剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 24

「来てくださったのね、スピーディア」


 廃団地の駐輪場の影からあらわれたイリヤは、ホテルのバーから逃げ出したときと同じ服装をしていた。丈の長いグリーンのブラウスである。今まで、どこかに身を隠していたのだろう。


「呼び出したのは、あなただろ」


 悟はフライトジャケットの内ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。美冬がホテルの部屋でシャワーを浴びていたとき、イリヤから電話があったのだ。それで、ここに来たのである。


「まさか、ひとりで来るなんて思ってもいなかったわ」


「“ひとりで来て”、って言ったのもあなたじゃねぇか」


「国際異能連盟か、愛知県内の異能者を連れて来ると思っていたわ」


「俺を信用していいのか? 後ろで誰か待機してるかもしれないぜ」


「いいえ、あなたは、そういう嘘はつけない人よ」


 悟の目前、五メートルほどに近づいて来たイリヤは、すでに金色の眼光を放っていた。もともとは実娘のエカテリーナ同様、グレーの瞳をしていたが、人外に侵食された今となっては、目つきにそのころのおもかげはない。変わっていないのは熟れた四十路の美しさだけである。


「私は、ミフユを殺すわ」


 すでに正気の大半を失っているであろうイリヤの目的は、人っ子一人いないこの廃団地のおどろおどろしい雰囲気にマッチしたものだった。彼女は教え子の美冬を手にかける、という。


「エカテリーナの現役復帰は絶望的だぜ。いまさら美冬を殺ってなんになる?」


「憎いのよ……」


 イリヤは真空の夜天を仰いだ。雨はとうにあがったが、彼女の心に晴れ間はさしていないらしい。


「なぜ健康なのが他人のミフユじゃなければならなかったのかしら? なぜ私がお腹を痛めて産んだエカテリーナじゃなかったのかしら? そう考えるとミフユが憎くなったのよ」


「美冬を恨むのは筋違いだろ」


「神様というのは腹がたつほどに公平ね。エカテリーナには当代一の才能を与えたけれど、長く現役を続けられるほどの丈夫な体はミフユに与えたわ」


「美冬は、今でもコーチのあなたを母同然に慕っている。血を超えた関係を信じている。それでもあなたは美冬を手にかける気か?」


 悟はイリヤを説得すること自体はあきらめていた。長年の勘から、戦いを回避することはできないと直感している。ただ、美冬の思いだけは伝えたかったのである。イリヤの耳が、イリヤの心が、完全に人でなくなる前に……


「あなたって、おかしな人ね。ミフユのボディーガードなのに、私におせっかいを焼くの?」


 そんな悟の心を知ったのか、イリヤは苦笑した。その顔の奥底に巣食っているであろう様々な感情のどれか、またはいくつかが陰性気質を呼び込み、人外の存在に取り憑かれる。それが今の彼女の状態である。


「病院にいるエカテリーナも報道で、あなたの今の状況を知ったかもしれない。娘のもとに帰ってやったらどうだ?」


「あわせる顔がないわ。オリンピックで金メダルを取らせたいがために、病気のあの子に競技を続けさせたのは母親の私」


「それは親心?」


「それもあったのかもしれないわ。でもコーチとしてオリンピック金メダリストを育てた、という実績と名誉を私が欲したのも事実よ」


 イリヤは、もう一度顔を上げた。大地が人工の光を得、その代償として星の輝きを失くしたころから、人々は夜空を見上げることをしなくなった。いまの彼女が分厚い黒雲の隙間に見ているものがなんなのかはわからないが、星間のはるか彼方に複雑な思いを馳せているはずである。


「ねぇ、スピーディア。“剣聖”のあなたにはわかるはずよ。その肩書きも名誉ですものね。ましてや、あなたは最後の剣聖……」


「否定はしねぇよ。今となっては笑いのネタになることのほうが多いけどな」


 史上最年少で剣聖のタイトルを手にした悟。だが、その後、二度組まれた防衛戦はどちらも実現しなかった。挑戦者がそれぞれ食中毒とインフルエンザで棄権したのである。そのまま剣聖制度が廃止されたことからスピーディア・リズナーは“最後の剣聖”と呼ばれるようになった。そして、一度も防衛戦をおこなわなかった“偶然の”剣聖、とも。彼の評価が、世の中で二分している理由である。


「私は、ミフユを殺すわ」


 イリヤはもう一度言った。すると、彼女の身体が白い光に包まれた。


『それを……阻止……しタいの……ナラ……わ、タシを……倒……ス、コト……』


 次第に人の声と言葉を失ってゆくイリヤ。光の中で、その肉体が巨大化し、変質していく。


『Uuuuuuuuuu……Gaaaaaaaaaaa!!!』


 そして彼女が放ったのは、夜空すら凍りつかせそうなおぞましい咆哮だった。今の今まで人だったイリヤの肉体は、全長四メートルほどの巨大な花の形へと変生した。植物性の人外である。




 



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