エピソード4【シンデレラは恋をする】⑧
* * *
――1週間後。
俺は、いつもと変わらず会社に出社していた。
いつもと変わらない仕事。
いつもと変わらない帰宅時間。
同じような日常を送っていた。
だが、1つだけ変化があった。
そう。
近藤恵子が、よつば銀行を辞めた。
退社したのは、昨日のこと。
どうやら、生まれ故郷で馴染みのある九州に帰るらしい。
一部の同僚社員は『寿退社か?』などと、はやし立てていたが、俺にはすぐに分かった。
それが、嘘だということが。
退社の日、近藤恵子は俺にお辞儀をして笑顔でこう言った。
「また、会える日を楽しみにしています。今までお世話になりました」
いつもながら、うつむいて恥ずかしそうなそぶりも時折見せていた。
いったい彼女は、どういう気持ちだったのだろう。
告白を断った私に対する当てつけだろうか。
それとも、本当にそう思ったからそう言ったまでだろうか。
おそらく、後者だろうな。
彼女は、本当に純粋な女性なんだから。
バカな俺でも、長い間、彼女を見てきたんだから、それぐらいは分かる。
とにかく、彼女が辞める原因が俺なのは間違いないだろう。
だからだ。
だから、俺は彼女の告白を無駄にしないためにも、もう一度素晴らしい恋をしようと決めたんだ。
――午後7時。
「よし……」
俺は仕事が終わったあと、ある場所にやって来ていた。
そう。
その場所とは『ラブ&ホープ』
俺が近藤恵子の告白を断ったあとに訪れたあのバーだ。
あぁ、そうか。
あの日から、もう1週間が経っているのか。
もちろん今でも、はっきりと覚えている。
あの時、俺は若返りの薬『シンデレラ』を口にした。
すると、マスターが言ったように、喉が焼けるような激しい痛みに襲われた。
しかし、それはほんの一瞬。
一瞬だった。
――そして、奇跡が起こった。
次の瞬間には、俺は20代前半のような若々しさを手に入れていた。
みずみずしい肌の弾力。
白髪のない黒い髪。
みなぎる筋肉。
未来への希望に満ち溢れた輝ける瞳。
全てが、あの時の自分と同じだった──
にわかには信じられないが、俺は本当に若返っていた。
嬉しくて楽しくて、ずっと心が踊っていた。
――しかし、魔法は続かない。
マスターが言ったように、その効果は12時間。
俺は次の日の朝11時前には、元のおじさんの自分に戻っていた。
あの時は、非常に困ってしまった。
その日も会社に行かなくてはいけないのに、薬の効果が続いて若いままだったんだから。
しょうがないから、会社には理由をつけて、遅刻して行ったんだよな。
まあ、いい。
今となっては、それもいい思い出だ。
そして、俺はあれから考えた。
若返りというのは、本当に自分にとって素晴らしいものなんだろうか……と。
だって、そうだろう。
若返ったところで、効果は12時間。
そして、そんな容姿で会社に行ったり、知り合いに会うわけにもいかない。
つまり、何のメリットもないということだ。
しかもまた、この薬の値段が高い。
この間は、お試し的なサービスで無料だったが、次回からは、1回30万円になるのだ。
こういう風なことも含めて色々考えると、使っても意味がないんじゃないか……数日は、そういう考えが頭の中を支配していた。
でも、その後、こういう考えが浮かんだ。
『会社が休みの日に、誰も知らない場所で、12時間だけ失った青春を満喫すればいい』
こういう風に、一時の夢を見るためなら、充分にこの薬を飲むメリットはある。
明日は、祝日で会社は休み。
現在時刻は、夜の7時。
ということは、次の日の朝まで、充分若返ることができる。
だったら、若さを手に入れて夜の街を楽しみたい。
俺は、そういう結論に辿り着いていた。
あぁ。
思えば、昔はよくディスコに行って、朝まで飲み歩いたりしたものだ。
まあ、今はディスコではなく、クラブっていうらしいがな。
まあ、何でもいい。
とにかく、俺は、一時の夢を見たい。
そう。
だからだ。
俺は再び、シンデレラになることを決めた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
ラブ&ホープのドアを開けると、マスターは前と変わらず、やさしく出迎えてくれた。
あいかわらず、カウンターだけのこじんまりとした店だ。
今日もお客は誰も……
おっ、今日は1人いるな。
1番奥の席に、俺と同じ年ぐらいの中年のおばさんが座ってるな。
俺はチラチラと横目で見ながら、席につこうとした。
──すると、その時。
「こんばんは」
俺と目が合ったその女性は、軽く会釈をしながら、にこやかに挨拶をしてきた。
「ど、どうも、こんばんは」
俺も慌てて、小さく頭を下げた。
あぁ、なんて笑顔の素敵な女性なんだ──
その女性に対する第一印象は、そういう感じだった。
そして、俺は彼女から最も遠い、1番手前の席に座った。
しかし、不思議なものだ。
こんなオシャレなバーの7席のカウンターに中年が2人。
ハハッ……平均年齢の高いバーだな。
まあ、いい。
とにかく、マスターに薬を作ってもらわなければ。
「マスター、ちょっと……」
俺は、手招きをしてマスターを近くに呼び、耳元に小さな声で言った。
もちろん、奥の中年女性に聞かれては、マスターも何かとまずいだろうという配慮からだった。
「シンデレラ……また今日も、いただけます?」
「お気に召しましたか?」
「えぇ……もう一度、あの頃に戻りたいんです」
「なるほど。活用していただけて、私も嬉しいですよ」
マスターは、やさしい笑みを浮かべ「では、少々お待ちくださいね」と言うと、カウンターの奥に消えていった。
おそらく、シンデレラの調合に取り掛かってくれたのだろう。
俺は、少しドキドキと心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
やはり、奥の席に座っている中年の女性に聞かれやしないかと、肝を冷やしていたからだ。
そのために、わざわざ席も女性と離れて座ったというわけだ。
マスターは、俺のことを認めてくれて、シンデレラを提供してくれている。
だから、これは秘密。
絶対に秘密にしなければいけない。
そして、マスターがその場を離れたあと、俺は前と同じようにウイスキーに口をつけ始めた。
──すると、その時。
「あの……すみません」
えっ……どうしたんだ……?
俺は一瞬、大きく目を見開いた。
なぜなら、奥の席に座っていた中年女性が、立ち上がって俺に近づき、丁寧に話しかけてきたからだ。
「こちらには、よく来られるんですか?」
「えっ? えっと……」
俺は、口を滑らせて余計な事を言わないように、あまり目を合わさずに答えた。
「今日で2回目です。落ち着いた雰囲気がすごく気に入ってるんですよ」
「私もです。いいお店ですよね」
女性は、何だか楽しそうに話していた。
それにつられてか、自分でも不思議なぐらい、俺もすぐに饒舌な口調に変わり始めた。
あぁ。
やはり、笑顔の素敵な女性だ。
気づくと俺は、ずっとその女性の顔を見ながら、数分間、他愛ない話をしていた。
やがて、女性は深々とお辞儀をすると、
「私、用事があるのでこれで失礼します。すごく楽しい時間を過ごせました。どうもありがとうございました」
と言い、ドアの前でもう一度お辞儀をすると、店から出て行った。
あぁ。
なんて綺麗な女性なんだ。
俺は、彼女の笑顔や話し方、清楚な雰囲気を目の当たりにし、素直にそう思えていた。
「お客様、お待たせしました」
そして、それを見計らったように、マスターがカクテルを持って戻ってきた。
「話が弾んでいたようなので、少し待たせてもらいましたよ」
マスターは、ウインクをしながらニコリと笑った。
ハハッ……何だか恥ずかしいな。
こんな、おじさんとおばさんなのに、中学生の恋愛みたいな対応をされちゃったな。
そしてマスターは、もう一度、女性が店から出て行ったのをよく確認したあと、
「実は……」
と、小声で話し始めた。
「今の女性も使ってるんですよ。私が調合したカクテルの薬を……」
「え?」
薬を使ってる!?──
俺は、目を丸くして驚いた。
そうなのか。
あの女性も、若返りの薬を使っていたとは。
ということは、あの女性もある日突然、若い姿で街に繰り出しているというわけか。
すごい。
すごいぞ。
俺以外にも、街中で普通に魔法にかかった人間がいるなんて。
俺は、何だか不思議な気分になっていた。
そして、2分ほど、カクテルの透き通るようなピンク色を眺めたあと、
「よし……」
深呼吸を2回して、グラスをそっと手に持った。
「じゃあ……いただきます」
次の瞬間、ゴクリと、シンデレラを一気に飲み干した。
「うっ!」
前回と変わらず、喉が焼けるような痛さが俺を襲う。
だが、この痛みこそが若返っている証拠。
この苦痛を乗り越えれば、俺は再びあの時の自分を手に入れることができる。
「うっ! うぁっ!」
そして、もう1つ大事な事。
恋をしたいと、強く願わなければいけない。
「ぐあっ!」
俺は苦しみに耐えながら、強く強く願った。
恋がしたい。
恋がしたい。
もう一度、恋がしたい──
俺は若返って、もう一度、素晴らしい恋がしたいんだ。
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