第10話 魔王の幻影

 魔禍の泉、通称「魔泉」と呼ばれる泉はヴィルニという森の中にあるそうな。

 ウェンネルソンの町近郊に広がる森なのだが、どうやら話を聞くに、クレリックは何度か訪れたことがあるらしい。

 盗賊首領といえど、金遣いが荒ければ金欠に陥ることは免れないらしく、幼い頃から金策のために、度々この森に入っていたそうだ。


「にしても……なんというか、噂に聞いていた雰囲気とはずいぶんと違って見えるな」


 魔泉のある森ヴィルニ。言葉の響きだけで想像するなら、瘴気渦巻く腐臭に塗れた、そこかしこに潜む魔物の息遣いが聞こえてくるおどろおどろしい雰囲気を頭に描いていたのだが……。

 実際はどうだ。木漏れ日がやわらかく漏れ、木の葉はさわさわとさざめき、小鳥たちは美しくさえずっている。


「本当だなー。のどかで至って平和な森って感じだ。本当に危険な所なのか?」


 頭の後ろで手を組みながら前を歩く女剣士も、どこか拍子抜けしたように声に気迫がない。

 もうすでに、森も真ん中辺りまで来たが、未だに魔物と出くわさないし。

 血気盛んな女剣士にしてみれば、ようやく戻った愛刀を持て余しているのだ。それも仕方ないと思うが。 

 ……いや、わしはわざわざ戦闘をしたいわけではないが、こうも平穏無事な森の様相を呈され、静か過ぎるほど静かだと逆に不気味だ。


「勇者様、あれ、見えますか」


 右を左を見ながら森林浴を楽しんでいたところ、女剣士より少し前を歩くクレリックから声がかかった。

 前方を指差すクレリックの指先を目で追うと、


「ん? あれは――」

「この森に棲む魔物ですね。見たところ、素材となる牙や爪、いくらか毛皮を剥いだ後のようです。血液の流れ方や凝固具合を見るに、殺されてからまだそれほど時間も経ってないでしょう」


 黒い毛皮に包まれた大きな体躯、人の頭四つ分ほどもある巨大な手、口内にはいかほどの大きさをしていたとも知れない牙の抜かれた大きな窪み、獰猛そうな鋭い目は、今しがた殺されたかのように驚愕に見開かれていた。

 そして脇には、角材がこれ見よがしに置かれている。


「ごろつきグリズリーか」

「ご明察、よくご存知ですね」

「大臣に聞かされたことがある。この世界には人の5倍はある、器用に角材を振り回す珍妙な熊が存在すると。まさかと思っていたが、本当にいるんだな」

「しっかし、あたしらより先に入ってた奴がいたとはね」

「それに、かなりの手練です」


 言いながらクレリックは、グリズリーの死骸に歩み寄る。腰を屈めると、体を覆う毛を捲ったり掻き分けたりしてその状態を確認しだした。


「無駄のない一撃を心臓に加えられて、ほぼ即死のようですね。皮膚には打撃痕、ん? ……これは、針? ……それと腐食跡……」

「どういうことだ?」


 女剣士の問いかけに、クレリックは立ち上がり、小さく息をついて答えた。


「私の推察だと、これを処理したのは恐らくバトラー」

「バトラー? ってことは、お前と一緒の職か」

「私はいまクレリック!」

「その杖振り回さずに素手で魔物倒してるんだ、変わらないだろ」


 痛いところを突かれた、というような渋い顔をし、クレリックは一つ咳払いで体裁を繕う。


「……たぶんグリズリーを倒した者は、拳に嵌める拳闘用の装備に毒針を仕込んで戦ったのでしょう。仕留めた技は《正拳刺突撃》の武器ありバージョンでしょうか? 針なんて仕込む辺り、確実に相手を消しにかかる強い意志が感じられますね。恐らく初めの一打で心停止、毒針は保険だったと思いますが……」


 珍しくクレリックの頬をつつーっと汗が伝っている。

 魔物の死骸を見れば、いくら素人目でもその殺し方が見事なものだと分かる。素材の剥ぎ取りにも無駄がないのだ。

 魔物の気持ちなど知る由もないが、この熊は相手がその人で幸運だったろう。ほぼ苦しまずに死ねたのだからな。


「だが、わしらの前にこの森に入った輩は見なかったが。死骸の状態がさほど時間が経ってないものとするならば、いったい誰がやったんだろうか?」

「私もそれをさっきまで考えてたんですけど、もしかして……」

『キャァアアー!!』

「ッ!?」


 クレリックの言葉を遮るように突然響いた声。二人が警戒したように周囲を見渡す中、わしの思考は一つの事柄に一辺倒だ。これは、間違いない、


「女子の声だ!」


 わしは居ても立ってもいられなくなり、森の深部へ向かって走り出していた。


「あっ、コラおっさん、勝手にあたしらの元を離れるんじゃねえよ」


 背中の方で女剣士の叱る声が聞こえた。

 だが立ち止まらない。二人はきっと付いてきてくれるだろう。そうでなきゃ困る。あんな熊がほかにもいたら大変だ。きっと出くわしたなら、後日、間違いなくオムツの常用を強いられる事態になる。それだけは避けたい!

 女子を救う、ただその思いだけが足を交互に突き動かしていた。森の木立が避けていく。まるで風にでもなったような感覚。腹の肉が邪魔しない。

 わしはこんなにも走れたのだと一人感動していたら、移動速度が急激に落ちてきた。


「あ、あれ?」


 みるみる疲れを感じ、ついには、足が走ることをやめてしまった。


「??」


 この事態を疑問に思っていると、背後から声がかかった。


「勇者様、一人じゃ危険です」

「ったく、もう少しクールになれよ、おっさん」

「二人とも……。いま、わしは風になってたよな?」


 問うと、二人は互いに顔を見合わせ、そして頷いた。

 その疑問に対し、答えを所有していたのはクレリックだ。


「それは私が、一時的に移動速度を上げる魔法を使ったからです」

「そう、だったのか。どうりで……」


 自分でも成長した、そんな感動に身を震わせていたのも束の間だったな。そんなことなどあるはずが無いというのに。少し物悲しくなってきた。


「ていうか、そんな便利な魔法があるんなら、なんで街道で使わなかったんだよ」

「それは、いつ魔物に襲われてもいいようにマジックポイントの温存のため。そこら辺に魔王が転がってたら、どうするの?」

「魔王はそこら辺に転がってねえから安心しろ」


 二人の軽口の叩き合いを黙って見ていると、不意に話し声が聞こえてきた。


『――ッく、放せぇええ! 放しなさい!』

『くははは、馬鹿め。放せと言われて解放する馬鹿などいまい』

「ん? 今の声は?」


 話し声に導かれるように、木々の合間を縫って進むと、やがて拓けた場所に出た。

 中央には泉があり、滾滾と湧き出ては水をいっぱいに湛えている。それだけなら普通の森の中の泉だ。しかし、やはり謂れの通り、それは禍々しさを股間で……あいや、五感でびんびん感じるほど不吉さと不快さを与える。

 黒い霧状の何かが水面をゆらゆらと揺らめき、立ち上りながら触手状になって蠢いていた。その手先に、一人の女子を捕まえて……。


「お、女子!」

「待て待て」

「ぐえっ」


 いつぞやのように襟首を掴まれ、後ろに引き戻された。首を絞められた鳥みたいに情けない声を出してしまった。格好つけて登場しようとしていた段取りが台無しだ。


「なにをする! 以前も言ったが、女子が犯られそうになっているんだぞ!」

「冷静になれって言ってんだよ、おっさん」

「その言葉には私も同意します、どうか落ち着いて勇者様」


 女剣士だけならいざしらず、クレリックにまで言われたら、そうするほかない。二対一なら一が圧倒的に弱いのだ。たとえ勇者でも、このパーテイーならなお更な。

 黒い霧に捕まった女子を、ただ見守ることしか出来んとは、なんたる体たらくだ。……いや、この体系で言えたことではないが。

 拳を握り締め悔しさを押し殺していると、クレリックが一歩前へ踏み出して、声をかけた。


「あなたが、もしかしてあの青年が探していた彼女さん?」

「えっ? あ、もしかしてカーくんに捜索を頼まれてきた冒険者?」


 きょとんとして訊き返す。ちょっとそこまで、といったお使いに出るようなラフな格好の女子。栗毛の三つ編みが揺れ、愛くるしい愛玩動物にも似た反応だった。

 けれどもその拳を見た時に、それは少しの疑問とともにある推測を思考にもたらす。拳闘などしそうにない愛らしい顔立ちに華奢な体。にはとても似つかわしくない、銀色に輝く大きなナックル、先端には針が付いている。

 ……まさか?

 二人の顔をちらりと交互に見やるが、女剣士もクレリックも驚くほど冷静だった。事実に気づいてもまるで動じない。一人確信を得られずおたおたするわしとは、踏んできた場数が違うとでも言わんばかりに無感動だった。

 問われた言葉にクレリックが頷くと、女子は呆れたようにため息をついた。


「まったく、カーくんの心配性にも困ったもんだね。わたしなら大丈夫なのに」

「いや、ぜんぜん大丈夫には見えないんだけど。お前捕まってるじゃんかよ」

「あーこれは失敗だったね。グリズリー倒せたから調子に乗って最奥まで来たはいいけどさ、まさか魔禍の泉に魔王の幻影がいるなんて、思わないじゃん。あはは」


 やっぱり、あの熊殺しの犯人はこの女子だった!

 ……ん? でもちょっと待て。いまなにか引っかかる言葉が聞こえたような。

 いまの今までしていた推理ごっこは頭の片隅に追いやられ、短い言葉を脳内で反芻する。

 もしかして聞き間違いじゃないかと思い、一応訊ねてみた。


「いま、なんと?」

「だから、魔王の幻影。いま、私を、つかんでるコイツ」


 みんなして顔を突き合わす。

 うん、二人とも可愛らしい顔をしている。わしは果報者だな。こんな愛い女子と旅が出来るなんて――って違う!


「魔王だと!」

『いかにも。貴様が勇者か。……ふん、なんだ、ただの加齢臭のひどいメタボじゃないか』

「失敬な! しかし、よくわしが勇者だと分かったな」


 まだ二回しか使用していない銅の剣を青眼に構えながら、わしらは対峙する。


『それは当然のこと。この森には吾輩の目と耳を走らせてあるからな。そこなクレリックが勇者様と言っていたのを聞いている。信じがたいが、信じるほかあるまい』

「なんと! 魔族の王はそんな便利な機能付きなのか! その能力があれば、女子のあんなことやそんなことを――」


 魔王の言葉に、瞬時にいかがわしい妄想がわしの脳内を駆け巡る。

 それに対し魔王は同意を示した。わしらは少なくともそういった感情を共有し合える。魔王がただの人であったのなら、仲良くなれたかも知れない。


『ふはは、分かっているではないか人間のくせに。そうだ、吾輩も女のあんなことやそんなことを覗き見るのに使っ――』

「おい、魔王と意気投合してんじゃねえよ!」

「ぶふぉ」


 背後から後頭部を激しくド突かれた。というか、刀の鞘をフルスイングで殴打されたようだ。見れば、汚いものでも触れたように、鞘を布で拭きまくる女剣士の姿がそこにはあった。


『はっ! 吾輩としたことが、人間と馴れ合うなど言語道断! 危うくよだれが垂れそうだったではないか』

「その姿でよだれが垂れるのか?」


 素直な疑問だ。これくらいなら許されるはず。


『当たり前だ。この泉は吾輩のよだれ! くはは、どうだ、矮小な人間風情には到底真似できまい。冗談だがな、くははははは!』


 魔王はなぜか愉快そうな高笑いを発する。


「なあ、こいつは一体なにを勝ち誇ってるんだ?」

「私にも分かりません。気でも触れてるんじゃないですか? こんな陰鬱な泉に身を漬け込んでるんですから」

「もしかしたら、わしよりも馬鹿なのかもしれないな」

「それはありそうでなさそうだな」

「パティスちゃんヒドイ!」

「その名で呼ぶな! しっかし、今ならあの女、助けられるんじゃないか? あんな馬鹿笑いしてるんだ、隙だらけだろ」


 言うが早いか、女剣士は声高々に笑い転げる魔王の目を盗み(どこに目があるのかよく分からないし、転げているのかも分からないが、なにせ霧状なもので……)、せこせこと、見事、触手に絡めとられていた女子の救出に成功した。


「よっと。大丈夫か?」

「あー、どうもありがとう、助かったよ」

「まあ、依頼をこなしただけだからな」

『――くはははははは、は。――はっ?』


 未だに笑い止まない魔王だったが、手の先にあるはずの感覚がなくなっていることに気づいたのか、ようやく疑問を声に出した。


「よぉー、あんまりにも楽しそうに笑ってるもんだからさ、思わず人質救出しちまったよ。悪ぃな!」

『――っておいぃぃー!! せっかくの人質が台無しだろうが! 何してくれてるんだ! 人質を盾に勇者の命を奪う計算がポシャッたじゃないか! 人間のくせに、魔王いじめも大概にしろ!』

「依頼なんだから仕方ないだろ。そう言うわけだから、じゃあな」

『待て待て待てぇええーい!』


 そうしてみんなして踵を返したところで、魔王の幻影が背後で声を荒げだした。

 まるで地団太でも踏んでいるかのように、泉の水がばしゃばしゃと飛沫を上げる。

 その瘴気に塗れた水が跳ねるたびに、霧状の魔王の幻影を形成しているもやもやと結合し、なにやら人型が形作られていく。


『こうなれば今ここでお前たちを殺してやる! 出でよ我が分身、シャドーレイド!』


 発声とともに人間サイズの黒い人型モンスターが姿を現した。それは霧状なんて曖昧な存在ではなく、明らかに質量を持っていることが傍目でも窺える。

 シャドーレイドは足を踏み出すたびに、ばしゃっと泉の水を大きく跳ねさせる。その背中には先の触手のようなものが生えていた。


「あれに捕まったらやばそうだな」


 女剣士が嫌そうな顔で呟く。

 またも如何わしい妄想が脳内を汚染。少し前かがみ。しかし剣はしっかりと構える。どちらもおざなりにはしない。 ……左寄りの青眼で、だ!


「確かに、あれに捕まると厭らしいことをされると、嫌でも想像つきますね。そうですよ、勇者様、いまあなたが考えてるようなことです」


 クレリックにわしの妄想を看破された。汚名返上のためにも、ここは勇者らしく、身を呈してでも仲間を守りいい所を見せねばなるまい!


「安心しろ! お前さんたちには指一本、触手一本触れさせん! わしが触手の相手をしてやる、さあ、かかってこい!」


 意気込んで一歩踏み出す。緊張の一瞬だった。が――


『馬鹿か! 男なんぞに興味はない! 臭い勇者はとっとと失せろ! アシッドスプラッシュ!!』


 バシャッと魔物の口から、なにやら緑色の液体が吐き出された。

 それはすぐ目の前まで迫る。


「危ない!」


 一番近くにいたクレリックに首根っこをつかまれ、気づけばわしは空を舞っていた。

 放物線を描きながら飛翔する。木々のにおいが爽やかだ。

 やがて尻から地面に不時着した。振動で腹の肉がぶるるんと踊る。

 こんな時にも会心を発生させないでほしかった、というのは贅沢だろうか? 命があるだけ良かったと思うべきだということは、目の前の光景を見れば一目瞭然だ。

 アシッドスプラッシュの吹きかけられた地面は見事なまでに腐食していた。あの技はどうやら強酸らしい。気づけば、手にしていた銅の剣(中古品)は、強酸にやられドロドロに熔けていた。


「あー!! わしの努力の結晶が!」


 クレリックがいなければ、わしもこうなっていたのは想像に難くない。しかしこれは酷い仕打ちだ。苦労して買った初めての武器が、よもや二週間ほどで使い物にならなくなるとは……。


「勇者様、下がっていてください。あなたの無念は私が晴らします」

「一人で大丈夫かよ?」

「心配しないで。ああいった、もともと不定形が固体になったハリボテは、クレリックが得意とするものなのよ」


 ぱちりとウインクしてみせると、クレリックは一人、パーティーの最前線へと進み出る。それを男らしいと思ってしまったわしは、男の風上にも置けないただのチキンだ。

 そんなクレリックを捕らえようと、怪しく蠢く黒光りする触手。

 クレリックは大きく息を吸い込むと、初めて、その手に持つ杖を天に掲げた。


「ホーリーサンシャイン!!」


 杖を振り下ろすと同時に発声したのは魔法名だろう。

 すると天がペッカーと煌き、わしが見上げる頃、いくつもの光の粒が急降下してくるのが見えた。

 それらは黒い魔物の体を次々に打ち付ける。容赦なく、慈悲もなく、そこにあるのは圧倒的な破壊だった。光の当たった部分から、魔物の体がしゅわしゅわと、まるで水泡が弾けて割れるように消滅しだす。


『な、なっ! これは聖属性の!? う、うわぁああああ』


 驚愕の声の残響音とともに、黒い魔物は雲散霧消した。あっけないほど簡単に、わしらの勝利だった。

 わしが勇者としてしたことは、ただの一つもない……。わしでなくても、誰だって務まりそうだと、パーティーを組んでから初めて思った。


「それにしても、お前そんな魔法いつの間に覚えたんだ?」

「ウェンネルソンまでの道中で閃いたのよ。レベルが上がったから」

「これなら魔法使い必要なさそうだな」

「けど、結構マジックポイント必要なのよね。夜間に出てくるゴーストに使うには消耗が激しすぎるわ」

「なるほど、結局探さなきゃいけねえことに変わりはないか」


 二人して旅の展望を話している。わしを地面に放りっぱなしで……。

 わしも早く、回転切り以外を覚えたいものだな。少なくとも、勇者らしい技を覚えたい、そう願うしかなかった。

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