剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 26

『私は、ミフユが憎いわ』


 戦いのさなか悟は、人外の存在となったイリヤの心の声を聴いたような気がした。


『なぜ、病魔に蝕まれていたのがエカテリーナのほうだったのかしら? ミフユのほうだったらよかったのに』


 それは率直な思い、なのかもしれない。血縁者たる我が子と他人にすぎない教え子を天秤にかけることになんの不思議があろうか? 公私とは混同するものだからこそ区別され、人々は昔から、そのジレンマに苛まれながら生きてきた。


『でも、私はミフユのことも愛しているの。だって大切な教え子ですもの』


 だから人は、矛盾のはざまに立たされたあげく悩み、心に闇を抱える。人外は、そういった側面に忍びより、そして人の心を喰らい尽くす。美冬に脅迫状をおくったころのイリヤは、すでに負の領域に堕ちていたのである。


『私は、エカテリーナに才能は与えたわ。でも、健康な体を与えることはできなかった』


 それもまた、実母のイリヤが悩んだことなのだ。図らずも自身の病気がエカテリーナに遺伝したことで、深く傷ついていたのだろう。だが、私生児であることを隠し通さなければならなかったため、誰にもその悩みを打ち明けることができなかったに違いない。


『私は母親失格ね。そしてコーチとしても。ミフユ、ごめんなさい……』






 廃団地の屋上へと吹き飛ばした悟の姿を追い、“サルビア”は浮遊しながら移動をはじめた。花を咲かせている茎の部分が四十五度ほどの角度で折れ曲がっているが、これはさきほど受けた剣圧の影響だ。しばし前まで出ていた樹液らしきものは既に止まっており、傷口周辺で乾いてピンク色になっている。


 空で動き続けるサルビアは悟を視認するためか、その高度をやや下げた。団地二階ほどの高さなので、地上から五メートルくらいを浮遊している状態だ。四棟ある廃団地の影を沿うようにして、飛行音もたてずに、ゆっくりと……


 二分ほどの静寂を“十字架”のように両腕を広げ、羽ばたく人影が打ち破った。それは廃団地の四階にあるベランダの窓を壊して飛んだ悟か。彼は屋上から吹き飛ばされたように見せかけて、地面に着地していたのである。さきほど空中でオーバーテイクのセレクターを峰打ちモードに入れ、猛烈な勢いで飛んできた二枚目の巨大葉を薙ぎ払って、その反発力でジャンプの軌道を変えたのだった。咄嗟の手だったが、結果的にそれで、続く三枚目と四枚目の巨大葉をかわしたのである。そして悟はサルビアに気づかれぬよう素早く団地の四階にのぼり、錠を壊した玄関から空き部屋に侵入して機をうかがっていたのだ。


 しかし窓ガラスが割れる音に反応したか、サルビアは全身を二十度ほど旋回させ迎え撃った。今度は無数の花弁と十枚の巨大葉が同時に発射された。総攻撃の体であり、空中でかわせるタイミングではない。八つ裂きにされ、墜落する悟……


 硬い金属音をたてて地面に落ちたものは、サルビアの攻撃を受けズタズタになった悟……のフライトジャケットだった。見ると一本の“棒”が両袖に通っている。羽ばたく十字架のように見えたのはそれだ。ならば悟は……


 本物の悟は、すでにサルビアのほうへと飛んでいた。一瞬にして発熱したオーバーテイクが紅い流星に見える。空き部屋のベランダに放置されていたステンレス製の物干し竿は伸縮できるものだった。それをフライトジャケットの袖に通してから投げて囮としたのである。サルビアが気づくように窓ガラスを派手に割って音をたて、ヤツの気を引いた。


 わずかなスキをつき、空中の悟が斬ったのはサルビアの茎の折れ曲がっている部分だった。さきほどの剣圧でダメージを受けていたそこに斬撃を重ねたのだ。諸手に気を込めた剣聖の一刀には凄まじい威力があった。“首”を真ッ二つにはねられたサルビアの巨体が浮力を失い、コンクリートの大地へと沈んでいく。






「ああ、スピーディア……」


 目を開けたイリヤの声は弱々しいものだった。悟が勝利したことで、取り憑いていた人外から解放されたのだろうが、まだ体内の気が正常に流れていないであろうから苦しいはずだ。


「私は、ミフユになんと言って詫びればいいのかしら」


 声のみならず、表情にも力なく……ただ、人としての心は取り戻したようだ。美冬に脅迫状を出し、あげく殺そうとしたのは人外に取り憑かれたことで心の安定を失ったから、という理由もあったはずである。たとえ娘エカテリーナへの思いが公私の境界を越えてしまっていたとしても……


「美冬は、あなたからの謝罪なんて求めてはいないさ」


 誰もいない廃団地の暗い影でイリヤを抱き起こす悟。長袖Tシャツの左腕が切れているが、さきほどサルビアを仕留めたときについた傷だった。空中ですれ違いざま、ヤツが最後に放った花弁が当たったのである。腕をつたい地面に落ちている血が死闘だったことの証明だ。簡単に得た勝利ではなかった。


「あなたなら、狂った私を止めてくれると思っていたわ。スピーディア……」


 絶え絶えの息で語るイリヤ。美しい四十路の顔から生気が抜けている。だが、残る生命力で伝えたいことがあるのだろう。彼女は悟に自分の行く末を託したのである。戦い、という手段で。


「私は、エカテリーナにスケートの才能を与えたのかもしれない。でも、健康な体を与えることはできなかったわ……」


 それもまた痛恨だったに違いなく。人外に取り憑かれた原因を探ることは難しいものだが、内心が抱えた暗黒の一端を形成する理由だったことは間違いない。娘になにを与え、そしてなにを与えられないか。決めるのは母の遺伝子であっても心ではない。もちろん娘にも選択肢はない。


「だから、私は母親失格なのよ……」


「それは違うさ」


 悟は、やんわりと否定した。


「あなたがエカテリーナに与えたものは他にある。それはいずれ、美冬が証明するはずさ」


「ミフユが? それは……いったい……なにかしら……」


 と、言い残し、“ふたりの女王”を作り上げたイリヤは、悟の腕の中でそっと目を閉じた。告白することで、いろいろな思いから解放されたのだろうか? 意識をなくしたその顔は、やすらかなものだった。






 ホテルにいる美冬の携帯が鳴ったのは、日付けが変わった真夜中のことだった。不安から眠れなかったため、こんな時間まで起きていた。


「スピーディア?」


 美冬の声に感傷の熱がこもった。“ボディーガードとして、最後の仕事をしてくる”、と書きおきを残して去った彼からの電話である。結局、自分を抱いてくれることはなかった。


 ────イリヤとの決着はついた。君を狙うものは、もうなにもないから安心しろ


 それは、ボディーガードとしての彼が仕事を完遂したことを意味していた。そして……


 ────君はオリンピックまで自分のことをやりとおせ


 そして、彼とのつながりが消えることでもあった。


「スピーディア! もう一度、もう一度だけ会いたいの」


 美冬は、もう彼と会うことはないだろうと予感した。だが、そのひとことを言わずにはいられなかったのである。彼に対する思いは自覚していた。たとえ結実しない恋であっても、ならば、もう一度だけ……


 ────俺は君のボディーガードさ。だから危険がなくなった今、もう君と会う理由はない


 もちろん、そういう返答も予測していた。ひとつところに居られないのが彼であるとわかってもいる。なのに不安からか、携帯を持つ手と、内心を吐露する声がふるえた。


「ひとりは嫌。誰かがそばにいてくれないと、怖いの」


 美冬は泣いた。コーチのイリヤを失った今、アドバイスをくれる人はいない。そしてオリンピックまで、あと一年と数ヶ月しかない。これから誰が自分を指導し、誰が自分を支えてくれるのか。せめてプライベートでは彼と共にいたいと願った。


 ────馬鹿言ってんじゃねぇ、イリヤがいなくなっても、君はひとりじゃないんだぜ


 彼からのラストメッセージは乱暴な物言いであっても、どこか暖かかった。


 ────イリヤが作り上げた女王は“ふたり”いる。君と、もうひとりさ。わかるだろ?


 それが、たいせつなボディーガードからの“アフターサービス”だったと知ったのは、すこしあとのことである。



 

 

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