エピソード4【シンデレラは恋をする】⑥
* * *
――1時間後。
「ここでいいか……」
しばらくの間、あてもなく歩いたあと、1つのバーが目に入った。
いや、駅からこのバーまでの間に、何件か酒を飲める所はあった。
でも、俺の中の空虚感と、駅の近くだと彼女が1人で飲んでいるかもしれないという思いから、少し駅からは距離をとった。
歩いた。
寂しく歩いた。
たまに、足を動かすのをやめ、ボンヤリと考えこんだりもした。
ストリートミュージシャンの演奏を、長い時間立ち止まって聞いたりもした。
とにかく、トボトボと無表情でうつむきながら、ここまで歩いてきた。
すれ違う通行人の目には、俺はどう映っていたのだろう。
リストラされた行き場のない中年おやじに見えたに違いない。
おそらく、いや、きっと。
「この店は……」
何という名前なんだ?
俺は、店の看板にチラッと目をやる。
すると、そこにはこう書いてあった。
『ラブ&ホープ』
そう。
その店は、ラブ&ホープという名前だった。
「恋と希望……か」
ハハッ……今の俺にはお似合いだな。
だって、俺みたいな中年には、恋も希望も何もないんだからな。
「いらっしゃいませ。お1人ですか?」
「えぇ」
店のドアを開けると、そこはカウンター席だけのこじんまりとした店だった。
「何にします?」
「ウイスキーをロックで」
「かしこまりました」
そして1分ほどで、手際よく、俺の目の前には注文の品が運ばれてきた。
この店のマスターは、65歳ぐらいだろうか。
確実に、俺より年上に見えるな。
でも、何だろう。
喋り方も年寄りくさくないし、動きもきびきびしているな。
あぁ、そうか。
おそらく、充実した毎日を送っているんだろうな。
だから、こんなに輝いて見えるのかもしれないな。
「今、客は俺だけですか?」
「そうですね。先程までお1人いましたが、つい今帰られた所です」
「そうですか」
良かった……他には誰もいないのか。
俺は少しホッとした。
内心、もしこの店に彼女が居たらどうしようと思っていたからだ。
そして、今日の出来事を振り返りながら、ウイスキーを3回ほど口にした時、
「お客さん」
マスターがやさしく声をかけてきた。
「何か悩みでもあるんですか?」
「え?」
「いやね、あなたの顔にそう書いてあるもんでね」
「あ、あぁ……」
ハハッ……まいったな。
どうやら、このマスターには嘘はつけそうにないな。
きっと、こういう仕事柄、人の心を覗き見る目がずば抜けているんだろうな。
おそらく、俺の顔にはこう書いていたのだろう。
『俺は、純情な女性の告白をそっけなく断りました。誰か俺の話を聞いてください』
こう書いていたのだろう。
でも俺は、少し嬉しかった。
誰かに俺の気持ちを聞いてもらいたい。
そう思っていたのは、本当だったからだ。
「実は……ついさっきの出来事なんですが……」
俺はためらうこともなく、合間合間にタバコをふかし、自然と思いつくままに喋り始めていた。
俺には、部下の若い女性がいること。
その女性に告白されたこと。
そして、断ったこと。
まるで、増水した川のように、すごい勢いで話を進めた。
そして、マスターは、ただただ黙って聞いていた。
時折、頷く仕草を交えながら、俺の話を真剣に聞いてくれていた。
そして、他愛ない世間話なども含めて、そのまましばらく雑談したあと、
「お客さん……」
マスターは、今までに見せなかった真剣な眼差しを見せ始めた。
「あなたは、恋をしたいとお思いですか?」
「え?」
「今でも……できるならば、恋をしたいと強く思っていますか?」
マスターは洗い立てのグラスを拭きながら、俺にそう尋ねてきた。
恋をしたい……か。
そりゃ、俺だって恋がしたい。
今は、離婚して独り身なんだし。
できることなら、恋はしてみたい。
「もちろんです……」
俺は、残り少なくなったウイスキーのグラスを見つめながら言った。
「できることならば、もう一度、恋がしたいですよ」
でも、と俺は目をつむり首を横に振った。
「恋は……若い人だけの特権ですよ。俺みたいな人間にはもう無理ですよ」
俺は、マスターに軽く笑いながら、最後をそう締めくくった。
若さ――――
それは、素晴らしいもの。
自分が年を取ってから、失ってから初めて分かるもの。
『あぁ。あの頃は輝いていたな』と、遅ばれながらやっと気づくことのできる、とてもかけがえのないものだ。
もちろん、近藤恵子のことだって、俺が若ければ、結果は違っていたかもしれない。
もし、俺と近藤恵子が同年代なら、そこには、素晴らしい恋人関係が生まれていたかもしれない。
俺は、グラスにぼんやりと映る自分の顔を見ながら、そんなことを考えていた。
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