小説・アカシックリコード/水野良 他
NOVEL 0
プロローグ
プロローグ①【書籍用改稿版】
目の前には、中学の制服を着たひとりの女生徒がいる。
ブランコに腰をかけ、両手でぎゅっと鎖を握っていた。
彼女は
彰文の幼なじみ。
家が隣どうしで、ふたりともひとりっ子だったから、姉弟のように育った。
千尋のほうが一学年上。
千尋はさっきまで屈託なく笑っていたが、今は顔を伏せている。
「そう……、東京の中学に、転校するの……」
千尋が絞りだすような声でつぶやく。
長い髪が流れ落ち、彼女の表情を隠している。
か細い肩がかすかに震えていた。
それを見て、彰文は気がつく。
(これは夢だ……)
中二の夏、千尋に転校することを告げたときの夢。
東京に越してから、何度も見ている。
長期休暇のときには遊びにゆく。
コミュニケーションの手段はいろいろある。
彰文は言葉をかけつづけるが、千尋から返事はない。
涙が出そうになって、あわてて彼女に背を向ける。
そして柵を跳び越え、公園から逃げるように走り去るのだ。
夢は、そのとおりに続いた。
いつもなら、ここで目が醒める。
だが、今回は違った。
彰文はまだ走っている。
夢ではよくあることだが、うまく走れない。
必死に前に進もうとしていると、クレーンゲームのアームに掴まえられたように、身体がふわりと浮きあがった気がした。
その浮遊感はしばらく続き、映画のワンシーンを編集したみたいに、様々な人物、建物、風景が視界いっぱいにフラッシュバックする。
すると今度は急激に落下する感覚に変わり、気がつくと中二の終わりまで通った学校のグラウンドを俯瞰するように見下ろしていた。
野球のバックネットやサッカーのゴールに囲まれ、一周二百メートルのトラックが白線で引かれている。
その中央に、ふたたび千尋の姿があった。
公園のときと同じ制服姿で、右手にスマートフォンを持っている。
ディスプレイからは青白い光がほのかに発せられていた。
千尋の側には、ふたりいる。
ひとりは少女だった。
髪は赤く、ベレー帽をかぶっている。
二本の角のように見えるものは、帽子の飾りだろうか?
背中からは蝙蝠に似た黒い翼が生え、お尻からは黒くて細い、そして先端の尖った尻尾が伸びている。
なにかのコスプレだろうか?
そしてもうひとりは、中二までの制服だった黒の学生服を着た彰文自身だった。
驚くことではない。
これは夢なのだから。
夢だと自覚しながら見る夢。
なんといっただろう?
友人の甲斐浩太郎から聞いたことがある。
しばらくすると、グラウンドからなにかが一斉に湧きだしてきた。
様々な髪型の頭がまず現れ、肩から胴と手、腰から足へと姿を現してゆく。
千尋と同じ制服を身に着けている。
この中学の女生徒たちだった。
全員に見覚えがある。
クラスメートやクラブの後輩など、彰文と比較的親しい女子ばかりだ。
中二のとき隣の席だった
だが、彼女らの様子はあきらかに異常だった。
表情は虚ろで、手足の動きはぎこちない。
そして黒い
千尋がもうひとりの彰文と赤い髪の少女に何事か声をかけた。
その彰文はうなずくと、凄まじい速度でグラウンドを走る。
彰文は体育会系のクラブには入っていないが、足は速いほうだ。
だが、あんな速度では動けない。
いや、常人の域をはるかに超えている。
制服姿の彰文は女生徒らに近づくと、掴みかかろうと伸びてくる腕をかいくぐり、次々と顔に掌を当ててゆく。
手が離れると、女生徒らの顔から目鼻が消えていた。
口だけ残っているのが、かえって不気味だった。
その口が裂けるようにつりあがり、三日月の形になる。
嗤っているのだろうか?
やがて、女生徒らはまとわりついていた黒い靄に溶かされるように形が変わり、最後にはデッサン人形のような姿になる。
パーツのひとつひとつがいびつで、関節は繋がってすらいない。
それでも形を保ち、人の姿をしていたときより、むしろ俊敏に動いていた。
だが、制服姿の彰文は余裕の笑みを浮かべながら、手慣れた動作で人形たちのパーツをひとつひとつ破壊してゆく。
もうひとりの赤い髪の少女のほうは少女は翼をはためかせ、宙を舞っていた。
伸縮する尻尾を自在に操り、先端で女生徒らを貫き、人形を鞭打っている。
あの翼も尻尾も、ただのギミックではなく本物だったようだ。
もちろん夢なのだから、なにがあっても不思議ではない……
だが、彰文は次第に違和感を覚えはじめていた。
(本当に夢なのか?)
意識ははっきりしてきているのに、なぜ目が醒めないのだろう?
もちろん、視界のなかの光景は、あまりにも現実離れしているし、視覚と聴覚以外の感覚は働いていない。
なにより自分という実体が、どこにいるのかわからなかった。
まるで幽体離脱しているかのように、千尋と赤毛の少女、そしてもうひとりの自分を虚空から見下ろしている。
そのときだった。
スマホを手に、不安そうな表情で赤毛の少女と制服姿の彰文の戦いを見守っていた千尋の背後に、もうひとり女生徒が地面から湧く。
(
同じクラブで、一年先輩の新田
千尋と同じクラスだったと思う。
良くいえば面倒見がいいが、悪くいえば押しが強く、彰文はすこし苦手にしていた。
彼女もまた黒い靄をまとわりつかせている。
やはり、人形に化けるのだろうか?
「右と左が渦巻くわね。あなたは這いつくばって跳ねてればいい。そうでなければ焦げていて。針の上でせいせいとね……」
新田先輩は両手を腰に当てながら、千尋に向かって言った。
おそらく悪口だろうが、まるで意味をなしていない。
狂気すら感じた。
「しとやかで粘っこくて軽やかで、そして真っ黒なだけでしょ。ねえ、どうして晴れ晴れと泣いているの? どうせあなたは水の夕べなのに」
狂気じみた言葉はさらに続き、新田先輩の頭上に真っ黒な球体が浮かび、大きくなってゆく。
千尋がようやく気がついて、背後を振り返り、身を竦ませた。
「いけない!」
彰文は彼女のもとへ行こうとする。
だが、気持ちが急くだけで、一向に近づくことができない。
千尋は映画のスクリーンのなかにいて、彰文は観客席からそれを見ている。
絶対に重なることのないふたつの時間と空間に隔てられているかのようだった。
だが、跳び越えなければならない。
そうしなければ、彼女を守れないのだから。
彰文は、もうひとりの自分に意識を向けた。
その瞬間、視界がぐにゃりとなり、気がつくと、彰文はグラウンドに立っていた――
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