剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 23
「抱いて……わたしを」
美冬は悟に身体を預けながら、男と女の関係を求めてきた。見上げる彼女の、揺れる瞳に微細な感情の動きがみてとれる。それは悟への好意か。いや、別の感情があるのか。これから始まるひめごとを前にして、艶めいた唇が語ることはなかった。
「なぜ?」
だから悟は訊いてみた。男としては当然の問いかけである。
「誰かに、すがりたいの」
対する美冬の回答は投げやりではなかったが、大切ななにかを思い断つような歯切れの悪さがあった。
「母のように慕っていたイリヤはいなくなってしまったわ。スケーターにとってコーチを失うことは酷よ。誰のアドバイスも得られず、そして誰からも見守られることはない。寂しいの、そして、これからが怖い……」
美冬は悟の前で、はじめて涙を見せた。たとえリンクで倒れても立ち上がり、キスアンドクライで審査員からの酷評を受けても観客に笑顔を見せ、誇り高く蘇ってきた女王であり続けた彼女が泣いている。
「君が、そう望むのなら」
悟は、かたわらのダブルベッドに美冬を押し倒した。器用にも彼女のヘアピンを外しながら。ロングヘアがシーツの上に流れる漆黒の海となり、あでやかに広がった。気高き女王は今、剣聖の前で、か弱いただの女になろうとしている。
「嫌なのか?」
「いいえ」
「なら、なぜ泣く?」
「泣いちゃ、いないわ」
いまだ涙を流し続ける美冬の口は素直ではない。だが、その目をしずかに閉じ、受けいれのサインを見せた。悟がニットの裾をまくってやると、形の良い胸を、爽やかなパステルピンクのブラジャーが覆っていた。清楚なイメージの彼女に似合っているが、ひょっとしたらこうなることを予感していたのかもしれない。左右の胸を繋ぐ位置にあるリボンがかわいらしさをアピールしており、勝負下着としても機能するかたちだ。
「ねぇ、スピーディア。わたしには“夢”があるの」
「再来年のオリンピックか」
「ええ」
「故障を抱え、手術しながらも、現役にこだわりぬいてきた理由は、それか」
「そうよ、オリンピックこそが、わたしの最大の夢」
「なら、こんなことをしてる場合じゃないな」
「もう、イリヤはいない。だから誰かにそばにいてほしいのよ」
美冬は右手のひらを悟の左頬に置いた。その感触はあたたかい。心だけでなく身体も、すでに発熱をはじめているようだ。
「あなたは、わたしのボディーガード。だから、ずっと離れずに、そばにいて」
イリヤの代替として悟を求めるようなことを言う。が、その目は燃える感情の光を放っていた。男と女にしかできないことがある。仕事でドライに繋がってきた関係から、いま愛の一線をこえようとしている。
「俺は、世界中のどこにいたって君のボディーガードさ」
だが、そう答えると、美冬は悟の頬から手を放した。期待した言葉を聞くことができなかったからだろうか。その目から熱が消えてゆく。
「スピーディア、もしわたしがオリンピックで金メダルをとったら、そのときはほめてくれるかしら?」
「ああ、君に対する大喝采で盛り上がるリンクに、誰よりもド派手な花束を投げ込んでやるさ」
「その約束、覚えておくわ」
笑いながら身を起こす美冬。涙は、もう枯れたようだ。彼女は乱れた衣服をなおし、ベッドから立ち上がった。
「シャワー、浴びてくるわね」
みだれたロングヘアにかるく手櫛を通すと、美冬はバスルームへと消えた。部屋には、そのうしろ姿を見送った悟だけが残された。すると、フライトジャケットのポケットに入れてあるスマートフォンから着信音が鳴った……
白いバスローブを着た美冬が、湯あがりの香りをさせながら部屋へと戻ってきたとき、そこには誰もいなかった。テーブルの上に一枚の書きおきがのっている。
“君のボディーガードとして、最後の仕事をしてくる。”
美冬が手にとったメッセージは、流れるようで伸び伸びとした筆跡で書かれていた。まるで、彼の自由闊達な生き様を、字面で映したかのように……
“人は夢を追っかけているうちが、一番幸せさ。たとえ、それが遠いところにあるとしても。”
続く一文から彼の心を読み取ることは難しい。世界的な異能のスーパースターたるあの男にも、そういうものがあったのだろうか? まだ見果てぬ夢の途上にいるのなら、彼も美冬も立場は同じなのかもしれない。だが、その世界線は永久に交わることなくゴールまで伸び続けるのだ。女王と剣聖は戦い抜く宿命を持ってはいても、その踏みしめる舞台は違う。かたや美しき銀盤の上。そして彼は、血で汚れた下道をこれからも歩みゆく……
“俺が知ってる美冬なら、きっとまた立ち上がって、オリンピックで金メダルを取るはずさ。”
最後のひとことには、ほんのすこしの愛情があるようにも見える。だが、常人がたどり着かぬはるか彼方に思いをはせる彼は、情事を前にしてここから消えた。最後の剣聖とも“偶然”の剣聖とも呼ばれるあの男の本質は、必然的に戦いに引き寄せられるものなのだ。それはさだめというべきか。
美冬は彼からの書きおきを読みながら、互いの体温が消え冷たくなったベッドに腰かけた。バスローブの中でまだ火照っているであろう胸は剣聖に抱かれるため清めたものであるが、その奥にあった願いは届かなかった。ならば、そこから発する熱と鼓動はもう一度フィギュアスケートに捧げなければならない。コーチのイリヤを失っても、女王はリンクに立ち続ける宿命を持つ。
「フラれちゃったのね、わたし……」
もう、二度と会うことはないと予感したのだろうか。自嘲気味に発せられた美冬のひとりごとを聞くものはいない。結局、彼とは住む世界が違うのだ。
「スピーディアの、ばか……」
その声もまた、誰の耳にも入ることなく薄暗い部屋の中に消えた。剣聖スピーディア・リズナーという人が自分の手におさまるような男ではないと知って出た、切ない悪態だったのかもしれない。
名古屋に隣接する長久手市に
午後九時四十分。伝手で拝借したT社の赤いFRスポーツカーを駆る一条悟は、ヘッドライトに映る御旗山をフロントガラス左側へ置きながら道なりに走った。二リッターの水平対向エンジンは重心が低く、コンパクトな車体も相まって、そのステアリングフィールは軽快である。剣聖として海外を飛びまわることが多い悟は、この大きさの後輪駆動車を扱う機会が少ないため、目的地にたどり着くまでしばしのドライブを楽しんだ。コーナリング時の素直な挙動は心地よいものだ。
御旗山から北へ二キロほどのところに公営の団地が見えた。悟は、その敷地内へと入り、車を停めるとヘッドライトを消した。道路にある外灯からの光が届くため、暗くとも周りが見えぬことはない。異能者は夜目がきくため、なおさらである。
サイドブレーキをひいた悟は車を降りた。雨上がりの外は地面がまだ濡れているが、日中と違って肌寒いせいか湿気は感じない。この団地は鉄筋四階建ての建築物四棟で構成されている。一棟の左右にそれぞれ入り口があり、そこの壁に部屋数と同じだけの錆びついたポストが取り付けられている。中から大量のチラシ類がはみ出しているところを見ると、誰も住んでいない廃団地らしい。そもそも電気がついている窓がひとつもない。
「来てくださったのね、スピーディア」
一台も停まっていない屋根付きの駐輪場の影から声がした。人外に取り憑かれ、ホテルのバーから逃げ出したイリヤの姿がそこにあった。
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