第三章 背中合わせのライラ③【書籍用改稿版】
片倉彰文は自宅近くにある小さな公園のブランコの柵にもたれかかっていた。
目の前には、中学の制服を着たひとりの少女がいる。
ブランコに腰をかけ、両手でぎゅっと鎖を握っていた。
彼女は穂村千尋。彰文の幼なじみ。
家が隣どうしで、ふたりともひとりっ子だったから、姉弟のように育った。
千尋のほうが一学年上。
千尋はさっきまで屈託なく笑っていたが、今は顔を伏せている。
「そう……、東京の中学に、転校するの……」
千尋が絞りだすようにつぶやく。
長い髪が流れ落ち、彼女の表情を隠している。
か細い肩がかすかに震えていた――
これは夢ではない。
作品世界の現実なのだ。
『背中合わせのライラ』という作品の冒頭のシーン。
いったい何度、彰文はこのシーンを読んだことだろう。
シミに侵されたアーミリカが言ったとおりだった。
作品世界は閉ざされている。
限られた時間と空間で、同じ物語が永遠に紡がれるのだ。
彰文はずっとここに留まり、何十、何百回とループしている。
そのとき、千尋がゆっくりと顔をあげた。
あの日、彼女は顔をあげてなどいない。
この世界でも、こんな展開は初めてだった。
千尋がストーリーから逸脱したのだ。
彰文は緊張と期待を同時に覚えた。
「また、ここから始めるの?」
千尋が笑いかけてくる。
冷たい笑いだった。
「そうだよ、千尋……」
彰文はうなずく。
「僕はまだ見つけていないから。キミを現実世界に連れ帰る方法を」
「そんなものない……」
千尋がゆっくりと首を横に振る。
「だって、わたしはこの作品世界の登場人物だもの」
彼女はこれまで、たしかにそう振る舞っていた。
「たしかにキミはこの作品の登場人物かもしれない。だけど、同時に作者だ。だから、こうして物語から逸脱できる」
彰文が言うと、千尋は口許を歪め、ブランコから立ち上がった。
彼女の全身から黒い靄のようなものがゆらりと漂う。
そう、千尋はシミに侵されている。
作品世界にとって、作者は神のような存在だ。創作し、改編し、削除できる。
その作者がシミになり、この作品世界を悪魔の書架から閉ざしていたのだ。
彰文は千尋の書いた作品は、悪魔の書架に未発表のものも含め、すべて読んでいるつもりだった。
だが、この作品だけは、なぜか読んでいない。
「彰文くんにも、なってほしいな。この作品の登場人物に……」
千尋がブランコから離れ、彰文の隣に並んでくる。
「だから、この作品を悪魔の書架に出現させたんだね?」
千尋に向き直り、彰文は訊ねた。
「そうよ」
千尋がうなずく。
「招いてくれて嬉しいよ……」
彰文は答えた。
「千尋を現実に連れて帰る機会ができた」
その言葉を聞いて、千尋が唖然となる。
なにかを言おうと開きかけた口が、そのままの形で凍りつく。
「……わたしが、あなたを帰すつもりでいると思う? この世界に取り込みたくて、呼び込んだのに?」
「そのときは、そのときだ。千尋のいない現実なんて、無意味だ」
危険はもちろん承知のうえだった。
本の悪魔もそう忠告していた。
それでも作品名と作者名を見たとき、ここに来ることに迷いはなかった。
ただ、ひどく疲れていたので、ひと晩休んだ。
父や母、そして浩太郎に、もう一度会っておきたかったということもある。
心のなかで別れを告げておいた。
「でも、この作品世界に呑みこまれるつもりはないよ。僕はあくまで読者だから」
千尋だけでなく、自分自身にも言い聞かせるように彰文は強く言った。
彰文もまた、千尋が書いた『背中合わせのライラ』の登場人物なのだ。
この作品は一人称ではなく、三人称で書かれている。
すくなくとも、千尋だけの視点で書かれた私小説ではない。
彼女がいないシーンもあるからだ。
「僕は、このときのことを、何度も夢で見た。そして後悔してきた」
「後悔?」
千尋が見つめてくる。
「僕は言うべきだったんだ。幼なじみや姉代わりではなく、異性として千尋のことが大好きだって。たしかに遠距離になるけど、ソーシャルで繋がれる、長期休暇のときには会いにゆけるって」
「それ、聞きたかったな……」
千尋がため息をつく。
そしてブランコにもどり、もとのようにうなだれた。
「そうしたら、わたしはこんな作品を書いたりしなかった」
「勇気がなかったんだ。千尋が僕のことを、どう思っているのかわからなかったから。口に出せば、それまでの関係が壊れてしまいそうで……」
彰文は必死に呼びかける。
千尋からシミが抜けてくれることを期待しながら。
だが、彼女から立ち上る黒い靄は、むしろ濃くなっていった。
「勇気がない? それなのに、この世界に入ってきたの?」
「君を救いたいと思ったからだよ。それは君が僕をどう思っていようと関係ないから」
「そんなに想ってくれていたのに、何も言ってくれなかったのね……」
うなだれたまま千尋が言う。
「だけど、それはわたしも同じ。わたしにも勇気がなかった。だって、彰文くんとは幼い頃からずっと一緒だった。ふたりで本ばかり読んでいた。わたしが作品を書くようになったのも、あなたに喜んでもらいたかったから。この作品を書いたのも、文章にしたら、あなたに伝わるかなと思って……」
「でも、この作品は……」
「そうよ!」
彰文の言葉を遮るように千尋が叫ぶ。あいかわらず顔はあげない。
「これは決別の物語。片倉彰文が穂村千尋を忘れ去る物語。さあ、帰りなさい。物語のとおり、逃げるみたいに、ね。背中合わせのあの娘が部屋で待っているから。でないと、シミが現れ、彰文くんを呑みこむ」
千尋が言うとおり、公園にある様々なモノから黒い靄が漂いはじめていた。
物語から逸脱しすぎたのだ。
(ここでは、シミこそが作品の修正力なのかもしれないな)
彰文は思った。
「わかった、帰るよ……」
彰文は千尋に背を向ける。
「だけど、僕はあきらめない」
彰文は走りだす。
だが、それは逃げるためではない。
この作品世界を読み解くためなのだ。
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