剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 27

 201z年。四年に一度の冬季オリンピックが開幕した。十七日間に及ぶ祭典の舞台となっているヨーロッパの某都市は、海外から多くの観光客を迎え入れ、熱狂と盛況の渦の中にあった。満員となった市内の各ホテルでは、慌ただしさにスタッフが悲鳴をあげ、経営陣は笑顔で収入を勘定していた。このときのために再整備された交通機関は混雑しながらもたくさんの人々を運び、いつもより数倍の食材を仕入れた飲食店では、それでも足りぬと店主が仕入先の農家や牧場に急ぎの電話をかけていた。国内の他都市にも波及すると見られる経済効果の試算額は三十兆円と発表された。スポーツがもたらす“金”というのは莫大なものである。


 バリアフリーに対応したいくつもの競技会場が市内に設けられた。そこで繰り広げられる熱戦の数々は電波にのって世界各国の人々の心と網膜に焼き付き、後世まで語り継がれることになるだろう。女子のスピードスケートではゴール直前数メートルでの逆転劇が話題となり、むしろ金メダル目前にして敗北した選手のほうに世間の同情が集まった。男子のスキージャンプではオリンピック新記録が次々と誕生し、見る者をわかせた。カーリングの女子予選では最終エンドの八投目後、ナンバーワンストーンがどちらのチームのものか審議になり、試合が三十分以上中断した。スノーボードの男子ハーフパイプではアメリカの選手が必殺のダブルコークを決め、三大会連続の金メダルを獲得した。どれも熱い戦いだった。


 欧米勢の活躍が目立つ中、対抗する日本人選手たちも負けてはいなかった。スピードスケート、カーリング、ノルディック複合などで獲得したメダルの総数は十二日目までで十五個となり、これは冬季オリンピック日本選手団の歴代最高記録となった。遠く離れた日本では深夜までテレビにかじりついて中継を見たことで寝坊してしまい、結果、翌朝の通勤通学路を全力で走る人たちが巷に溢れかえった。世間はこれをメダルラッシュとかけて“朝のメダルダッシュ現象”などと呼んだ。事故につながりかねないため普段ならば忌避される事態だが、こういうときだけはテレビの辛口コメンテーターもカメラの前で笑うものである。やはりオリンピックとは特別な空気をもたらすものだ。






 そんな日本人たちが最も金メダルを期待する競技といえばフィギュアスケート女子シングルだ。冬季オリンピックの花形種目であるため、試合会場は早い時間から一万八千の客席の大半が埋まり、腕章をつけた各国報道陣も二千人を超えた。競技の注目度に比例して外野も賑やかである。


 それら無数の視線の中を舞う各国の美しき銀盤の妖精たちは三十人。その表情は様々である。自分が出来ることのすべてを出し尽くし笑顔を見せる者。満足いく演技ができずにリンクの中央で泣き崩れる者。思ったより高い評価に驚き、思わずコーチと抱き合う者。たくさんのテレビカメラは、そんな絵になる彼女たちのようすを世界に伝え、そして観客は公平な拍手をおくる。このときだけは国籍も人種もこえて皆がひとつになる。それもオリンピックの醍醐味といえようか。






 大会も終盤にさしかかった十五日目におこなわれているフリースケーティング。最終グループの最終滑走者がスケート靴を履いてリンクにあらわれたとき、超満員の会場からあたたかい拍手が鳴り響いた。女子シングル日本代表の香田美冬である。“女王”の異名を持つ彼女は堂々たる演技を見せ、おとといのショートプログラムをトップで折り返した。今日、念願だった金メダルを勝ち取るため、最後のフリーにのぞむ。


 あれから一年と三ヶ月がたった。剣聖スピーディア・リズナーはボディーガードとしての使命をまっとうし、美冬の前から姿を消した。ほんのひとときでも彼を愛した記憶を心の奥底に封じ込め、フィギュアスケートに打ち込んだ四百五十日間、彼女は勝利を重ねてきた。一昨年のグランプリファイナルを制し、続く世界選手権も優勝した。その後のシーズンオフもトレーニング漬けの毎日をおくり、万全の状態で迎えた昨年十月からのグランプリシリーズを勝ち進み、十二月のグランプリファイナルで連覇を遂げた。そして優勝候補一番手として、このオリンピックへとやって来た。一時期の不調が嘘だったかのような美冬の復活劇である。


 四方八方からの大喝采にぎこちない笑顔で応えた美冬はリンクをかるく一周すると、フェンス際へと向かった。そこにいる彼女の“コーチ”にアドバイスを仰ぐためだ。


「ミフユぅー、あんた大丈夫ぅ?」


 フェンスの向こうから皮肉っぽく笑うコート姿のロシア人少女。間延びした口調はあいも変わらずである。今シーズンから美冬のコーチをつとめているエカテリーナ・グラチェワだ。


 一昨年の日本大会で再起不能となる大怪我をし、若くして現役を引退したエカテリーナは、マスコミに対し“母”とおなじくフィギュアスケート指導者への道を歩む、と宣言した。その母とはコーチだったイリヤ・アダモフ。師弟関係にあった両者が実の母娘だったというスキャンダルは母国ロシアのみならず世界中を大仰天させた。そして今、エカテリーナはかつてのライバルだった美冬のコーチに就いている。イリヤの後継者として……


「大丈夫、ってなんのことかしら?」


 フェンスを挟んでコーチのエカテリーナと対峙する美冬は、さっきまで客たちに見せていた笑顔から一転、仏頂面をした。両者の声が聴こえない周囲の人々には、その姿が、“コーチからのアドバイスをマジメに聞く選手”としか見えないらしい。


「笑顔がカチカチだよぉ。もっとニターッとニヤけなきゃダメだよぉ」


 エカテリーナは自分の両頬を指でつまんで、面白い顔をした。


「なによ、その顔」


 それを見た美冬は吹き出してしまった。そして、そんなふたりのようすが会場の巨大スクリーンに映し出されたものだから客席からも笑いがおこった。美少女コーチの変顔が選手と観客との一体感を生んだようである。


 長年ともに歩んだイリヤを失ったため、指導者なしで一昨年のグランプリファイナルと昨年の世界選手権をのりきった美冬だったが、オリンピックシーズンともなると、やはりコーチが必要だった。著名な指導者は国内外におり、実際金メダル候補の美冬のコーチングを希望する者も多かった。その中のひとりが現役を引退したエカテリーナだった。


 数あるコーチ候補の中から、美冬はエカテリーナを希望した。当然、周囲は大反対した。“あまりにも若すぎる”、“選手としては天才だったが指導者としての資質は未知数”、“未経験者にコーチをさせるわけにはいかない”、“かつて因縁のライバル同士だったので指導に私情が入る余地が多い”などとの声があがったのである。だが美冬には予感があった。おなじコーチのもとでしのぎを削った間柄なら、自分の欠点や改善点をわかっているのではないか、と。そしてなにより、第二の母と慕ったイリヤの娘である。


 それでも猛反対する関係者たちのせいで難航した美冬のコーチ選びだった。が、昨年の世界選手権後、“ある男”がアメリカに滞在中、テレビカメラに向かって発信したひとことが状況を変えたのだ。さきごろ美冬のボディーガードをつとめ、見事、事件を解決した剣聖スピーディア・リズナーだった。


 “美冬のコーチはエカテリーナがやりゃあいいじゃねぇか。女王同士のコンビならオリンピックが盛り上がること間違いなしだろ。スポーツは興行だよ興行! ッたく周りの大人たちはわかってねェなぁ”


 そんな世界的異能のスーパースターがした発言で世論の風向きが変わった。“あの剣聖が言うのなら”、“スピーディアの言うことなら間違いない”、“ヤツはチャラくてスケベだが人を見る目だけはたしか”などという声があちこちからあがり、やがて日本ウインタースポーツ協会に対し世界中から大量の投書が送られた。“美冬のコーチにはエカテリーナがふさわしい”、“剣聖様の言うとおり女王のコンビが見たい”、“スピーディアの言うことは絶対!”などという内容の……


 さらにその後、日本でも人気があったエカテリーナとのライバルコンビは興行的な話題になると、オリンピックスポンサー企業数社が相次いで日本ウインタースポーツ協会に強く働きかけたのだ。結果、昨年の四月にエカテリーナは美冬のコーチに正式に就任した。前代未聞、史上最年少となるロシアの女子高生コーチということで、世界中の話題となった。剣聖スピーディア・リズナーの発言が女王コンビを誕生させた、と言って良い。彼の影響力は地球上のあらゆるものに勝るのだ。それは美冬のボディーガードを終えた彼からの“アフターサービス”だったに違いない。


「さぁ、ここまで来たら、もうあとは当たって砕けろ、だよぉ」


「砕けたら元も子もないわよ」


「心配しなくてもホネは拾ってあげるからぁ」


「どこで、そんな日本語覚えたのよ」


 ふたりはハイタッチをかわした。それは、演技がはじまる前に必ずおこなわれるこのコンビの“儀式”だ。国民的選手たる美冬のコーチになったエカテリーナはテレビ映りもよく、日本では記録を打ちたてた現役時代より人気がある。もともとは母イリヤのものだったえんじ色のコートを着て美冬を叱咤する姿が健気にも見えるそうで人々の好感を得ているらしい。最近、日本のある企業からCM出演のオファーがあったそうで、“あたしのほうがミフユより人気出ちゃったらどうしよぉ”などと言っていた。


「がんばれぇ」


 というエカテリーナの声と、観客からの拍手を背に受け、美冬はリンク中央へと進みポーズをとった。数秒のち、重厚なオーケストラが流れはじめる。今シーズンの彼女が踊る曲は『ロミオとジュリエット』。叶わぬ恋を題材としたものであることから、一昨年ボディーガードをつとめた剣聖スピーディア・リズナーとの仲を謳っているのではないかと噂するマスコミが今もあとをたたないが否定してきた。彼とは何もなかった。なかったのだ……


 曲に合わせ演技をはじめた美冬の衣装は黒いドレススタイルのものである。いままでのイメージカラーは白だったが、エカテリーナからの提案で変えた。“いつまでも清純派じゃダメだよぉ、今年はオトナの雰囲気出していこうよぉ”とのことだった。


 氷上でかるくターンする美冬の目に、そんなエカテリーナの姿が入った。さきほどまで軽口を叩いていたが、今は真摯な表情をしている。やはり自分を心配してくれているのだ。彼女と師弟を組んで一年弱。互いに年を重ね十八歳のコーチと二十五歳の教え子という間柄になった。いま思えば七つも年上の自分のほうが、なにかとわがままを言い、甘えてきたような気がする。理にかなったトレーニングメニューをすぐに組み立てられるほどに頭がよいエカテリーナは、そんなわたしを時に諭し、時におだて、うまくコントロールしてくれた。まるで“病院で療養中”の母イリヤのように。そう、かつてわたしの母代わりだったあの人は、実の娘のエカテリーナにフィギュアスケートの才能だけでなくコーチの才能も与えていたのだ。その恩恵にあずかっているのが今のわたしだ。


 冒頭、指先から爪先まで神経をそそぎ、挙動に艶を吹き込んだ。今シーズンの美冬は、これまでの清純可憐なイメージから脱皮し、大人の演技をしていると評される。もともとは、こういった演技質はエカテリーナの領分だったが、今期の美冬はコーチとなった彼女のアドバイスでそれを取り入れた。結果、昨年から負け知らずであるため、イメージチェンジは成功したと言って良いだろう。すこしは“彼”と出会ったことも理由なのかもしれない。すこしは……


 曲調がイントロよりも壮大な感じに変わった。それに合わせて美冬は最初の見せ場となるコンビネーションジャンプの体勢に入った。銀盤の上から羽ばたいた彼女の目には、イリヤを失って孤独に怯え、剣聖と別れたときに流した涙はない。あるのはただ、エカテリーナとともに、“女王ふたり”で築きあげた勝利への確信のみ……






 “159.10”


 演技を終えた美冬の、この点数がスクリーンに電光掲示されたとき、一瞬静まり返った客席から嵐のような拍手が起こった。圧巻の演技に対する評価は、現レギュレーションにおける不滅の記録としてフィギュアスケート史に長く刻まれることとなるだろう。ショートプログラムと合わせた合計点は二百五十を超え、歴代最高得点となった。


「やった、やったわ。カチューシャ……!」


 いつ止むかわからない大歓声と大拍手の中、キスアンドクライの席で美冬はエカテリーナをロシア式の愛称で呼んだ。イリヤがかつて、そうしていたように。そして念願だったオリンピックの金メダルをとったのだ。


「やった、やったねぇ、ミフユ。あんたはお利口だよぉ」


 それに応えるエカテリーナ。ふたりは抱き合い、よろこびをわかちあった。


「きっと、病院のママも喜ぶよぉ。“ミフユ、よくやった”って言ってくれるよぉ」


 と言うエカテリーナは本格的に指導を学ぶため、四月から大学のスポーツ科学研究科へ進むことを表明している。だが、なんとか時間をぬってコーチを続けると宣言した。美冬も現役続行を決めているため、来シーズンもこのコンビが見られそうである。






 キスアンドクライに座る美冬は、演技後に客席から投げ込まれたたくさんの花束のいくつかを左手に抱えながら、カメラに向かって右手を振った。その美しい笑顔は、いま全世界の人々を魅了しているに違いない。二十五歳にして金メダルを獲得した彼女を以前のようにエカテリーナと比較して旧女王と呼ぶ人はもういない。もちろん“女王ふたりで取った金メダル”と、永く賛美されることだろう。


 勝利の興奮と喜びの中、美冬は見た。客席のどこからか投げ込まれた花束が宙を舞っている。それは、ずいぶんと目立つもので、数色の薔薇でできていた。真紅の薔薇、青い薔薇、ピンクの薔薇、パープルの薔薇、白い薔薇……あまりにもたくさんで多彩な色の薔薇の花束なので、とっても派手なものだ。こちらに飛んでくる。


 “スピーディア、もしわたしがオリンピックで金メダルをとったら、そのときはほめてくれるかしら?”


 美冬はあの日……“彼”と最後に会ったあの日、かわした言葉を思い出した


 “ああ、君に対する大喝采で盛り上がるリンクに、誰よりもド派手な花束を投げ込んでやるさ”


 彼は、そう約束してくれた。金メダルをとった今なら、その言葉を思い出の絵として、鮮明に心の中で描くことができる。わたしが愛した彼……


 それは、まるで愛の記憶を正確な軌道で運ぶパラシュートのように美冬の膝に降り立った。本当にド派手な薔薇の花束である。手に取ると、一枚のメッセージカードが添えてあった。


 “さすが美冬だ、金メダル信じてたぜ! そんな君に敬意を表して、あのとき約束した花束をおくらせてもらう”


 その伸びやかで闊達な文字は、たしかに彼のものだった。


「す、すごい大きな花束だねぇ」


 それを見たエカテリーナも驚いたようすである。美冬の白い膝が色とりどりの薔薇で隠れてしまうくらいの、大きくて立派な花束だ。


剣聖スピーディア、この会場のどこかで見ていてくれたのね)


 美冬は超満員の客席に彼の姿を探した。だが距離が遠いせいか、それとも溢れてくる涙のせいか見えない。いや、それで良いのだ。わたしのボディーガードは、いま本当の思い出となったのだ。いずれは散りゆく薔薇の花束とは違う、永遠の思い出に……






『剣聖の記憶 〜女王ふたり〜』 完






 



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