剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 22
イリヤが消えた翌日の朝から、名古屋市内は大雨に見舞われた。灰色の雲に覆われた空は、いつまでたっても晴れず。コンクリートの表面からは湿気がただよい、街ゆく人々の足を重くしている。この時期にしては気温が高く、そのせいで余計に不快感が増すが、天気が世間の空気を読んだのかもしれない。フィギュアスケートの女王ふたりを育てた名コーチが人外の存在に取り憑かれ、高層ホテルの最上階から飛び降りて消えたことはすぐに報道され、テレビや新聞紙面を暗くしていた。
ホテルの高い位置にある一室で香田美冬は窓の前に立ち、雨に濡れる名古屋の地を見おろしていた。時計の針は午後三時すぎをさしているが、外は宵のうちにさしかかったかのように薄暗い。強い風が雨粒の軌道を変え、窓に叩きつける音だけが部屋に響く。テレビはついていない。
窓に手のひらを当て、外に目を向ける美冬の姿勢は、あの夜のバーで夜景を眺めていたイリヤと同じである。エカテリーナと違い血縁はなくとも、師弟とは仕草がどこか似るものなのだろうか。瞳の色は違えど、寂しげな視線もまた、同じものだった。
「そんなに見つめてると、窓に穴があいちまうぜ」
そんな美冬のうしろ姿に、一条悟は声をかけた。だが、振り向くようすも、答える気配もない。フィギュアスケートで鍛えられた形の良い尻が細身のズボンにくっきりと浮かび上がっている。肩が出ているニットからのぞく肌は白く、アスリートであっても服を着ていれば、そこいらを出歩く若い女たちと、あまり外見は変わらない。
「わたしに脅迫状を出したのがイリヤだって話、本当?」
こちらを向かぬまま、美冬は訊いてきた。静寂を破った彼女の、その背中は暗い。
「ああ」
悟は答えた。人外の存在に取り憑かれていたイリヤが逃走したことで、県警と超常能力実行局愛知支局が教え子の美冬に聴取したのである。居場所の心当たりの他、平素の様子や変調の兆しの有無などについて訊かれたはずだ。ともにいる時間が長かったことからイリヤが被憑体であることを知っていて黙っていたのではないか、という疑惑も持ち上がったであろうが、美冬の潔白は証明されたらしい。脅迫状の件も、そのとき聞いたようだ。
「イリヤが“お化け”に取り憑かれているのも本当?」
「ああ」
“人外の存在”という呼びかたは、悟のような専門家や報道関係者がするものだ。一般人は“お化け”、“怪獣”、“幽霊”、“妖怪”、“妖魔”などと呼ぶ。神話や伝承、おとぎ話との関連性は深いとされており、大昔から人々は、それら人外に悩まされたとき異能者を頼ったものだった。世界の大半が自動化され、大国が核兵器を保有し、人類が宇宙へと飛翔体を打ち上げるこの時代になっても、それは変わらない。
「エカテリーナがイリヤの娘だというのは……」
「本当だよ」
「エカテリーナを勝たせるために、わたしに脅迫状をおくり、スナイパーに狙撃させたのはイリヤだというのも本当?」
「そう。君を脅して精神的に揺さぶるのが目的だったらしいが、いっそ引退してくれれば良かったとも言ってたな」
オリンピックまで、あと一年三ヶ月ほど。イリヤが欲していたのは、それに繋がる審査員たちの心象だった。フィギュアスケートが人目を基準とした採点種目である以上、エカテリーナと美冬の間に元々あった実力差がより拡大すれば都合が良かったのだ。女王を倒せるのは女王だけ。ならばエカテリーナを勝たせるため美冬を脱落させる。人道に外れていても手としては確実だった。
「ちなみにイリヤは“オリンピックの魔物を見た”とも言っていた。前回のオリンピックで君が金メダルを逃したときだ」
「そう……」
美冬はカーテンを締めると、こちらを向いた。その目に涙はないが、憔悴しきった顔をしている。当然だ。師とも第二の母とも慕っていたイリヤがライバルのエカテリーナを勝たせるために自分に脅迫状をおくり、狙撃手を雇った張本人だったわけである。明るい顔などできるはずがない。
「まァ、人外に取り憑かれるほどに悩む人間ってのは突拍子もねぇ行動をとるもんさ。気にすんな」
「そういう問題じゃないわ!」
雨に曇った空から注いでいた灰色の光すら遮断された部屋は、ずいぶんと暗い。そして美冬の表情も同様に。心の暗幕が彼女本来の華やかな美貌に静かな影を落としたかのようであるが、口調は攻撃的で荒かった。
「わたしにとってイリヤは母も同然だった。十七歳のころからいっしょだったのよ。そんな人から脅迫状をおくられ、命を狙われた。あなたに、この気持ちがわかって?」
美冬は悟のフライトジャケットの襟を掴み、揺さぶった。その手から伝わる想いは強く、そして切ない。
「飲んでるのか?」
彼女の荒い呼吸から酒の香りを嗅ぎとった。頬のあたりに酔いの加減が見てとれる。テーブルに中身が減った酒瓶と飲みかけのグラスが置いてあった。
「飲まなきゃ、やってられないわ!」
「そりゃそうだな」
美冬は飲む
「ずっといっしょにいたのに気づかなかったわ。イリヤは、いつから取り憑かれていたの?」
「それはわからないが“判明”したのは、こっちに来てからさ」
イリヤの中に人外がいることは偶然わかった。日本大会の女子ショートプログラムを最前列席からプライベートで観戦していた退魔連合会の女性退魔士が探知能力を持っていたのだ。互いの距離が近かったため“効き”が良かったのである。エカテリーナが歴代最高得点を叩き出したあのときだ。
「人外に取り憑かれた原因や時期ってのは、簡単にはわからないものさ」
悟の言うとおりである。ストレスや苦悩が人の心に巣食い、人外の糧となる負の気を増殖させる。イリヤが実娘のエカテリーナと教え子の美冬との間で悩み苦しみ、そのことが原因になったと考えられなくもないが、それを直因と断定するのは難しい。人が抱える悩みなど、ひとつやふたつではないからだ。
「ごめんなさい……あなたのせいではないのにね」
悟の裾を掴んだまま、美冬は身体を預けてきた。酒が入っているからか、それとも一瞬火を放った激情からか、その体温は熱かった。
「でも、いくらエカテリーナを勝たせるためとはいえ、スナイパーを雇ってまで、教え子のわたしを殺そうとするものかしら?」
「あれは“脅し”さ。前にも言ったろ」
美冬の背を抱いてやる悟。束ねられた長い髪からはフローラルの良い香りがした。清楚で可憐な演技を得意とする彼女のイメージに合っている。少なくとも、酒の匂いよりは……
「着弾した位置から察するに、ヤツは君を脅すため、わざと外したのさ。いくら君が演技中で動いていたとはいえ、あの距離で外すプロなんていねぇよ」
このことは、エルサルバドルで捕まったその狙撃手の証言からも明らかになっている。ヤツの目的は美冬を殺すことではなく“脅すこと”だった。大きく外すと警察や異能者機関が勘づいてしまうため、ある程度ギリギリのタイミングをはかったようだが、悟は狙撃の直後にヤツの意図を読んでいた。
「その狙撃手に依頼したのはイリヤだったが、結局脅し目的で、君を殺さなかった。人外に取り憑かれていても、まだ人の心を残していたのかもしれねぇな」
「それって、わたしを慰めてくれるための嘘じゃないの?」
「どう受け止めるかは自由さ。けれどイリヤが君とエカテリーナの間で常に揺れていたのは本当だよ」
会話のさなか、美冬はより強く身体を預けてきた。カーテンが遮光する薄暗い部屋に今はふたりきりである。悟はなにも言わなかった。やや長い沈黙の底、抱き合うふたりの心の疎通に言葉はいらないのかもしれない。美冬から伝わる鼓動のみがアプローチであり、彼女の背に置いた悟の手こそが愛欲への回答だった。
「ねぇ、スピーディア……」
美冬の形のよい唇が、静まり返った空気を割った。
「抱いて……わたしを」
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