこなかったみたいだが。


さらに、俺は昨日のマスターとの会話も、続けて思い返していた。

マスターは、今ここにいる中年女性、つまり近藤恵子が店から出て行ったあと、こう言っていた。


『いまの女性も、使ってるんですよ。私が調合したカクテルの薬を……』


はっきりと、こう言っていた。

だが、確かに、それがシンデレラとは言っていなかった。


じゃあ、いったい何だ?

彼女は、どんなカクテルを飲んだんだ?


「あの……」


俺は、自分の中にある疑問を全て解決したく、もう一度、マスターに尋ねた。


「彼女が……近藤さんが飲んだカクテルは、いったい何ですか?」

「それはですね……」


マスターは言った。


「彼女にプレゼントした魔法は……ウラシマというカクテルです」

「ウラシマ……」


え……?

ちょ、ちょっと待てよ……


「そ、その名前ってもしかして……」


俺は、すぐにピンときた。

『ウラシマ』とは、おそらくあれしか考えられない。

そう。



ウラシマ……タロウ……


浦島……太郎……




浦島太郎――




十中八九、それで間違いないだろう。

だが、そう思った瞬間、俺の背中に今まで味わったことのない悪寒が、猛烈なスピードで走り始めた。


「ま、待てよ……ということは……」


確か……浦島太郎は、玉手箱で……


「あっ!」


も、もしかして!――


俺は思わず、両手で頭を抱えた。

と同時に、ブルブルと、手と唇の震えが止まらなくなってしまった。


「そ、そのカクテルの効力って……」

「ええ、お客さんがお察しの通りですよ。そのカクテルは……」


マスターは言った。


「老化させる薬です」

「えっ……そ、そんな……」


マスターの一言は、俺に言いようのない衝撃を与えた。

そして、全身の力が一気に抜けていき、心臓をわしづかみにされるような恐怖が襲ってきた。


あぁ……やっぱり、俺の推理は当たっていたのか……


そう。

彼女が飲んだカクテル『ウラシマ』は老化させる薬だった。

浦島太郎が、玉手箱で一瞬で年を取ったように。



若々しい体を、老化させる薬だった――



それは、かけがえのない若さを、自ら捨てたということ。

いくら短時間とはいえ、何事にも変えられない、素晴らしい特権を自ら放棄したということだった。


あぁ、何ということだ。

確かに俺は、彼女と同年代ならどんなに素晴らしいだろうと思っていた。

でも、こんな形で彼女と年が近くなるなんて、誰が予想できただろうか。


「近藤さん……」


俺は、彼女のしわくちゃになった頬を、やさしく撫でながら言った。


「何で……そんなことを……」

「すみません……」


彼女は、今にも泣きそうな顔で、かつ申し訳なさそうに言った。


「でも……私は、やっぱり部長のことが大好きで……大好きで……」



大好きで──



「本当に大好きなんです……」



ポロポロ──



あぁ。

彼女の純粋な気持ちが、ついに形となって溢れ出している。

そう。

彼女は以前と同じように、ポロポロと涙を流し始めていた。


「私が……私が……」


そのあとは、ダムが決壊したように、涙と共に自分の気持ちをどんどんと喋り始めた。


「会社を辞めて年も近づけば、部長は振り向いてくれるかもしれない……私を1人の女性として見てくれるかもしれない……そんなことを考えてしまったんです」


だから、と彼女は言った。


「このお店で、このカクテルの話を聞いた時……私はすぐにお願いしました」


そして、頬を伝う涙を、服の袖口でそっと拭った。



「例え……一生、この姿になってもいいと思ったんです」

「え……?」



一生だと!?──



俺は彼女を見つめたまま、目が点になった。

ど、どういうことだ!?

おかしい、おかしすぎる。

そう。

俺が疑問に思ったのは、彼女が言った最後の言葉。


『一生、この姿でもいい』


もちろん、この一言だった。

だって、シンデレラは12時間で効果が切れる。

ということは、彼女の薬だって、いずれ魔法はとけるはず。


「あ、あの!」


俺は声を荒げ、すぐさま、マスターに尋ねた。


「どういうことですか! 12時間で効果は消えないんですか!?」

「それは……」


マスターは、いたって冷静に答えた。


「12時間というのは、シンデレラのカクテルにおいてのルールです。童話を思い返してみてください」

「え……? 童話……」



――あっ!



その時だった。

俺は、頭の中にある事が浮かんだ。


シンデレラは、夜中の12時で魔法がとける。

いつものみすぼらしい姿に戻ってしまう。

でも、浦島太郎は違う。

そう。


玉手箱を開けると、年寄りになって一生そのままだ。



「そ、そんな……」


俺の思考回路が、完全に凍りついてストップした。

さらには、全身の筋肉が無くなっていくかのように、小指の指先を動かす力さえ失ってしまっていた。


嘘だ。

嘘だろ。


彼女は、一生、この姿なのか──


俺は、呆然と彼女のしわだらけの顔を見つめたまま、何もすることができなかった。


あぁ。

彼女は、なんて選択をしたんだ。

でも、それは全て俺への恋心のため。

あぁ、こんなに……こんなに、彼女は俺のことを好きでいてくれたのか。


「あぁ……」


マスターが言っていたことは正しかったんだな。

偽ってでも恋がしたいというのは、言い換えれば強い恋心の現れ。

彼女は、俺に対してそれほど強い恋心を持ってくれていたということだ。


「で、でも……」


でも、ダメだ。

それじゃ、ダメなんだ。

彼女が偽りの姿で、このまま一生を過ごしていくなんて、いいわけがない。



いいわけがないんだ!――――



「マスター!」


俺は唇を噛み締め、席から立ち上がると、必死で訴え始めた。


「どうにかして、彼女を元の姿に戻してやってください! 金ならいくらでも出します!」


そして、カウンターにこすりつけるように頭を下げた。


戻してくれ。

彼女を、本当の姿に戻してくれ。


目を潤ませながら、これでもかというぐらい、なりふり構わず懇願した。

すると、マスターは俺の肩にそっと手を置き、


「お客さん……」


静かに口を開いた。


「あなたは、恋がしたいという強い気持ち……そして、相手のこともきちんと考えることのできる素晴らしい心を持っていますね」


実は、とマスターは言った。


「彼女を元に戻す方法はありますよ」

「え……?」

「それは……」


そして、ニコッとやさしく微笑みながら言った。


「若返りの薬……シンデレラを飲めばいいんです」

「シンデレラを……?」


そう。

それが、唯一、彼女を元に戻す方法だった。


どうやら、ウラシマの成分は、シンデレラを飲むことによって効果が無くなるらしい。


まるで、パレットの上の黒い絵の具が、一瞬で水に洗い流されるように。

鉛筆によって黒く変化した白い紙が、消しゴムの力で元の白さを手に入れるように。

ウラシマの魔法は、跡形も無く消え去ってしまうということだった。


「や、やった! やったぞ!」



元に戻る。



シンデレラの力によって、彼女は元の姿に戻ることができるんだ。





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