エピソード4【シンデレラは恋をする】⑤



だが、やはり、人間は徐々にその状況に適応する力を持っているようだ。

沸き上がる胸の高鳴りと共に、俺の思考回路は、再び活動を始めた。


「ど、どうしたんだ……?」


俺は、多少とまどいの残る声で尋ねた。


「いま、俺のことを好きって言ったのか?」

「はい……」


彼女は、俺の目を見ながらゆっくりと喋り始めた。


「私は……入社したての頃から、ずっと部長が好きでした……」


え……?


「亡くなった父に雰囲気が似てるっていうのもあるんですが……いつしか、部長のやさしさにどんどん惹かれていったんです」


でも、と彼女は言った。


「2年前までは、その気持ちを抑えていました。部長には奥さんもいるし……」


でも、ともう一度、彼女は言った。


「部長が離婚したって聞いてからは、思いを抑えることができなくなったんです。だから……私は……」


彼女は言った。



「部長のことが……好きです」



え……う、嘘だろ……


彼女の目は本気だった。

全身の力を全て使って、一文字、一文字、言葉を必死で伝えている。

まさしく、そんな感じだった。


そして彼女は、そのあとうつむき黙りこんでしまう。

ファミレスで発見したことだが、これは彼女の癖だろう。

恥ずかしい時、無言でうつむいてしまう。

彼女の癖だろう。

きっと、いや、確実に。


しかし、驚いたな……まさか、彼女が俺のことを好きだったなんて。

全く気づかなかった。

ひょっとしたら、会社にいる時に、そういう兆候を感じることができたのだろうか。

恋に敏感な人なら、彼女の気持ちに気づいてあげられたのだろうか。

でも、俺はバカだからさ。

そんな気持ちには、全く気づかなかったよ。


あぁ。

でも、俺なんだよな。

彼女の背中を押したのは俺なんだよな。


後悔しない恋をしなさい──


そう言ったのは俺なんだよな。


女房も、俺の言葉をきっかけに結婚を決意してくれた。

そして、近藤恵子も、俺の言葉をきっかけに告白を決意してくれた。

この2つは、一見似ているようで全くの別物だ。

なぜなら、私は近藤恵子の気持ちを受け入れることができないからだ。


上司と部下。

親子ほどの年齢差。


無理だ。

どう考えても無理だ。


それに、あの子には未来がある。

輝ける未来がある。


いま、あの子が抱いている気持ちは、ただ、歪んでしまった恋心が暴走しているだけ。

グニャリ、グニャリと、歪んでしまっただけ。

恋をする相手を間違っているだけ。

彼女もすぐに気づくだろう。

だから、だからだ。

なおさら、彼女の気持ちを受け入れるわけにはいかない。

彼女の貴重な時間を無駄にさせるわけにはいかない。


『若さ』というのは、ただそれだけで素晴らしい。

ただそれだけで、毎日を輝かせることができる。

それほど『若さ』というのは、素晴らしいものだ。


だから、だからだ。

俺は、彼女の気持ちを受け入れることはできない。


「すまない……」


俺は、コートのポケットに手を突っ込み、視線を落としながら言った。

はっきり断る。

もちろん、そのつもりだった。

――だが。



「きみの気持ちには……」



あぁ。



「その……」



ダ、ダメだ。



「…………」



俺はそれ以上、言葉が出てこなかった。

言えない。

短い一文すら、最後まで言うことができない。


『きみの気持ちには、答えることができない』


こんな短い一文すら、きちんと言うことができない。

俺は、中途半端な言葉だけをどうにか口から吐き出すことができた。

そして、それから先は、言葉に詰まって何も言えなくなってしまった。


俺はバカだからさ。

恋に慣れていないからさ。

こういう場合、どうやって言葉をつむぎだせばいいのか、分からなかったんだ。

彼女を傷つけてしまうんじゃないか。

そんな余計なやさしさが、俺の心の中の半分を占めていたからだ。


そして、約2分間──


俺たち2人に、会話は全くなかった。

その間、3人ほど駅のホームへ急ぐ人影が目に入った。

7個の階段の段差を挟んで見つめ合った俺と彼女の横を、何食わぬ顔ですりぬけていった。


俺達は、どう映っていたんだろう?

まさか、こんな若い女性に中年のおじさんが告白されてるなんて思わないんだろうな。

きっと、いや、確実に。


そして、さらに1分が経過した時、


「あの、部長……」


彼女が、うつむいたまま、静かに口を開いた。


「私のこと……嫌いですか……」

「いや、そうじゃない」


俺は、慌てて首を横に振った。


「決して、そういうわけじゃないんだ。ただ……」

「…………」

「ただ……」



ただ──



そこから先の言葉が、何かにひっかかったように全く姿を現さない。

再び言葉に詰まってしまう俺がそこにいた。


あぁ。

また、しばらく沈黙が続くのだろうか。

俺は自分の脳内から、1秒でも早く、この場に最適な言葉を見つけようと必死だった。

――すると。


「ひょっとして……」


言葉に詰まった俺を見兼ねてか、それとも助けようとしてくれたのか、彼女のほうからそっと言葉を投げかけてきた。


「私が……部長の部下だからですか? それとも……」


彼女は悲しそうに言った。


「年齢の問題ですか……?」


ポツリと寂しげに口を開く彼女は、やはりうつむいたまま顔をあげようとしなかった。

だが、その口調はしっかりとしていた。

おそらく、彼女も1番気になっていたのだろう。

この2つの問題が、1番気になっていたのだろう。


俺は何も言わず、ゆっくりと2回頷いた──

最初の頷きは、部下と上司の間柄という壁。

2回目の頷きは、親子ほどの年齢差という壁。


その2つだよ。

その2つの大きな壁があるから、きみとは恋をすることができないんだよ。


俺の2回の頷きには、そういう気持ちが込められていた。

すると、彼女は、


「分かりました……」


と、か細い声で一言だけつぶやいた。



ポロポロ――

ポロポロ――



え……?



ポロポロ――

ポロポロ――



あぁ。

涙だ。

彼女の目から、涙が流れ始めた。


それは、とても綺麗な涙。

白い透き通るような肌を伝う涙は、街灯にライトアップされ、とても美しかった。

そして、彼女は服の袖口でそっと生まれたての涙を拭うと、


「今日は、ごちそうさまでした。じゃあ……失礼します」


と言いながら深くお辞儀をして、駅とは反対の方向に走っていった。


彼女は、俺の2回の頷きで全てを悟ったのだろう。

俺の気持ちを察してくれたのだろう。

おそらく、いや、きっと。


俺は、その後しばらく、地上から7個の段差を下りた階段で佇んでいた。

その間、俺の横を、5人ほど足早に通り過ぎていった。

俺の姿は、どう映っていたのだろう。

まさか、若い女性の告白を断った中年おじさんとは誰も思わないだろうな。

きっと、いや、確実に。


俺はそのあと、駅のホームへは行かなかった。

何だろう。

何だか、酒が飲みたくなったんだ。

久しぶりに恋の感覚というものを味わったからだろうか。

それとも、彼女の告白を断ったことに対して、少なからず罪悪感があったのだろうか。

それは、自分でもよく分からない。

でも、何だか今は、1人になりたくなかった。


俺は、バカだからさ。

こんな時は、酒を飲んで紛らわすしか方法を知らなかったんだ。



だから、だからなんだ。


俺はタバコに火を灯すと、夜の町へと歩みを進めて行った。







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