エピソード4【シンデレラは恋をする】⑦


そして、ウイスキーのグラスも、そろそろ空になろうとした時、


「お客さん……」


マスターは、2杯目のおかわりを俺に差し出しながら言った。


「合格です」

「え?」

「お客さんなら……合格です」

「合格……?」


俺は、マスターの言っている意味が全く分からなかった。


合格?

合格って何だ?


分からない。

全く意味が分からない。

俺は首を傾げ、眉をしかめることしかできなかった。


だが、マスターはそんな俺を横目に、


「あのですね、お客さん……」


クスリと笑って、さらに話を進める。


「この店の名前は、表に書いている通り、ラブ&ホープといいます」


つまり、とマスターは言った。


「全ての人に、恋に希望を持ってほしい……そういう願いを込めて、この名前にしました」

「は、はあ」

「ちなみに……」


マスターは、手の平でそっと俺を指し示した。


「お客さんは、恋をしたいという強い気持ちがありますよね?」

「ま、まあ……」


俺は核心を突かれて、少し胸がドキッとした。


「本音を言えば……そうですね」

「今回の件も、自分が若ければ、と思っていますよね?」

「は、はい……実を言うと……まさにその通りです」

「なるほど……やっぱり、あなたは合格です」


マスターは、もう一度、クスリと笑って見せた。


合格――


やはり、俺が合格だと言っている。

だが、分からない。

いくら考えても、俺には、まるで合格の意味が分からなかった。


「あの……」


俺は、胸のモヤモヤを解消するため、会話が途切れた瞬間に、すぐさま尋ねた。


「合格って……どういう意味なんですか?」

「それはですね……とっておきの商品を、あなたになら見せてもいいかなということです」

「商品……?」

「実は……私は長年かけて、ある物を開発してきました。それは……」


マスターは言った。



「若返りの薬です」



え……?


「あなたになら、お売りしてもいいですよ」

「…………」


俺はマスターを見つめたまま、何も言うことができなかった。


若返りの薬――


それは、のどから手が出るほど、今の俺には欲しいもの。

だが、あるわけない。

そんな物があるわけない。

俺は、マスターが何を言っているのか、やはり全く理解できなかった。

だが、少しの間、考えた後『おそらく、俺のことをからかって遊んでいるに違いない』と自然にそういう結論に達していた。


なるほど。

そういうことか。


「あの……」


俺は、根元まで短くなったタバコを灰皿に押し付けると、軽く笑いながら言った。


「そういう冗談は、やめてくださいよ」

「いえ、冗談なんかじゃありませんよ」


マスターは真剣な眼差しで言った。


「私は、本気で話しているんです」

「え……?」


笑みを浮かべて顔の筋肉が緩んでいた俺は、一瞬で固まってしまった。

なぜなら、あまりにもマスターの目に力があったからだ。


私の思いよ。

この2つの瞳から、あなたに伝われ。


そういう気持ちが、瞬時に俺の心に流れ込んできた。

だから、俺はすぐに悟った。

この人は、嘘はついていない。

本当に若返りの薬を持っている。

俺は、さっきまでの自分が嘘のように、完全にマスターの話を信じ始めていた。


「では……」


マスターは、グラスを戸棚に片付けると、変わらず真剣な口調で言った。


「薬について、もう少し詳しく話しましょうか」

「は、はい」

「いいですか……」


そして、ゆっくりと丁寧に、薬の説明を開始した。

その説明と共に、マスターは自分のことも少し話し始めた。


マスターは元々、遺伝子や細胞の分野においては、その世界でかなり名の知られた研究者だったらしい。

だが、その研究をやめた今は、このバーを経営しているそうだ。

なぜ、表舞台での研究をやめたのか?

そこまで詳しくは聞かなかったが、どうやら人間関係が嫌になったようだ。


どうも、以前、自分が研究していたデータを同僚が盗んで学会で発表したらしい。

それからだ。

マスターが表舞台での研究をやめてしまったのは。


なるほど。

どんな世界でも、人間関係ってのは大きなウエイトを占めているんだな。


そしてマスターは、このバーを営みながら、ある研究を極秘に進めていた。

それが、若返りの薬だった。

さらに、どうやら他にも研究している薬はあるらしい。

だが、それは、俺には必要ない薬のようだ。

だから、今の俺に最適な薬を提供してくれるということ。


そう。

それが、若返りの薬だった。


「お客さん、どうしますか?」


マスターは、俺の決定を待っている。

使うか使わないか、その選択をしなくてはならない。

俺は目を閉じたまま腕を組み、どうするべきか悩みに悩みまくった。


「とりあえず……見せてもらっていいですか?」


その結果、俺は実物を要求した。

そう。

悩んではいたが、やはり、気になって仕方がない。

それが、俺の本心だった。

すると、マスターは、


「じゃあ、少しお待ちくださいね」


と言い残し、カウンター奥の部屋に入って行った。

何もすることがなく1人になった俺は、2杯目のウイスキーに口をつけ始めた。


「若返りの薬……か」


もし、それが本当なら、俺はどうなってしまうのだろう。

近藤恵子と、恋愛関係に陥ってしまうのだろうか。

酒が入っていることもあり、色々な考えや妄想が、頭に浮かんでは消えていた。

そして、5分ほど経過したあと、


「お待たせしました。こちらが、若返りの薬です」


と、マスターは、テーブルにそっと薬を置いて見せてくれた。


「えっ? こ、これが……?」



これが、若返りの薬!?――



俺は、目の前に置かれたカクテルグラスをじっと見つめていた。

そう。

マスターは、そのカクテルが、若返りの薬だと言っているのだ。

少しピンクがかった色。

匂いは、甘いハチミツのような感じ。

とにかく、どこからどう見ても、普通のカクテルにしか見えなかった。


「さてと……こちらが、先程お話しました若返りの薬です。名前は……」


名前は……?



「シンデレラ」



マスターはニコッと笑って、カクテルの紹介をした。

『シンデレラ』

それが、このカクテルの名前だった。


「では、詳しい説明をさせていただきます。こちらのカクテルですが……」


そう言うと、マスターは、若返りの薬について、こと細かに話し始めた。

どうやら、この薬は、12時間しか効果がないらしい。

なるほど。

童話のシンデレラも、確か午前0時を過ぎると魔法が解けるんだっけ。

夢の時間は、そう長くは続かないということか。


そして、もう1つ。

この薬は、このままでは効果がないらしい。

それは、俺の気持ちに重要な関係があるとのこと。

そう。

『恋をしたいという強い気持ち』

俺の中でこの気持ちがないと、薬は効果を発揮しないようだ。


なぜだろう?

なぜかは分からない。


いや、マスターはこの事についても、わりと細かく説明してくれた。

遺伝子がどうのとか。

恋の緊張感がもたらす脳波がどうのとか。

細胞における染色体がどうのとか。

でも、俺にはあまり意味が分からなかった。


だが、やらなくてはいけないことはよく分かった。



恋をしたいという強い気持ち――



この気持ちを持たなければ、薬は効果を発揮しない。

そういうことだった。


「分かりました」


俺はゴクリと唾を飲み込み、意を決したように言った。


「一度……試させてもらっていいですか?」

「えぇ、もちろん構いませんよ。ちなみに、初回はサービスですので無料で結構です。どうぞ、お試しください」


ですが、とマスターは言った。


「この薬は少しの時間、喉が焼けるような痛さを伴います。大丈夫ですか?」

「え……?」


痛さ!?――


俺は、一瞬、ビクッと足がひるんだ。

だが、言い換えれば、この痛さを乗り越えるほど、恋をしたいという強い気持ちを持てということか。

なるほど。

そういうことか。


よし……だったら、耐えてみせる。


俺は耐えてみせるぞ。


「大丈夫です」


俺は、真剣な面持ちでゆっくり頷いた。


「では……いただきます」


そして、そのカクテルをグイッと一気に飲み干した。

――すると。


「うっ!」


のどから胸にかけて焼けるような熱さを感じ始めた。

それは、苦しみに近い、毒を飲んだような感覚。

とにかく、言いようのない苦痛が全身を覆い始めた。


「ぐあっ!」



く、苦しい!――――



俺は、いったいどうなってしまうんだ。

だが、俺は耐えてみせる。

絶対に耐えてみせるぞ。


俺はなりたい。

なりたいんだ。



俺は、シンデレラになりたいんだ――



少しの時間でもいい。

俺は、魔法にかかりたいんだ。


そして、俺は恋がしたい。



もう一度


もう一度




俺は、恋がしたいんだ






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